アルバイトとしての私
少しいつもとは違った雰囲気で昼食を食べ終わった私たちは別れ、講義に戻った。
そうはいっても、やっぱり気持ちが切り替えられなかった私は、講義が終わると早々に大学を抜け出し、大学近くの一人暮らししているアパートに戻った。
荷物を置き、バイトの準備をした。まだバイトが始まるまでには時間がある。時間を確認した私はバイトの用意だけ持って、大学周辺を散策することにした。
私立弘安大学は名古屋駅から私鉄急行で二駅離れた場所にある。愛知県内だが、名古屋市街地とは違って住宅街や田畑が目立つこの地は、とても閑静だった。なので、大学周辺と言っても飲食店もほとんど見受けられないが、それでもなぜかこの大学は人気だった。
すでにこの地に暮らし始めてから二年弱。すでに何回もこの周辺を散策しているが、飽きなく、気分が晴れないときにはここを散策して、気分転換するようにするようにしていた。
「もう、行こうか」
そろそろ時間だった。
私は誰に向かってでもなく、そう言い、バイト先である鹿野歯科へ向かった。
「おはようございます」
鹿野歯科は大学近くの駅の一分も離れていないところにある。決して大きくなく、小ぢんまりとした外見で、看板さえなければぱっと見でそこが『歯医者さん』だと分からない人の方が多いだろう。
患者さんとは別の玄関口から入った私は靴を脱ぐ前、大声でそう挨拶した。誰からも返答はなかったが、いつもの事なので特別気にすることなく更衣室に向かった。
ちなみに、現在の時間は午後四時半。こんな挨拶をしていて、ここは芸能界かよ、と思うだろうが、これがこのバイト先での基本なのだ、入って早々にそう教えられた。なので、二年弱、私はそれを続けてきている。
更衣室に入り、俗にナース服と呼ばれるモノに着替え、髪をまとめて、黒ぶち眼鏡をした。
え? 最後の必要あるのか、って?
まあ、雰囲気作り?
………………。
はい、そこ。沈黙を気にしない。
まあ、ぶっちゃけ、私は顔もそんなに整ってないんですけれど、お客さんの中には偏見を持たれる方もみえましてねぇ。アルバイトとして雇われた当初、少なからずのお客さんにお前、美人だからこのバイトしてるんだろっていうクレームをされたんですよね。
いやいや。そんなわけないじゃないですか。私の顔をよく見てくださいよ、ねぇ?私の顔を見たら、周りの女性が全員、美人に見えますよ。もっとも、採用された理由は全く違うものでしたのよ。オホホ。
とにもかくにも、私はそんなに目が悪くないので、クレーム対策に度なしレンズのメガネ、すなわち、伊達メガネをしているわけですよ。そしたら、ぴったりとクレームがやみましたとさ。えっへん。美香ちゃんの伊達メガネ大作戦成功、っていうわけですよ。
着替え終わった私は、置かれている特大鏡で自分の姿が問題ないかもう一度、確認し、いざ、戦場へ。っていうことで、診療室の中に入っていく。
診療台の方からはういーん、と機械音がしていた。ということは現在、先生が歯を削っているのか。そして、奥様は絶賛バキューム中か。
「おはようございます」
小声で挨拶し、誰もいない患者さんの受付スペースに入った。
名簿には予約患者さんの名前と予定されている処置方法が載っている。それを私は確認し、内心ガッツポーズを決めた。
私の勤務時間内にある九枠のうち、今日は六枠しか埋まっていない。こんな日はめったにない。洗い物をする暇があるね、これ。ラッキーだわ。
原則予約制である当院なので、急患が来たとき以外は特別慌てることはない。なので、空いている時間もできるが、すべて休憩するわけにはいかない。洗い物をしたり、明日以降の準備をしたりとか。もしくは、前の患者さんの治療が延長することもあるので、予約がぎっしり埋まっていたら、本当に大変なことになるのだ。
いやぁ。本当はもう一人くらいバイトちゃん欲しいんだよね。その方が助手と受付で作業を分担できるからさ。でも、当院はそう言うわけにもいかない事情があるので、仕方ないとすでに諦めている。張り紙は貼ってあるし、応募してくることもあるけど、あの条件のおかげで大体が落とされるのだ。
うん、私が雇用されている条件というのがそれに引っかからなかったわけなのだが、なんかそれはそれでビミョーな気分にもなる。
さて、業務を開始する前、手洗いと消毒は必須。
手洗い後、私はゴム手袋をつけた状態で消毒液にくぐらせ、再び水洗。清潔なタオルで拭った後、奥様に小声で挨拶をして、助手を変わる。
タイミングが良ければこの段階で引継ぎを行うのだが、今日は難しく、多分できないだろう。
まあ、さっき受付カウンターを見た感じでは、特段、大変な目には遭わないだろうと思っていたので、問題なさそうだが。
相変わらず綺麗な手さばきなんだよなぁ、若先生。
私はそこで昨日の一件を思い出してしまった。
まずい。平常心でいなくちゃ。
しかし、そう思えば思うほど、自分の意識とは正反対に手が震えだす。それに気づいた若先生はピタリと止まる。
やば。
だが、何もなかったかのように再び動き出した。私は少しホッとし、深呼吸した。そして、目の前のことに集中した。
「ふぅ。疲れた」
三時間後、私はようやく座った。
あの後もかなり大変だった。
必要な器具が揃っていなかったり、イレギュラーな患者さん――急患の事ですね――が来院されたり。挙句の果てには、その急患さんの治療で、歯冠を作るために必要な型取りの最中に、砂時計を用意せずに始めるとか、意味分らないことをしてしまった。
受付台の裏に置いてあったお茶を一口飲み、タイムカードに現在の時刻を記入した。そして、明日の来院予定の患者さんを確認した私は、電気を消す間際、そこに人の気配を感じ取った。
これが初心者だったら、何者なんだ? ってなるが、私はもう驚かなかった。
二年もやっていれば、分かるのさ。
案の定、そこには若先生がいらっしゃった。
アハハ。今日のお小言を言いに来られましたでしょうか、ね。
「相変わらずだな」
ですよねぇ。
大体、若先生がそこにいる理由は想像ついていたので、そこまで落ち込まなかった。まあ、この先生が誉め言葉なんて言うのか知らんけれど。
「時間を読めないならば、ここに来る必要はない」
そうなりますよね。最後のあれは自分でも大失敗だったと思いますわ。
これも何度も聞かされた言葉だったので、今度は少し慣れている自分が悲しくなってきた。
そういうなり、若先生はさっさと姿を消した。
毎度のことながら奥に入るのは早い。
取り残された私は再びため息をついた。
「まあ、帰りますか」
そう独り言を言って、帰り支度をしに更衣室へ向かった。
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