異世界五分前仮説
するめいか
第一目標「賢者の少女と打ち解ける」
1話「始まり」
「魔王……! やっと、やっとここまで辿り着いたぞ……!」
長い、本当に長い冒険の先で今、『勇者』はとうとう悪の根源である『魔王』と対峙していた。
魔王の間には神聖な空気が漂い、その姿は背後のステンドグラスから差し込む光によって黒い影と化している。
これまでに感じた事のないような緊張感が勇者に圧しかかっていた。汗が頬を伝い、手足が震えているのを感じる。
怖いのだろうか?
いいや、そんな訳はない。
しかし、彼の中の決意が揺らいでいるのも事実だった。
勇者は自らの相棒である大剣を握り直し、途切れそうになる息をゆっくりと吐いて、覚悟を決める。
「ウオォォォオオオッ!!」
雄叫びとも悲鳴ともつかないような大声をあげる勇者。地面を後ろへ強く蹴りだし、悠然と構える魔王へと肉薄する。
「…………」
宿敵が眼前まで迫ってきても、玉座に鎮座する影はまるで動じない。圧倒的な存在感を保ったまま、何をするでもなく、目の前の怯えた男を見守っている。
「いらっしゃい」
ふとそこで、魔王が喋った。
異形の生物、化け物として知られる『魔物』の王が、人間の言葉を発したのだ。
「……ッ!?」
何だ? そう問い返したかっただろう。
けれど、勇者の足は何故か止まってくれない。
勇者の体は魔王の言葉に停止することもなく、両手に持った大剣を目一杯に振り上げる。陽光が、青銅色の柄と、白銀の刃を不気味に照らし出した。
「勇者君のためにクッキーを焼いたんだ~。私の手作りなの」
魔王の声はまだ続いている。その姿が勇者の攻撃を避ける気配はない。
それに、どうしてだろうか、眼下からこちらを見上げてくる魔王の姿を勇者は全く視認できなかった。
黒い影が可愛らしい袋をそっと差し出してくる。
彼女の声は、水中で音が聞こえるが如く、不明瞭にボヤけてしまっている。注意しなければ聞き逃してしまいそうだった。
まるで夢の中にいるみたいな感覚だ。
だが、そのどこか安心する音色を掻き消すように、勇者はただただ雄叫びをあげていた。
「えへへ、結構上手でしょ? よかったら勇者君に――――」
声は途中で聞こえなくなる。
風の駆け抜ける響きも。正午を告げる鐘の音も。そして、刃が骨肉を切り裂く断末魔さえも。
時を止められたかのように、消えてしまった。
「――――これで、良かったんだ」
勇者が小さく呟くと、力尽きた影が、玉座と共に力なく地面へ倒れ落ちる。
瞬間、全てが終わりを迎えたように、世界は闇に包まれた。
ひどく長い夢を見ていたような気がした。
鳥の
だが、見慣れた天井の染みを見つめ続ける男には、起きるために体を起こすのが非常に困難であった。
というのも、これから何が起きるのかを彼が大体察しているからなのだが。
「はぁ、嘘だろ……」
男の口から思わず溜め息が出る。
この朝を迎えてしまった事を認めたくないというように、薄っぺらい毛布を頭まで被り直した。
ひとまず、なぜ彼が朝からこんなに憂鬱なのかを説明しよう。
男は
しかし、それがどういう訳か、今日から旅に出る事になったのだ。それも、とびきりドギツい任務を背負って。
男が担わされた任務の内容は『現在戦争になっている魔物達の王、魔王を討て』というもの。
まず、この作戦内容からして異常で無謀なのだが、そこで何故かごく普通の農民だった彼が任務の遂行者として選ばれた。
何故。この大役を押し付けた張本人、人間全てを統べる我が国の王、デンガル国王に問い詰めたら、「赤い瞳をしているからだ」とだけ返された。
当初、男にはまるで意味が分からなかった。当然断ったし、それ以降も断固として受ける気は無かっただろう。
しかし、最終的には『諸々の事情』から行かないわけにもいかなくなってしまう。
本当に、本当に不本意だが、命懸けの旅に出掛けざるを得ないだけの、重大な理由ができたのだ。
さて、そこで男が抱く憂鬱の最たる原因となる事象が現れるのである。
結論から先に言うと、現在の日付から八日後以内に、勇者は死ぬことになる。突飛で信じがたい話だが、これは紛れもない事実だったのだ。
『
ろくな呪文も使えない、ただの村人である彼は、そんな訳の分からない現象に巻き込まれてしまっている。
何十回死んだだろうか。男には八回辺りから数える余裕も無くなっていた。慣れない苦痛に耐えながら、魔王を討伐しに行くことのみを考えていたからだ。
逃げる事は許されない。と言っても、国外への逃亡など男は考えた事すらないようだが。
たとえ冒険から逃れる事ができたとしても、これから仲間になる者たちを見捨てるわけにはいかないと言う。
以上が彼の憂鬱だ。男が険しく両の瞼を閉ざしている理由だ。
要するに、簡潔にまとめると、彼は選ばれてしまったわけである。『勇者』とかいう、英雄になる事を義務づけられた存在に。
「……とにかく、もう一回初めからだ」
誰が聞いているわけでもないのに、苛立った声でそうこぼすと、気だるげに体を起こす勇者。
首にかけたままだった花紋様のロケットを握りしめて、ベッドからモゾモゾと這い出るように体を絞り出した。タオルケットのような薄っぺらい掛け布団が無造作にベッドの端へ追いやられる。
名残惜しいが、そろそろ準備をしなくてはならない時間だ。
「忘れるな。2561、ヘレン、レイ……。本、猫、妹……。イズ、ネメス、エル……。大丈夫だ、覚えている。今度はうまくやってみせるさ」
頭痛を堪えるように頭を片手で押さえながら、ブツブツと呟いて部屋を出る。
そこは玄関と同じスペースにあるリビングだった。
二十畳はあるその部屋へ入っても、人類を救う旅に出掛ける男を迎えてくれる家族はいない。
寝室同様、リビングは小綺麗な場所だった。敢えて悪く言ってみれば、生活感がない。中央にテーブルと椅子、壁際に本棚があって、数冊だけ雑多なジャンルの本が収まっている。
友人に「殺風景な部屋だ」と評された時も、勇者は「家具を充実させる金なんて無いんだから仕方がないだろ」と無愛想に返すばかりだった。
独り暮らしのせいで余計に広く感じる居間を通って、キッチンへと向かう。途中で壁の時計に目を向けるが、まだ仲間との待ち合わせ時間には多少の余裕があった。
男は漫然とした意識で保存してあった肉を焼き、自分で育てた野菜を添えて、少し豪華な朝食を作る。何度も繰り返した機械的な作業だ。
料理を持って先ほどの部屋まで戻る。
食卓であるテーブルの上には、慣れない字で書かれた遺書が置いてあった。
「これが必要になってくれた方が、まだいくらかマシだったろうにな」
半ば自棄になりながら破り捨てる。
男は乱暴に頭を掻くと、苛立ちを隠さずに椅子へと腰かけた。
「失敗したら八日後、また死ぬ。また……ッ!」
不意に駆け上がる吐き気を無理やり抑えこむ。
嫌な記憶と煩わしい予感を頭の隅へと追いやって、雑な味付けの食事へ集中する事にした。
貧乏人には貴重な肉をいくつかに切り分け、震える手で口へ運ぶ。町で買った肉は固くて食べづらかったが、友人に貰った胡椒のおかげで、臭みはあまり感じられない。
「もう、この味には飽きてきたな……」
初回は感動した食事も、今は顎を動かすだけで精一杯だった。
それでもできるだけ味わって食べ終えると、男は顔を洗いに行き、本格的に出掛ける準備を始める。
あらかじめ用意してあった服に着替え、必要な荷物を手早く鞄に詰め込むだけだ。
半ば体の記憶に任せて、全ての支度を終わらせると、男は玄関近くの壁に掛けてあった玄関の鍵を取る。
そして、いつか遠い昔の日にそうしたように、深く息を吐いて、扉のノブに手をかけた。
「これで……終わらせる。そろそろ死ぬのにも飽きてきた」
レンガ造りの家を出る瞬間、挨拶代わりにそっと小さくこぼして、勇者は数十回目の冒険へと繰り出した。
――――勇者の男が前回死んだ日まで、あと八日。
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