日記的なもの
笹野にゃん吉
目を開けてゆく
祖父が亡くなってから、およそ三ヶ月。息を引き取る際に立ち会ったときも、葬儀の最中も、どことなく祖父と永訣した実感はありませんでした。ところが昨夜、ふと祖父のことが思い出され、自然と涙が滲んできたのです。
私には最初その意味がわからず、後悔ゆえに出てきた慰藉の涙かと思いました。というのも、晩年の祖父にはなかなか苦労させられ、苛立ちや怒りを覚えることも多く、つい怒鳴り声で応えてしまう場面がありましたので。「あんなにきつく当たる必要はなかったのではないか」、「もっと優しく穏やかに接するべきだったのではないか」、そんな後悔がもたらした涙だと思ったのです。
しかし思い出されるのは、決して嫌なものではなく、むしろ私が幼かった頃の、祖父との楽しい思い出ばかりでした。一緒に相撲ごっこをして遊んだこと、山へ登って団子を食べたことなど。それは特別でない、あるいは他人と比較すればとても劇的とは言えない、些細な思い出なのかもしれません。
それでも私は涙を流し、祖父と過ごしてこられた日々を、懐かしく幸福だったのだと自覚できました。それはとても嬉しいことでした。祖父を愛し、愛されていることが誇らしく思えました。
そして今、幸せの意味を想うのです。きっとその多くは些細なものに過ぎないのです。誰かの幸せを羨み、それを基準にしてしまうのは、ありがちな事ですが、幸せというのはきっと自ら掴みにいくものばかりではなく、日常の中の些末な出来事に潜んでいるのでしょう。
私は今回のことを通じて、人生の気付きというものは、赤ん坊が目を開けてゆくようなものなのだと感じました。
様々な経験の中で、徐々に徐々に瞼をもちあげ、そうして景色を一つずつ目にしていく。時には、思いこみで焦点が一つに定まって周りが霞んでしまうこともあれば、辛いことがあって涙に全部が歪んで見えてしまうこともあります。あるいは、何もかも嫌になって、せっかくもちあげた瞼を閉ざしてしまうこともあるでしょう。
けれど私たちは、独りではありませんので。亡くなった祖父が私に気付かせてくれたように、辛い時や悲しい時、「ほら、あそこに綺麗な花が咲いているよ」と教えてくれる人が、案外近くにいるのかもしれませんね。
それでは、平凡で徒然な日々に。
私の陳腐な言葉も、誰かの気付きや温もりとなれますように。
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