[創作論]くどすぎず、レンズを外して

 物語の初めにおいて、適切な情報(人物の姓名、性、その他情報など)がないと、読者の想像がついていかなくて離脱率が上がる……そんな記事を見かける。

 離脱する理由は読者側に数多あるので、その究明などはともかく、物語そのものの質を上げるに越したことはない。


 極端な話、その情報が、十分な情景を映し出すだけのものが記されているか、ということなのだが、全てを無秩序に記せばいい、というものではない。

 例えるならば、一枚の絵を、言葉の情報からほぼ完全に再現できればいい、というわけではない。読者に委ねるのもまた必要なことで、いわば、想像の余地、というものと言える。

 何を感じられて、何をみて、そういう状況に置かれている私はといえば、こういうやつである。これを繊細に描くのも立派な技術だが、余地、描かないこともまたそのひとつなのである。


 極端な話をいってしまえば、ものを取るときに指の動きまで、比喩以上に子細に書く必要はないし、あくびをした友人の口の中の様子まで見なくていいのだ(そんなことをする人はいないだろうが)。

 文字の物語というのは、読者の中で完成するもの。筆者は水先、もとい文字先案内人なのであって、声を揺らして感情を示す語り部ではない。

 ただの白黒、踊る線から、読者の想像力を掻き立てることが一番必要なことではないだろうか? それを産み出すのが、描かれない部分、余白なのである。


 余白がありすぎると、ばらばらな絵が生まれ、なさすぎれば、無秩序な境界の絵が生まれる。

 そんなイメージを私はしている。


 ちなみに、想像の余白、というものを意識し始めたのは、何年も前のことになる。

 文章から文字から映像を作る、というテーマを思い付いたのだが、文章というものは、最終的に読者に読まれることによって完成するもので、映像などの形で押し付けるものではない、という話を聞いてからだ。

 なるほど。文章というのは、特に物語というのは、出版されたからゴールというわけではないのだと気づいた。そこにある文字の羅列が、どう読者の中で踊り出し、物語を完結させるのか、が終わりなのだと気がついた。

 あくまでも、筆者は案内人。全てを導けるわけではない、ただの人。故に、同行している読者様は、どのように魅えているのか。それは余白がないと、働かせるのは難しいと考える。

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