第25話 私たち、BBQします⑤

 晴人は柳が左遷されると聞いて目を丸くさせた。

「どういうこと? 」

 まさみもどこか信じられない様子で話し始めた。

「会社にコンプライアンス部っていう部署があるんだけど、今日そこに呼ばれて柳さんからセクハラやパワハラを受けてるのは本当かって聞かれた。飯尾くんや他の社員の人達が昨日の一件を全部コンプライアンス部に話してくれたみたい……。あと柳さんが隣でバーベキューをしてた女の人にボインちゃんって言ったでしょ? 」

「あぁ」

 晴人はその時のことを思い出して顔を顰めた。

「隣のグループの人達がそれに怒って本社の方にクレームを入れたんだって。それで動いたみたい」

「なるほどな……」

 柳のあの言い様は本当に酷いものだった。確かに本社にクレームが入ってもおかしくないと晴人は思った。

「晴人が柳さんに怒鳴ったことについてお咎めなし。コンプライアンス部の人達は高橋さんを必ず守りますって言ってくれた」

「そっか……。それは良かった」

 晴人は胸を撫で下ろした。

「でもまさかこんな大事おおごとになるとは思ってなかったよ」

「俺も。でも良かったよ。まさみの会社がまさみを守ってくれる会社で安心した」

「本当に晴人のお陰だよ。ありがとう」

 晴人は照れ笑いを浮かべた。

「俺は何もしてないよ。ただあの人にブチ切れただけだから」

「ううん。晴人のお陰だよ。それに……」

「うん? 」

「ううん。なんでもない。本当にありがとう」

 まさみは何か言いたげな様子だったが、すぐに誤魔化した。


 まさみたちがコンプライアンス部に柳のハラスメントの実態を告発してから、少し経った頃に柳の左遷が発表された。柳は左遷に納得出来ず、人事部や本社の上層部に掛け合った。しかし柳の左遷は覆ることはなかった。

 まさみは書類を持って社内を歩いていると柳が向こうから歩いてくるのが見えた。まさみは踵を返そうとしたが、そうするのはあまりにもわざとらしい気がして、そのまま向かって行った。まさみは近づいてくる柳に小さくお疲れ様ですと挨拶すると柳は突然彼女に怒鳴りつけた。

「お前のせいだ……。お前のせいでこっちは左遷だ! ふざけるな!! 」

 柳の怒鳴り声にまさみは体を強ばらせた。その怒鳴り声に気づいた社員たちは柳に近づいて落ち着いてくださいと声を掛けるが、柳はまさみに怒鳴り続けている。

「どれだけお前のことを可愛がったと思ってるんだ! それなのに恩を仇で返すような真似をしやがって」

「可愛がってたらなんでも言っていいんですか? 」

 その言葉に柳はゆっくりと振り向くと、そこには飯尾がいた。

「なんだと? 」

 柳は怒りに満ちた顔で飯尾に詰め寄ったが飯尾は落ち着いた様子で口を開いた。

「あんなこと言われて喜ぶ人間がいるなら見てみたいですよ。みんな笑ってたかもしれないけど、それは柳さんに気を使って愛想笑いしてただけですよ」

 飯尾の辛辣な言葉に柳はたじろいだが、すぐにまた激昂した。

「それはコミュニケーションの一環だ! そもそも冗談を真面目に受け取る奴がおかしいだろ。それに嫌ならその場で止めてくださいって言えばいいんだ。それを後になってからあれが嫌でした。これが嫌でしたってまるでチクるようなことをする方が悪いんだ! 」

 まさみはその言葉を聞いて柳は本当にコミュニケーションの一環であんなことを言っていたのだと分かった。彼女は怒りを通り越して呆れを感じた。柳にとって人の身体的特徴を揶揄うことも差別的発言も全てコミユニケーションなのだ。

「コミュニケーションなんかじゃないです」

 まさみは気がつくと口にしていた。そこにいた社員たちがまさみに視線を向けた。

「コミュニケーションだと思ったことなんて一度もありませんでした。私は背が大きいことも言われたくなかったし、女だからなんて言われたくありませんでした! 」

「だったら言われた時に止めてくださいって言えばいいだけの話だろ! 」

「言えませんよ。止めてくださいって言って、柳さんに嫌われて仕事に影響が出ると思ったら怖くて……」

 まさみは柳にされた今までの仕打ちのことを思い出した。そして屈辱や恐怖でごちゃ混ぜになった感情のせいで彼女の声は微かに震えた。

「そんなつもりはないと言ってるだろ」

 柳の言葉は強気ではあったが、いつもと違うまさみの様子に微かに動揺を見せた。まさみの上司である中田が柳に近づいた。

「柳さん。私たち上司は自分たちの言葉に責任を持つべきじゃないですか? 私たちにとっては何気ない言葉も部下を傷つけることになります。でも部下は傷ついても上司の言葉に愛想笑いをして誤魔化すしかないんですよ。私もそうです。もし柳さんの機嫌を損ねて仕事に支障が出たらと思って愛想笑いをしてやり過ごしたことが何度もあります。若い高橋さんなら尚更そうだと思います。自分の言葉で相手がどう思うのか。それを考えながら付き合うことが人として大事なのではないでしょうか? 」

 柳は唇を強く噛み締めたまま口を閉ざしていたが、絞り出すような声で悪かったと言うと去っていった。柳が見えなくなるとまさみは力が抜けたように壁に寄りかかった。飯尾はまさみの体を支えた。

「大丈夫ですか! 」

「うん……。大丈夫。なんか腰が抜けちゃって」

 まさみは気の抜けた笑みを浮かべた。中田はまさみに頭を下げた。

「高橋さん。本当に申し訳なかった」

「そんな……。部長が悪い訳じゃないんだから謝らないでください」

「いや。高橋さんが不快な思いをしていたのにそれに気づかなかった。本当に申し訳なかった……。高橋さんを傷つけたくせにおこがましいかもしれないけど、高橋さんはこの会社に必要なんだ。これからもこの会社で働いてほしい」

 中田の言葉にまさみは胸が熱くなった。

「もちろんです! これからもよろしくお願いします」

 今までの不穏な雰囲気は一変し、穏やかな空気がその場に流れた。


「飯尾くん。本当に色々ありがとう」

「嫌だなぁ。別に僕は何もしてないですよ」

 まさみは昼休憩に飯尾を連れて会社近くのファミリーレストランに来ていた。昼時の店内は大変賑わい、店員も忙しそうだ。

「でも本当に飯尾くんのお陰だから。バーベキューの時も柳さんに怒鳴られた時も助けてくれて本当にありがとう。だからね今日は私の奢り! 好きなの食べて」

「本当ですか! それじゃあ一番高いの頼もうと」

 飯尾は嬉々としてメニューを吟味し始めた。

「どうぞどうぞ」

 まさみは店員が持ってきた水の入ったグラスに口を付けた。飯尾は楽しそうにメニューを見ながら口を開いた。

「解決して本当によかったですね」

「本当にね。柳さんも嫌々かもしれないけど謝ってくれて良かった。これならもっと早く言えば解決してたかもね」

「そうですかね? 」

 飯尾はメニューから目を離さずに言った。

「今ってパワハラとかセクハラに厳しいじゃないですか。今だから対応したんじゃないですかね。それに柳さんが謝ったのは中田さんに言われたからだと思うんですよ。柳さんは中田さんが入社した時から知ってるし、高橋さんに言われるよりショックだったんじゃないですか」

 飯尾は言葉を失っているまさみに気づくと、すぐに頭を下げて謝った。

「すいません。言い過ぎました」

「手厳しいことを言うね。でもそれはそうかもしれない……」

 まさみは飯尾の言う通りだと思った。今はセクハラが問題になる時代だが、まさみが入社した頃はそこまで厳しくなかった。もしまさみが早く相談しても解決しなかったのではないだろうか。むしろこういうことはよくあることだと言いくるめられていたかもしれない。まさみは自分の心の中に黒いもやのようなものが立ち込めるのを感じた。飯尾は雰囲気を変えるためにわざとらしく明るく振舞った。

「でも柳さんは左遷になったし! 因果応報・自業自得ですよ! 」

「そうだね……。今の自分は救われたかもしれない。でも過去の私はどうしたら救われるんだろう」

 まさみのぽつりと零した言葉に飯尾はかける言葉が見つからず、黙り込んだ。


「今日の夜さぁ空いてる? 」

「今夜はちょっと……」

 昼時のファミリーレストランには不似合いな会話にまさみと飯尾は声のした方に顔を向けた。

「なんですかアレ? キャバクラの同伴ですか? 」

 そこにはスーツを着た会社員風の男女が座っていた。二人の距離感が異様に近く、男性は女性の手を両手で掴んでだらしない顔をしている。

「今日会ってくれたら契約してあげるから。個人目標足りてないんでしょ? 家に来てくれればいいだけだからさぁ」

 男性は女性の手に頬擦りしている。まさみと飯尾は嫌悪感でいっぱいだった。しかしまさみはその女性に見覚えがある気がして、二人から目が離せなかった。まさみはようやく気づいた。その女性は小春だった。

「そういうのはちょっと……」

 小春は笑っているが頬が引きつっている。彼女は丁寧に断ると男性の語気が強くなった。

「なんでだよ。お前、立場分かってんのかよ! 」

 小春は首をすくめた。怯えている彼女に男性は途端に猫なで声を出した。

「一晩だけでいいんだからさぁ。別にいいじゃん」

 男性は小春の肩に抱きついた。まさみは体を震わせている小春が自分と重なって見えた。気がつくと勝手に口が動いていた。

「契約してあげるから会おうとかセクハラだよね! 本当にサイテー」

 まさみはわざとらしく他の客に聞こえるような声で言った。

「本当ですね! あんなことを言う人いるんですね」

 飯尾も同じようにわざとらしく言うと他の客たちがジロジロと男性に視線を向けた。向けられる視線にいたたまれなくなったのか男性は慌てて荷物を持つとその場から立ち去った。

「大丈夫? 」

 まさみは小春に近づいた。

「何してくれるんですか。もう少しで契約出来そうだったのに。邪魔しないでください」

 小春はまさみを睨みつけた。しかしまさみは小春のそんな態度に気にかけることなく話しかけた。

「いつもこういうことしてるの? 」

「こういうこと? あぁ女の武器を使うことですね。それの何が悪いんですか? 私が大学の時にキャバクラで働いてたのでこういうこと慣れてるんです。体を触られることも夜のお誘いを受けることも。別にいいじゃないですか。減るもんじゃないでしょ」

「その態度はなんだよ。高橋さん。もう行きましょ」

 飯尾は小春の不遜な態度に腹を立ててまさみを連れ出そうとした。しかしまさみは動こうとしない。

「減るよ」

「えっ? 」

 まさみの言葉に小春は驚きの声を出した。

「減るよ。自分が減っちゃうんだよ。嫌なことをされて我慢してるとどんどん自分がすり減っちゃうんだよ。それで残るのはペラペラになった自分だけなの。だからね、嫌なことをされた時は怒っていいんだよ。もし怒れないんだったら私が怒るよ。三谷さんに軽々しく触るなって。勝手に触られたりひどいことを言われたりしていい人間なんていないんだから! 」

 まさみは自分の言葉に熱が篭っていくのが分かった。まさみは小春にはどうしても分かって欲しかった。小春は誰かに傷つけられていい人間ではないということを。しかし小春は突然立ち上がった。

「勝手なこと言わないでよ」

 小春は力なくそう呟くと伝票を持って席を立った。まさみと飯尾は小春を見つめていた。

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