魔女の企み

珠屋 ショウ

序章

1 森の奥の小さな灯火

 ヒョウオオオオ……と風がうなりを上げた。

 夜空を覆い尽くす厚い雲が激しく流れていく。時折、月と星のかぼそい光が瞬くが、一瞬にして漆黒の闇に飲まれていった。針葉樹林の枝葉のざわめきも不気味に響く。ザアァ……と、長く、時に短く。


 不穏な空気の流れに、ジェラルドの愛馬が不安げにブル……とうなり声を上げて脚を止めた。城砦からこの森の奥まで一昼夜駆け抜けてくれた疲労もたまっているだろう。宥めるように首筋を撫でる。鞍を降りて、手近な木の枝に手綱を結びつけると、主人に置いて行かれることを不安視したのだろう。馬は鼻面をジェラルドの肩に擦り付けた。

 ジェラルドは被っていた外套のフードを下ろして、もう一度鼻面を優しく撫でてやった。それで、馬は落ち着きを取り戻した。


 ざく、ざく、と枯れた雑草に覆われた地面を踏みしめてジェラルドは歩き始めた。

 生い茂る森の暗闇の中、僅かに開けたこの窪地に、不揃いな木の板をただ重ねて立てただけの粗末な小屋が見える。木戸の隙間から漏れる灯りが細くゆらめていて、ジェラルドは探し求めていた人物をついに探り当てた小さな興奮と、不確かな存在に対する恐れを同時に感じて、無意識に腰に下げていた長剣の柄に手をやった。


 生ぬるい風に背を押されるように、ジェラルドは小屋に近づいていく。

 息を殺して木戸の隙間を覗くと、小屋の中は暖かみのある橙色の灯りに照らされていて、土がむき出しの床には無数の壺や瓶が、壁には毛皮や動物の骨、干した穀物などがつるされていて、埃だらけで雑然とした様子ではあるが、そこには確かに人間の営みらしきものが感じられた。

 奥の竈の上には鍋が置かれ、何かを煮込んでいるのかぐつぐつと湯気を立て、柔らかな甘い匂いを漂わせている。その竈の前で、うずくまるようにして一人の老婆が火の加減を確かめていた。


「……なあにしているんだい。お入りよ」


 突然しわがれた声にそう呼ばれ、ジェラルドはびくりと肩をふるわせた。

 風もないのに、木戸が勝手にきいと開く。立ち尽くすジェラルドに、竈の前から立ち上がったその老婆は振り返った。


 ほぼ直角に曲がった腰のせいか背丈はジェラルドの腰程までしかないであろう。古びたつぎはぎだらけのローブは丈が長すぎて、一歩ずつこちらに近づいてくるたび床の上をずるずると這っている。まだ身動き取れないジェラルドに、ほれ、ともう一度中に入るように促す。ゴクリとつばを飲み込んだジェラルドは、意を決したように一歩小屋に踏み込み、後ろ手に木戸を閉めた。

 小さな丸椅子に腰掛けた老婆はもう一つの椅子を指し示したが、ジェラルドは無言のままかぶりを振った。


「……貴女が、『森の魔女』か?」


 老婆はジェラルドの姿を頭のてっぺんから足先まで遠慮無く眺めやって、ひっひ、と皺だらけの顔を歪めて笑った。


「人に名を聞く前には自分から名乗るものだろう。見たところ騎士様だろうに、それくらいの礼儀も知らないのかい」


 腰に下げた長剣の鞘を見て、ジェラルドの身分を悟ったのだろう。言われ、ジェラルドはややためらいつつも名乗りを上げた。


「私はウルムヴァルド王国騎士団を預かる、ジェラルドと申す」

「へえ、騎士団長様かい」

「貴女を『森の魔女』と見込んでお願いしたいことがある」

「なんだい。――いや、当ててやろうか。儂のことを知っていての願いというのなら、一つしか無いからねえ」

 老婆は目を見開いた。緑の瞳が、らんらんと光ったかに見えた。


「『薬』だろう。『薬』が、いるんだね」


 ジェラルドは静かに頷いた。老婆の笑い声が高くなった。


「やれやれ、人間という者はほんとうに勝手きわまりないことだ。それにずうずうしい。かつての伝説を聞いて来たんだろうが、それでも『人間』なんかに薬を恵んで貰えると思っているのかい」

「そこを伏してお願いする。どうか……」

「お断りさ」

 老婆はそう言い捨てると、腰をさすりつつゆっくりと立ち上がった。背を向け、邪険に手を払って「出て行け」と促す。だがジェラルドは諦めなかった。


「無論ただでとは言わぬ。金なら――」

「いらんよ。馬鹿な男だねえ。この暮らしを見てご覧、どこに金が必要なんだ」

「ならば、なんでも望みを言って欲しい。貴女の望むものならばたとえ世界の果ての秘宝でも」

「ほほ、気前の良いこと。騎士団長自らのお出ましといい、これは主命か。薬を欲しがっておるのはウルムヴァルド国王か。おかしい話よ。王とはいえあのような小国の王程度が、いったい儂の何を満足させられるのか。いらん、いらん、なあにも、いらん。さあとっとと去ぬがいい」

 しかし振った手首を、ジェラルドは反射的に掴んだ。ぎっと、老婆の視線に鋭いものが混ざる。

 ジェラルドは、低く呟いた。

「主命では、ない」

 そして、枯れ木のように細い老婆の手首を、そっと離した。


「薬は私が求めてのことだ。……病の者がいる」

 老婆は痛みを感じたろう手首を、しかし何もせずにだらりと下げた。口の端に乗せていた嘲笑を消し、改めてジェラルドに向き直る。

「……誰だい。家族か。そなたの子か」

「妻だ」

 ジェラルドの表情が暗く陰った。

「熱病に冒された。もう十日以上高熱が下がらず、水さえ飲むのも難しい。意識は途切れがちで、娘が母を求めて泣く声にだけ、正気を取り戻す」

「娘がおるのか」

「まだ三つだ。病がうつってはならぬと引き離しているが……」


 ――おかあさま、と閉ざされた病室の扉の前で泣く娘の声。耳にその声が蘇ったのか。ジェラルドは苦しげに眉根をしかめた。


「国中の薬草を取り寄せた。だが効かぬ。医師はもう手の尽くしようがないと。……娘に、最期の別れをさせてやれと言う」

 絞り出すようなジェラルドの声に、だが、老婆は無表情で視線を外した。興味なしという老婆の態度に、ジェラルドの声が大きくなる。


「頼む! 『森の魔女』はかつて『人間』であった頃、どのような病も治す薬草の調合方法を知っていたと聞いた。頼む! 妻に……その薬を、どうか!」


 その懇願の声に反応を見せたのは、老婆ではなかった。

 小屋の隅の小さなカゴの中で、わずかな身じろぎの気配があった。

 ウウゥ……とやや甲高いうなり声が聞こえたかと思うと、カゴの中から鋭い光が放たれてジェラルドの目の前に飛びかかった。思わず振り払ったジェラルドは、それが光ではなく白金色の毛皮を持つ、まだ小さな仔狼であることに気づいた。

 払ったジェラルドの手をかわし、宙を舞うかのように近くの棚の上に飛びすさった仔狼は、琥珀色の瞳を光らせてジェラルドを威嚇している。唸る口元には、小さいながらも鋭い牙が見えた。


「これやめい、白チビ。部屋を散らかすんじゃないよ、阿呆が」

 が、老婆の抑揚のない声に、さっと表情を変える。老婆はやれやれという風に立ち上がり、仔狼が蹴飛ばした木の皮や毛皮の切れ端、ひっくり返したカゴなどを、おっくうそうに拾い集めた。


「『人間であった頃』……のう」

 しわがれた呟きに、僅かな嘲り。

「その頃に、魔女が同じ人間に何をされたかも知っておろうが」

 言葉を詰まらせたジェラルドを見やる老婆の緑瞳は、奥底が暗く濁っている。


「娘が、泣く、か。――はっ、知るかね! ……魔女の子も、泣いた。夫もな。父も、母も、兄達も、焼き討ちに遭った薬草園の炎にまかれ、泣き叫びながら焼き殺されていった」


 次第に掠れていく声が、外を吹き荒れる風の音に紛れて消えていく。

 だが老婆は、しばらく押し黙った後にふうと息を吐くと、くるりとジェラルドに背を向けた。


「――構わんよ」

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