祈りと願いとあなたの手
架月 夜
其の一
夏も盛りになり、今日も朝っぱらから信じられないほどの暑さだ。太陽はじりじりと足元のアスファルトを焼いている。私は自分の体重の分だけ、少し軟らかくなったアスファルトの上に沈み込んでいた。肩にかけた学生鞄は教科書や筆記用具その他もろもろでぱんぱんに膨らんでいて、重たい。地面に下ろしてしまいたいところだが、黒い革でできた学生鞄を鉄板のようなアスファルトの上には置きたくない。
首元を汗が伝う。鞄の紐が喰いこむ肩はじわりと濡れていく。目の前の遮断機はまだ上がらない。
私の通う中学校は線路の向こう側にあるから、学校へ行くには必ずこの踏切を通らなければならない。入学した春の頃は踏切が開くのを待つのもさして苦にはならなかったが、こう暑くなってくると話は別だ。ここの線路はそれほど頻繁に汽車が通っているわけでもないのに、一度閉じるとなかなか開かない。夏も暑くて嫌だけど、冬になったらそれはそれで寒くて辛いだろう。
大きな欠伸を一つした。口を開けるところをまったく隠していなかったことに気付き、遅ればせながら手をあてる。にじんだ涙を拭う。どうせ誰も見てはいないのだから、そんなに気にすることもないだろう。そこそこ人通りの多い道だが、今日はなぜか私以外に人の姿は見当たらない。まさか遅刻しているのかと腕時計を確認するが、いつも通りの時間だった。何も問題はない。
私はもう一度欠伸をした。今度は一応口を隠しておく。昨夜は夢見が悪くあまり眠れなかったのだ。さっさと学校へ行って、少しでも居眠りしておこうか。私は重たい瞼を重力に従わせ、道の真ん中に突っ立ったまま目を閉じた。カンカンカン、とうるさいサイレンが鳴っている。遠くでは蝉の声が聞こえる。蝉の声も夏の騒音としては結構なものだが、サイレンの音には負ける。他のすべての音をかき消して、サイレンは私の耳の中でぐわんぐわんと反響した。
ぱん。
体の横にだらりと垂らした手を誰かに叩かれて、私はハッと目を開けた。一瞬だけだが本当に立ったままで眠ってしまったようだ。手を叩いたのは誰だろう、と振り返った私の鼓動が跳ねあがった。いつの間にか、私は、踏切の真ん中で呑気にも立ち尽くしていたのだ。
サイレンはまだうるさく鳴り続けている。遮断機は上がっていない。汽車が来る。
なぜ。どうしてこんな場所に私は立っているのか。ここにいちゃいけない。そんなことは分かっている。それなのに足がすくんで言うことをきかない。見やる遮断機の向こうに人影はなく、助けも期待できない。
このままでは轢かれる。
「行っちゃだめです、おねえさん」
優しい、サイレンにかき消されそうな小さい声が耳元でそう囁いた。
じっとりと嫌な汗をかいた私の手を、一回り小さな手がぐいと引く。麻痺した足を引きずるようにして、私はひどくみっともない恰好で遮断機の外へと倒れ込んだ。
がたんがたん、と枕木を揺らして汽車が私の足のすぐそばを通り過ぎていく。私はそれを呆然と見送りながら、少し遅れて全身からぶわりと汗がにじみ出てきたのを感じていた。気管の壁がくっついてしまいそうなくらい喉が渇いている。無意識に息を止めていたのか、頭がくらくらして息が荒い。私は肩で息をしながら、言葉もなく救いの主を振り返って仰ぎ見た。
そこには十歳ほどの少女が立っていた。その髪と目の色はおよそ日本人にはあるまじき色である薄茶色であるが、顔つきは私たちと変わらない日本風の顔である。外国人とのハーフの子どもだろうか。少女はうっすらと笑みを浮かべ、私を見下ろしている。
お礼を言わなくちゃ。そう思ったが、渇ききった私の喉からはうまく言葉が出てこない。とにかく落ち着こうと、アスファルトの上に這いつくばった状態から立ち上がる。
「え……」
立ち上がって少女のいたところを見れば、少女の姿は忽然と掻き消えてしまっていた。周囲を見渡してもどこにも見当たらない。隠れるような場所もない。一体どこへ行ってしまったのだろうか。立ち上がる前、少女との距離は一メートルもなかったはずなのだが。
状況を理解できずに立ちすくむ私の後ろで、サイレンの止まった遮断機がゆっくりと開いた。
「あそこの踏切って、幽霊が出るらしいぜ」
クラスの男子がそう言い出したのは、私が今朝の体験談を語り終えたときだった。
「俺の兄ちゃんの友達が見たんだってさ。踏切の中に煙みたいな半透明の人間が立ってたんだって。きっとあそこで自殺した人が、成仏できずにさまよってるんだ」
「私も聞いたよ。夕方の四時ちょうどに踏切が閉まると、幽霊が出てきて踏切の中に引きずり込まれちゃうの。幽霊は一人で死ぬのが寂しいから、一緒に死んでくれる人を探してるのよ」
私の机を取り囲んで、級友たちは楽しそうに怪談話を始める。私は皆に気付かれないよう、こっそりため息を落とした。失敗した。私は心霊現象に遭遇した話をしたかったわけではない。ただ、ハーフの子どもなんて珍しいものを見たから、それもお礼も言えないうちにいなくなってしまったから、誰か知っている人はいないかと思っただけだ。この反応を見る限り、その子のことは誰も気にも留めていないようだけど。
怪談も幽霊も嫌いだ。大嫌いだ。
言い訳と思われるかもしれないが、別に怖いわけじゃない。どんな怖い話を聞いたって、夜中にトイレに行くのも平気だし、悪夢にうなされたこともない。ただ嫌いなのだ。だって、むかつくから。
「透子ちゃんが汽車に轢かれそうになったのは、きっと幽霊の仕業なのよ」
馬鹿みたいに自信満々にそう言い放つ級友に向けて、私は愛想笑いを浮かべる。すると彼女は私の反応の薄さが気に食わなかったのか他の人に矛先を変えた。彼女が振り返った教壇の前には、間が悪く一人の男子が立っていた。
「ねえ、高藤君って霊感があるんだよね。やっぱりあそこの踏切って幽霊、いるの」
「へ」
教卓から連絡帳の山を下ろしていた男子は怪訝そうにこちらを向く。
高藤君、と呼ばれた彼は、黒縁の眼鏡をかけた小柄で大人しい男子だ。私とは小学校が別なのでほとんど話したこともなくよく知らないが、彼の噂については耳にしたことがある。曰く、彼は「見える」人らしい。いじめを苦にして自殺した女生徒の霊を成仏させたとか、プールで生徒の足を引っ張って溺れさせた幽霊を退治したとか、ありえない話をいくつか聞かされたことがある。本当にばかばかしい話だ。
「踏切って、学校の近くの」
「そう、そこ」
「どうなのよ、霊感少年」
色めき立つ級友たちに対して、高藤君は落ち着いた様子でちょっと首を傾げる。
「あそこは何もいないと思うけどなあ。踏切よりも、古い住宅街の方の神社とか……あっち方面の方が、いろいろと怪しいよ」
「怪しいって」
「オバケが出るの?」
「行ってみようぜ!」
「ねえ高藤君、その神社どこにあるの」
高藤君はにこりと笑みを作ると、連絡帳の山を抱えて首を振った。
「ダメだよ。そうやって興味本位で足を踏み入れたりすると、怒らせちゃうからね」
「えー、なにそれー」
「教えないってことかよ」
「あ、俺、その神社知ってるかも。今日の放課後にでもみんなで行ってみようぜ」
「おっ、いいね!」
盛り上がりだした面々は、高藤君が「一応忠告したからね」と告げて去っていったのにも気付かない。彼らはすっかり神社での幽霊探索に夢中になってしまっている。
私は誰にも気付かれないよう、こっそりと深いため息を漏らした。
その日の帰り道、私は件の踏切で高藤君の姿を見かけた。
放課後の幽霊探索には私も誘われたのだが、そんなものに付き合うわけもなく、適当な理由をつけて断った帰りである。家の近い友達はその幽霊探索に行ってしまったり、塾やら習い事があったりして、今日は一人だ。話し相手もなく、ぼんやりと歩いていた私の視界に、ふと男子生徒の後ろ姿が飛び込んできたのである。少し大きな半袖のシャツを着た小柄な男子――高藤君だ。
下校中なのだろうが、それにしては様子がおかしい。踏切は開いているのに線路を渡ろうとはせず、うろうろと遮断機の周りを歩き回っている。時折立ち止まり、俯いて何かを考え込んでいるようにも見える。なにか落し物でもしたのだろうか。
それとも、今朝の私の話を聞いて、幽霊を探しに来たのだろうか。
すうっと体の中が冷たくなったような気がした。霊感少年という噂を聞いた時点であまりいい印象を持ってはいなかったが、怪談やら幽霊やら、そういうあの世のものに興味があるのは本当のことらしい。わざとらしく神社の話を持ち出して級友たちの意識を踏切から逸らしたのは、一人で調査するためだったのだろうか。踏切で成仏できずにいる幽霊を祓おうというのか。
馬鹿みたい、と私は彼に聞こえないよう小さな声で呟いた。幽霊なんかいるはずないだろう。声に出したことで苛々した気持ちが少しだけ収まる。これ以上気にしないことにしようと、私は彼を無視して踏切を通り過ぎて行った。
「あっ」
遮断機の橫でかがみこんでいる高藤君の真後ろに来たとき、彼の方から少女の声が漏れ聞こえた。思わずそちらに顔を向けると、そこにいたのは今朝私を助けてくれたハーフの幼い女の子だった。高藤君の傍らに寄り添うようにして立っている。
「あ」
今朝はありがとう、とお礼を言おうとしたとき、高藤君が怖いくらいの勢いで振り返った。私の姿を捕えた目がまず驚きを浮かべ、次いでこちらがたじろぐほどの怒りに変わる。私は一瞬、祖父の家に飾ってある般若の面を思い出した。
「何しに来た」
彼の口から発せられた声はぎょっとするほど低く、怒りがこめられていた。驚いたのは気圧されてなにも言えない私だけでなく、ハーフの少女もまた彼の迫力にびくりと身をすくませている。
「ああ言えば神社の方へ行くと思ったのに。なんで邪魔しに来るんだ」
すっくと立ち上がり詰め寄ってくる彼の身長は私とほとんど変わらなかったが、本気で怒っているらしいその勢いに押されて思わず一歩足を引いてしまった。高藤君の後ろでハーフの少女がおろおろしているのが少し気の毒だが、まずは彼を落ち着かせなければ少女の相手もできない。
「あなたなにを言ってるの。いつ私があなたの邪魔したって」
「してるじゃないか。今。現在進行形で」
「はぁ?」
邪魔もなにも、話しかけてきたのは向こうの方だ。あまりに理不尽ではないかと、ふつふつと怒りが湧いてくる。自分の顔が険しくなったのが分かった。ハーフの少女が泣きそうな顔になったのが少し申し訳なかったが、怒りの方が勝る。
「なによそれ。なんでそんなこと言われなくちゃいけないのよ」
「そもそもおまえが諸悪の根源なんだよ。そのうえクラスの奴らまでここに連れてこようとして……心霊スポットだとかなんとか言って、遊び気分で見物に来るものじゃないんだ。おまえみたいな奴は本当に迷惑なんだ」
言われた言葉の意味が分かったとき、私は手を振り上げていた。
ぱん。
肉のぶつかるいい音が響く。私ははっと我に返った。左頬をうっすらと赤くした高藤君が私を睨みつけ、呆れたような馬鹿にしたような憎たらしい声で捨て台詞を吐く。
「気が済んだかよ暴力女。邪魔だから、さっさとどっかに行ってくれ」
血が沸騰したかと思うくらい熱くなったのは一瞬だった。じんじんと痛くなってきた右手がなんだかとても悲しくなってきて、私は急いで彼らに背を向ける。踏切を走って渡っていくうちに、ぼろぼろと涙がこぼれ出した。
「ハル」
走り去る透子の後ろ姿を心配そうに見つめながら、ハーフの少女はしゃがみこんだ少年のシャツの袖を引っ張った。
「今のはハルがわるいですよ」
「……分かってるよ」
少年は頭を抱えるようにして地面を見ながら、絞り出すような声でそう呟いた。
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