今日の行方 〜繰り返す私の時間〜
亜矢
今日
「私、今日五回目なんだよね」幸恵(ゆきえ)は心底うんざりしながらため息をつく。目の前のコース料理も窓から見える新宿の夜景も、幸恵にとっては見飽きたつまらないものだった。ナイフとフォークを持つ手はずいぶん前からテーブルについたまま動いていない。
「え、何が?」善雄(よしお)は久しぶりの幸恵の声に安堵しながら聞き返した。自分に向けられた言葉ではない事は分かっていたが、聞き流す事はしなかった。笑顔を崩さず次の言葉を待つ。しかし一向にこちらを向かない幸恵の態度に再び不安を感じ始め、次第にそれは苛立ちに変わろうとしていた。しばらく幸恵の視線を探したが、我慢の限界とばかりに皿の高級肉に目を戻し残りを頬張った。幸恵は自分の皿にある九割残った肉を見つめたまま、眉間に皺を寄せて息を吐き切る。
「ここのジャンボシュークリーム頼もうよ」善雄に向かって言った。脈絡も何もない無表情な幸恵の言葉で、二人の空気が更に淀んだ。
「失礼します。当店の期間限定メニューでジャンボシュークリームがあるんですが、よければどうですか?」突然現れた大学生くらいの店員が軽そうに声をかけてきた。店員の持つラミネート加工された簡易メニューがシュークリームの大きさと美味しさをアピールしている。
「あ、これ?幸恵が言ったやつ。良いじゃん。食べてみようよ。」楽しい気持ちを取り戻そうと、わざと明るく善雄が言う。
「一つお願いします。」幸恵はメニューを見る事なく店員に注文をすると、五分後には頼んだシュークリームがテーブルにサーブされた。手の平二つ分の大きさな皿からはみ出るほどのシュークリームに、善雄は驚いて思わず声が大きく高くなる。
「すっごい大きいね!皿に乗りきれてないよ!二人で食べられるかなー」善雄が楽しそうにむしり食べ始めた。
「大丈夫。食べられるよ。好きでしょ、こういうの」幸恵はメインの皿を横に押しやりシュークリームをむしり取った。中身はクリームが三層になっていたが幸恵にとってはどうでもいい事だった。シュークリームの大きさも、三層である事も、二人で全て食べきる事も、善雄がこの後トイレに立つ事も、その後こっそり精算を済ます事も幸恵は知っていた。
これで二月十四日は五回目。全て同じ。
幸恵は食後のコーヒーを一気に飲み干すと、善雄に帰りを促した。コートを来てまっすぐ店の外に出て行く二人。清算が済んでいる事を幸恵がなぜ知っているのか善雄は疑問に思ったが、それよりも彼女のずっと変わらない無表情が気にかかり、違和感は無意識のうちに消えた。
「こっちの道から行こう」幸恵は善雄の腕を引いて予約しているホテルへ向かう道ではなく、ライトアップされた公園沿いの道へと向かう。
「俺も同じ事言おうと思ってた。以心伝心?」善雄は嬉しそうに幸恵に寄り添い、引かれた腕を解いて力強く手を繋いだ。いかにも夜のデートコースといったムードの遊歩道を会話もなくしばらく歩く。ライトアップされているからか、すれ違う人の顔を認識できる程度の明るさはある。車の音は聞こえない。後には若いカップルが歩いている。前はまだ誰もいない。少しうねった道を行く。まっすぐ行って階段の手前。
ドン。「あ、すみません」
幸恵はまたかと思いつつも前から来た女性に軽く謝り返すが、すでに女性は少し遠くを走っていた。幸恵は沈んだ気持ちに追い打ちをかけられ、助けを求めるように善雄の腕にしがみついた。ランダムに配置されたライトを横目で追いながら歩いて行く。
「今日何かあった?」軽い調子で善雄が聞く。軽い調子で答えてくれる事を期待していた。
「何もないよ、平気。体調も良いよ」幸恵はこれ以上聞かないでといった様子でキッパリと言う。二ヶ月前から善雄が過剰に幸恵の体調を心配し続けるため、聞かれる前に答えるようになっていた。幸恵は何でもないとばかりに、しがみついていた善雄の腕から離れた。お互いの手はしっかりと繋がれていたが、取り巻く空気はヒリヒリと乾き切り、とても結婚記念日を迎えた夫婦のものとは思えないものだった。遊歩道を抜けホテルに着く頃には善雄の優しい笑顔も消えていた。豪華に飾られたホテルのロビーも善雄の気持ちを回復させる事はできない。アニバーサリー仕様のベッドメイキングも滑稽に映った。
「今日はありがとう」先に眠ろうとしている善雄に幸恵は懺悔の思いを込めて言う。返事はない。彼が眠るベッドに静かに入り込むと、明日への希望を持って目をつぶった。意識が段々と遠くなるにつれて瞼の裏が白みがかり、熱中症になった時のようにチカチカと光が見えた。
––– まただ…
幸恵は違和感を感じ取ったが抗う事もせず、ただただ睡魔に身を委ねた。
携帯電話のアラームで幸恵は目を覚ました。いつもの動作でアラームを消してから携帯電話を見つめる。画面の時計は朝の六時半。日付は二月十四日。今寝ている場所は自宅のベッド。隣にはまだ善雄が寝ている。
––– またか。もう嫌だ…
幸恵は携帯電話を放り、仰向けのまま左腕で両目を覆った。そして、再び始まる今日に絶望した。
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