短編集「愚の骨頂」

大島蓮司

鏡の神様

 この国がまだ戦争をしていた時代に私は生まれた。

 私が生まれてすぐ出征した父は南方の島で戦死。母も本土空襲の犠牲となり、戦後は疎開していた母方の祖父母に引き取られて暮らすことになった。

 父のことは覚えていないが、大好きだった母と過ごした時間を覚えていた私は、母に会いたくていつも泣いていた記憶がある。そんな私に祖父母はたくさんの愛情を注いでくれたものだ。

 祖父母の家は長野の農村で代々地主として続いてきた家柄で、たくさんの田畑を所有していたこともあり、戦時中や戦後の混乱の中でも食べ物に困ることはなかった。


 六歳になったばかりの頃、お花見に出かけるため、祖母にお気に入りの白いワンピースを着させてもらい、髪をおさげに結わえてもらっていた時のことだ。

 急な来客で祖母が私のそばを離れ、ひとりで暇を持て余した私は、うるし塗りの赤い手鏡と鏡台の鏡を向かい合わせ、鏡の中に無限に続くトンネルを作って遊んでいた。

 その時、手前から五枚目の鏡に見たこともないお婆さんの姿が現れた。

 お婆さんはとても穏やかな顔をしていたのに、怖くなった私は咄嗟に手鏡を伏せようとした。しかし、それよりも先にお婆さんの声が響いてきた。

「怖がらないで。私は鏡の神様よ」

 幼かった私はその言葉を疑わなかった。

「えっ! 神様?」

「そう。あなたに会うために来たの」

 私は嬉々とした。神様なら死んだ母を生き返らせてくれると思ったからだ。

「神様! 私、お母さんに会いたい!」

 鏡の神様は静かに首を振った。

「残念だけど、死んだ人を生き返らせることはできないの」

 一転して顔から喜びの色が消えた私にかまわず、鏡の神様は続ける。

「でもね、あなたの将来を幸せにすることはできるわ」

 それは自分にとって良いことなのだろうと理解はしたが、幼さゆえに幸せというものがどんなものか想像できなかった。

「あなたにはこの先、たくさんの出会いと別れが待っているの。楽しいこともたくさんあるけど、悲しいことだってたくさんあるわ。もし生きるのが辛くなったとしても、必ず幸せな未来がやって来る。その幸せな未来を信じて目の前にある悲しみを乗り越えなさい」

 それだけ言い終わると鏡の神様は姿を消した。何がなんだかよくわからなかったが、その時の出来事は幼き日の記憶に強く刻み込まれた。


 月日は瞬く間に過ぎていった。

 鏡の神様が言った通り、私はたくさんの出会いと別れを経験することになる。とりわけ悲しみに暮れたのは、親代わりとなって私を育ててくれた祖父母との別れ。しかし、その時は永遠を誓い合った愛しい人がそばで支えてくれていたから悲しみを分かち合うことができた。

 そんな彼と手を取り合ってスタートした結婚生活。やがて二人の子どもにも恵まれ、幸せな家庭を築こうと頑張った。

 だが、二人の夢だったマイホーム計画を実現しようとしていた矢先、人生最大の悲しみが訪れる。不慮の事故により最愛の人を失ってしまったのだ。

 その悲しみはどこまでも深く、私の心を壊していった。幼い子どもたちの将来を悲観し、全てを終わらせようと諦めた時、ふとよぎった神様の言葉。


 ――幸せな未来を信じて目の前にある悲しみを乗り越えなさい。


 こんなにも悲しみのどん底にいるのに、幸せな未来なんてあるはずがない、私にはそんなふうに考えることしかできなかった。

 でもその時、二人の娘が私の手を片方ずつ握り、私を見上げて笑った。その笑顔の中に最愛の人の面影を浮かべて。娘たちの愛らしい笑顔はどこか、幼き日に見た鏡の神様にも似ていた。

 私は我にかえった。この子たちの未来を奪ってはならない。何より家族として母親として、この子たちを立派に育てなくてはならないではないか。かつて祖父母が私にたくさんの愛情を注いでくれたように。

 私は必死で子育てをした。そして日々成長していく娘たちを見守ることで幸せを感じるようになっていった。


 更に月日は流れ、今では四人の孫に囲まれている。

「私が幸せな生涯を送ることができたのは鏡の神様のお陰なんだよ」

 病床の私は、見舞いに来てくれた孫たちにそう語った。末期のガンに侵されたこの老いぼれの命はあと一ヶ月と言ったところか。死期を悟り、思い残すことは何ひとつない私の心は穏やかな水面そのものだ。

 ホスピスでケアを受けながら、着実に死に向かっている私のもとには、毎日のように家族の誰かが足を運んでくれる。

 今日は私の七十九回目の誕生日。二人の娘と孫たちがお祝いに来てくれた。家族に囲まれ、楽しい時間を過ごしていると、孫のひとりが髪をといてくれるという。

 備え付けの鏡台に腰かけると、孫が愛用のコンパクトミラーを持たせてくれた。幼き日に鏡の神様に会った日の記憶がありありとよみがえる。

 昨夜食べた夕食の献立は忘れても、七十年以上も昔のことはかくもよく覚えているものだ。あの日手にしていた手鏡が、きれいな赤色だったことまでも。

 懐かしい気持ちでふとコンパクトミラーを鏡台に向けるとそこに鏡のトンネルが現れる。今まで幾度となく試してみたが、あれ以来鏡の神様は姿を見せてはくれなかった。

 しかし今日は、あの時と同じ五枚目の鏡に幼い少女の姿が映った。少女は驚いているようだったが、私は思わず笑顔になる。なぜなら私は彼女をよく知っているからだ。

 白いワンピースを着たかわいいおさげ髪の女の子。怖がる彼女にどう声をかけていいのかもよく分かっていた。


「怖がらないで。私は鏡の神様よ」





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