第3話 ウソつきは嫌い
ヴァンの処遇については、あらかたリッツが予想した通りにことが進んでいった。彼は警察に突き出されることなく、住み込みで働ける先をフランクに世話してもらえることになった。リッツの前では軽い調子で話していたヴァンだが、フランクとゲルダに対しては礼儀正しく真摯な態度で自らの境遇について説明した。おかげで彼らの中ではヴァンは礼儀正しく真面目で、気の毒な少年ということになっている。リッツの目にはもうすっかり体の調子も戻っているように見えるが、大人たちはしばらく養生するべきだと言った。フランクが住み込み先を見つけてくるまでの間、ヴァンはリッツと同じくゲルダの小さな家に世話になることになった。
そうなると目下問題となるのは寝床をどう確保するかだった。ゲルダの家にはベッドが二つしかなく、ヴァンが使っているのは普段ゲルダが寝ているベッドだ。リッツはそこと同じくらいの大きさの個室とベッドを使わせてもらっているので、今回はそこをゲルダに譲り自分は毛布をかき集めて居間兼食堂のテーブルの下で眠ることにした。ゲルダは子供をそんな場所に寝かせることに抵抗を示したが、朝早く仕事に行くときにゲルダを起こしたくないこと、10歳にもなってゲルダと同じベッドで寝るのは恥ずかしいこと、それにテーブルの下にまるで巣を作るように潜り込むのにわくわくしていることをリッツが主張すると渋々ではあるが認めてくれた。元気いっぱいな子供と違って、年老いたゲルダが床で寝るのは辛いだろう。リッツはゲルダが気にしないように、努めて楽しそうに寝床の準備をした。毛布にすっぽりとくるまれてしまうと、急ごしらえの寝床は予想よりも温かい。眠気がすぐに襲ってきて、リッツは案外心地よく眠りにつくことができた。
夜中に目が覚めたのはテーブルの下で寝始めて二日目の夜だった。床板のきしむかすかな音で目を覚ましたのだが、本当に小さな音であり、音のせいというよりもむしろ床板がきしんだ振動で目が覚めたのではないかと思うほどささやかな音だった。暗闇の中目を開いたリッツはとっさに息を殺す。テーブルの下にいることを気付かれないように、衣擦れの音すら立てないように固まった。
狭い部屋の中、テーブルの横をゆっくりと歩く影がある。すり足で床を揺らさないように、足音を立てないように、一歩一歩慎重に体重を移動させながら歩いていく。ゲルダではない。彼女は寝ているリッツを起こさないよう忍び足で歩くだろうが、ここまで徹底的に気配を殺すことはしないだろう。横になった体勢のままでいるリッツの視界に白い素足が映った。足音を立てないためか靴は履いておらず、手にぶら下げているのが見える。貨物室に落ちていたと言って後からフランクが届けてくれたヴァンのひも付き靴だ。
影が通り過ぎてしばらくすると、今度はドアがきしむ音が聞こえてきて、外の冷たい空気が流れ込んできた。リッツの体が冷気にあてられてひとりでに震える。影がまだそこにいるのかどうかも実際には分からないが、なんとなく見られているような気がして、リッツは体の硬直を解いた。寒さで目が覚めたがまだ寝ぼけているという風を装い、寝返りを打って毛布に顔をうずめる。床にうつ伏せになって細く目を開けると、戸口に立つ人から伸びた影がうっすらと板張りの床に伸びていた。下層には街灯などほとんど設置されていないので夜は真っ暗だが、ここは港への出入り口が近いこともあり遠くに一つだけ街灯が見えるのだ。その灯りがここまで届いて影を作っているのだろう。外の暗さに迷っているのかリッツの狸寝入りに気付いたのか、影の主はしばらく戸口から動こうとせず佇んでいたが、やがて静かにドアを閉めて出て行った。
リッツはがばりと勢いよく身を起こす。滑るように毛布から抜け出すと、椅子にかけていた自分の上着を引っ掴んだ。足音を立てないよう細心の注意を払いながらドアへ飛びつき、ぴたりと貼り付いて外の様子を伺う。
外はまだ真っ暗だ。人工太陽が下層の街を照らすまでにはまだ数時間ある。居住区の住人たちはみな寝静まっているようで、往来に人の姿はない。ただ一人、10メートル先で地面にしゃがみこむヴァンの背中が見えた。靴ひもを結んでいるようだ。リッツはドアを細く開き、猫のようにするりと外へ滑り出ると、隣家との小さな隙間へ身を隠す。地面に伏せてもう一度ヴァンの方を覗くと、彼はリッツに気付くこともなく立ち上がったところだった。しばらく辺りを見回してなにか考えている様子だったが、やがて遠くに見える街灯の方角へ向けて歩き出す。
街灯のほのかな灯りは港や上の層に通じるうずまき状の螺旋階段を照らし出していた。広い海の中にははるか昔に人類が沈めた人工島がいくつも存在している。リッツは自分が生まれた島とこの島の二つしか目にしたことはないが、内部の構造や大まかな造りはほとんど同じだ。おそらく他の島々も似たような構造をしているのだろう。ゆるくカーブを描き深海へ潜っていく巻貝の形だ。そのことを知っていれば、たとえ初めて訪れる島であっても、あの螺旋階段がどこへ通じるものであるかは自ずと想像がつくだろう。迷いなく進むヴァンを見失わないよう、リッツはこそこそと後を追っていった。
真っ暗な螺旋階段に規則的な足音が響いている。リッツは距離を開けて追いかけながら耳を澄ませた。港へ繋がる細長いこの空間では音がよく反響する。それほど離れてはいないはずだが、ヴァンがどれくらい上を上っているのかよく分からない。うっかり追いついてしまわぬように一段一段同じリズムで上っていく。毎日昇り降りしているため暗くとも足下に不安はない。港への扉まであと少しという所で、一足先にたどり着いたヴァンが扉を開閉する音が聞こえた。リッツは一気に階段を駆け上り、まだ揺れている扉を勢いよく開く。
飛び出した先の港はまだ暗い。大きなドーム型の天井には小さな非常灯が点いており、一日中誰かが交替で詰めている管制室の灯りも遠くに見えているが、荷物置き場になっているこの場所までは光が届かない。乱雑に置かれた荷物の間に、こちらを振り返り固まっている少年のシルエットがぼんやり浮かび上がっていた。
「どこ行くつもり」
リッツはじっと彼を見据えて問いかける。目は暗さに大分慣れてきているが、まだ相手の表情までは読めない。
「そこにいるのはリッツ君か。こんな夜中に出歩くなんて感心しないね」
「きみこそ」
「僕の後をつけてきたの」
「そうだ」
ヴァンの反応には余裕が感じられる。リッツは彼を睨みつけたまま後ろ手に壁へ右手を伸ばし、スイッチに手を触れた。
「ちゃんと答えて。このスイッチが何だか分かる」
「さあ」
「非常用のベルだよ。ぼくが押したらサイレンが鳴って人が集まってくる」
ヴァンは押し黙った。本当は非常用ベルなどではなく、ただ階段の灯りを点けるだけのスイッチなのだが、彼には気付かれていないようだ。リッツが反応を待っていると、やがて呆れたように軽く息をこぼして笑う。
「そんなに警戒されると困っちゃうな。ちょっと探し物がしたかっただけなんだ。夜中に黙って抜け出したのは悪かったけど、匿ってもらっている身分で探してもらうのも気が引けてね」
「ウソだ。きみの物がまだ鯨の中にあるなら、その靴を見つけたフランクさんが気付くはずだ」
「信用ないなあ」
「あたりまえだ、ウソつきめ。ぼくは知ってるんだ」
リッツは吐き捨てるようにそう言うと、さすがに気分を害したらしいヴァンが抗弁しようとするのを遮って続けた。
「きみ、女の子だろ」
リッツの叩きつけた言葉は効果抜群だった。ぎくりと体を強張らせ言い訳を飲み込んだヴァンが探るように聞き返す。
「そうか、看病してくれたもんな。他の人も知っているのか」
「知っているのはぼくとゲルダばあちゃんだけだ。でもこれはぼくしか知らない」
右手をスイッチの上に置いたまま、左手でポケットを探る。出てきたのは折りたたまれた一枚の紙だ。ポケットに入れたまま眠っていたせいでくしゃくしゃになっている。リッツは片手でばさばさと何度か紙を振り回し、開いたそれをヴァンに見えるように掲げた。
「きみの名前はヴェンディ・クルーズ、指名手配犯だ」
仕事中フランクが持っている指名手配犯の似顔絵である。リッツはそのうちの一枚を拝借してきたのだ。今は暗くてほとんど見えないだろうが、似顔絵には癖のないグレーの長い髪、濃いブルーの瞳を持つ少女が描かれている。雰囲気も表情も目の前の実物とは似ても似つかないが、すっきりとした目鼻立ちはよく似ていた。
「市長の娘を誘拐し逃亡したそうだね。指名手配されるやつなんておじさんやおばさんばかりだから、きみのことは知ってた。女の子が女の子をさらって逃げるなんておかしいし、家出でもしたんだろうなと思ってたよ。きみが一人でここに来るまでは」
リッツは似顔絵を下ろし、器用にも片手で折りたたんでポケットにしまい直した。
「参ったな。君がそこまで賢い子だとは思わなかった」
「さらった女の子がどこに行ったのかはどうでもいい。ぼくが聞きたいのは、港のおじさんたちやゲルダばあちゃんをだまして、きみが何をしようとしているのか」
「それを知ってどうするの。さっさと警察に突き出せば済む話だろ」
「きみがどうするか聞いてから決める。もし、また密航して別の島にこのまま逃げるなら、ぼくは誰にもきみのことを言わない。でももしきみのせいで島の人たちが危険な目に遭うなら、今すぐにでもこのサイレンを鳴らしてやる」
お腹に力を入れながらリッツは啖呵を切った。スイッチの上に置いた右手がしびれてきている。ヴァンの返答を待つまでのほんの少しの時間がとても長く感じられた。この条件を素直に呑んでここから去ってくれればいい。そうすれば大事な人たちを守ることができる。そんなリッツの願いもむなしく、彼女はくすくすと声を上げて彼を嘲笑った。
「サイレンを鳴らして困るのは君の方じゃないか」
背中に氷の粒を滑り込まされたように、リッツの体がぴんと緊張する。冷や汗を浮かべながら、どういうことだと目線だけでヴァンに問いかける。
「密航者を発見しておきながら警察に通報するでもなく匿って、しかもその密航者が実は指名手配犯でした。そんなことを正直に言って何のお咎めもないなんてありえないって君なら分かってるだろ? だからこそ君は僕の正体に気付いていながら誰にも言わず僕を問い詰めることにしたんだ。誰かに僕が犯罪者だって知られる前にこの島から追い出したいんだ」
リッツは黙って唇を噛みしめる。ここで黙るのは彼女の言葉を肯定することだと分かってはいたが、うまい返しが思いつかない。右手がしびれている。このスイッチではもう彼女を脅せない。
悔しそうにうつむいたリッツを値踏みするように見やり、ヴァンは余裕ぶって腕を組んだ。
「リッツ、僕と取引しよう」
この状況をおもしろがっているような、愉快そうな声音でヴァンが囁く。
「僕が何をしようとしているのか知りたいと言ったね。最初に言った通り、どうしても探したい物があるんだ。君が探し物を手伝ってくれたら、僕は大人しく島から出ていくよ。僕は住人である君の案内で効率よく探し物ができるし、君は僕を穏便に追い出すことができる。悪くないだろ」
「探し物って、なに」
警戒を滲ませつつリッツが尋ねる。誘拐犯らしく、高く売れそうな子供、などという答えが返ってきてはたまらないと思ったのだ。ヴァンはさらりと答えた。
「友達」
友達。思いがけない単語でリッツは返答に詰まる。人探しを手伝えというのか。とても無理な話だ。一つの島には数万人の人が暮らしている。その中に彼女の探し人がいるかどうかなんて分かるわけがない。リッツが無理だと答えようとした時、それに被せるようにヴァンが彼の右手を指さした。
「手、下ろしなよ。それサイレンじゃなくて階段の灯りを点けるスイッチだろ」
リッツはぽかんとヴァンの顔を見返す。驚いたのは一瞬だけで、すぐにじわじわと怒りが湧いてきた。彼女は最初からこれがハッタリだと気付いていたのだ。
「観念しな。君に拒否権はないよ」
したり顔で笑うヴァンに対し、リッツは歯ぎしりをするしかできなかった。
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