忘却はよりよき前進を生むが、それを言ったのがニーチェなのかフルーチェなのかはわからない話
いつものように朝の電車に乗った総一郎は、いつものように隼人が座っている席の前に向かう。
(ん? 今日は最初からか。月曜日なのに)
電車の窓に完全に預けるかたちになっている隼人の頭。ずいぶんとわかりやすく寝ている。
彼は先週の後半から毎日途中で寝落ちしており、下車駅に着いたら総一郎が起こしていた。が、最初から寝ているパターンは初めてだ。
総一郎はポジションに入ってつり革を掴むと、観察モードに入った。
(この寝方だと顔が見えるのがいいな)
彼の無防備な寝顔が嫌いではない総一郎の表情は、自然と緩む。
このまま彼の下車駅まで鑑賞しているのも悪くない。そう思っていた。
しかしこの寝方、電車が強く揺れると頭が窓ガラスでバウンドする。ずっとそのままというわけにはいかなかったようだ。
「…………ん…………どわっ!!」
目が開き、驚く彼。
「起きたのか。おはよう。隼人君」
「お、おはよう総一郎……。悪い、寝てた」
まだ若干の気恥ずかしさはあるが、お互い名前を呼んであいさつをする。
「疲れているのならそのまま寝ているといい」
「いやー、できれば寝てたら起こしてほしいというか。いろいろもったいないし」
「ん?」
「あ、なんでもない。こっちの話」
彼が笑いながら頭をかく。
暑い季節になってきても、その短髪はサラサラしている。
「朝から眠いというのは、野球の練習の影響なのか?」
「あー、言ってなかったっけ? 追試の勉強のせい」
「初耳だぞ。しかも時期が変だな。なんのテストの追試だろう」
「中間テスト」
「中間って、一か月くらい前の話じゃないか」
「ああ、いま追試の追試でさ。あ、違った。追試の追試の追試だった」
(――!?)
追試の追試の追試。総一郎にはその意味がすぐにわからなかった。いや、言葉の意味はわかるが、いったいどういう状況なのかがピンとこなかった。
続いて聞きただすようなかたちとなる。
「赤点の基準が厳しいのか? 君の学校の『赤点』は何点未満なんだ?」
「んーっと。30点取れないと赤になる」
30点未満が赤点。それは、総一郎の学校と同じ基準だった。
「聞いていいのかわからないが、どの教科が赤点になり続けているのかな」
「恥ずかしいけど、全部! 数学Ⅱとか本番0点だった」
困惑に拍車がかかる。
(……!? 何をどうやったらそんな事態になる?)
総一郎は、赤点はおろか、定期テストでも模試でも90点未満を一度も取ったことがない。30点未満という点数をどうやったら取れるのかがわからなかった。0点に至っては名前の書き忘れ以外にはありえないとすら思った。
だがその総一郎の混乱は、視線のピントが再度隼人に合うと同時に消し飛んだ。
彼の頬がやや赤く染まっていたためである。
(ああ、だめだ。これで困惑するのは彼に失礼だ)
総一郎は頭の中をニュートラルに戻した。
目の前の彼は、本当に恥ずかしそうに言っているように見える。彼はこちらの問いに対し、ごまかすことだってできた。なのに彼はそうしなかった。
弱みを晒し、自身でも恥ずかしいと感じていたことを言ってくれた――それは信頼の証でもある。
(今突きつけられている状況。これはきっと天が授けた試験に違いない)
彼は信頼の証を見せてくれた。
そして今、自分はそれに対する返し方を試されている状況だったのだ。
言うなれば天からの一学期中間試験。ここで赤点を取っているようでは二人の仲に未来はない。
(危なかった)
総一郎は、意識的にぐっと顔を引き締めた。
彼の信頼を裏切ることがあってはならない。ここは正確かつスピーディなフォローで応えるべきだ。
「隼人君。この前ネットで見たデータによれば、高校野球部の週当たりの平均活動日数は6.6日。これは全種目の中で最高の数字だ。そして平日一日あたりの平均活動時間は3.4時間で、やはり最高。休日一日あたりの平均活動時間に至っては7.7時間で、二位のバレーボール部4.9時間を大きく引き離し断トツの一位。君の学校も例外ではないのだろう?」
ニュースサイトや新聞の閲覧で築きあげてきた頭の中のデータベースを高速検索し、具体的な数値を出した。
野球部はとにかく勉強に充てられる時間がない。それが他の部活との差であり、ディスアドバンテージなのだ。
「そんな数字よく知ってるなー。ま、うちも多分例外じゃないけど」
「そうか。ならば学業が犠牲になるのは仕方のない部分もある。赤点は断じて恥ずかしいものではない」
(よし。フォローは完璧だ。『合格点』は取れただろう)
内心でニンマリした総一郎だったが、そこでこの話は終了とはならなかった。
隼人はさらに返してきた。
「でも、できるやつもいるからなあ。俺、頭悪くってさ。困っちゃうよな」
「……」
困っちゃう。
アハハと照れ笑いする彼を前に、その彼の言葉が総一郎の中で残響する。
(これはSOSサインか)
彼は勉強ができなくて困っていると言っている。
そう。困っているのだ。
相手が困っていれば……。
(助けるのがパートナーというものだろうな)
幸いにも、自分は入学以来、学年一番をキープし続けている。自分で言うのは気がひけるが、勉強ができると言っておそらく間違いはない。ここで彼を救う役は、自分が最適……
……いや、自分以外にありえないのではないか? 総一郎はそう思った。
学校が違うので教室で教えることは不可能だが、都合のよいことに、自分の家は彼の通学経路上にある。部活の帰りに途中下車で家に寄ってもらい、自室で勉強を教えることが可能だ。
先日名前も交換し、挨拶および通常の会話は毎日交わしている。もう知り合いと……いや、友人と言ってよい関係。自宅に呼んでも問題はないはず。
(よく考えたら、『合格点』などで満足していてはダメだったな)
実際に取れるかどうかはまた別として、『百点』を目指すべきだった。十割を目指して初めて九割の得点が取れる。今のようなときは話を聞くだけでなく、ソリューションまで提供しなければ百点を目指す姿勢としては疑問符がつく。
ここでもう一歩踏み込むべきだ――。
俄然やる気が出た総一郎は、瞬時に口説き文句を作成した。
「隼人君。君の頭が悪いなどという事実はないと思う。だが現状のままでよいのかと言われると、やはりよくはないのだろう。その調子ではまた追試に落ちる可能性は高いだろうし、来月に始まる期末テストも赤点になるだろう。そこでも赤点ならまた追試地獄だ。いつまでたっても解放されず、寝不足が続く。そうなれば野球の練習にも影響が出てくるだろうし、早急な対策が必要かもしれない」
まずは、彼に申し訳ないと思いながらも不安を煽った。
悪い商売でもよく使われるやり方だと聞いていたが、よく使われるということは、効果的だということに他ならない。自身の提供するソリューションで彼を救うという目的がはっきりしている今、使わない手はない。
「そ、そっか。お前の言うとおりだろうな。あんまり考えたくないんで考えないようにしてたけど。やっぱ不安だよ」
「なるほど。では君に提案がある。僕が君に勉強のやり方を教えるというのはどうだろうか?」
そして次は、『ここだけのいい話』に聞こえるような提案をおこなう。これも商売でよく使われる方法だとされている。
「えっ、お前が俺を?」
彼はわかりやすく驚いた顔をした。
「そうだ。僕はこれでも学年一番をキープさせてもらっている。学力的には君を教える資格があると思う」
「ええ!? 頭よさそうだとは思ってたけど、あの学校で一番かよ! すげえな……。でも教えるって、どこで?」
「僕の家を使おう。君としては帰りに途中下車するだけだし、地理的な条件は悪くないはずだ」
「えええ!? い、家?」
彼がさらに驚いている。
最後に、その場で決断をさせることが大事になる。絶対に提案を持ち返らせてはならない。
「この提案は迷惑かな?」
「いやいやいや! こっちが迷惑なわけないだろって!」
彼は慌てたように、胸の前で両手を振る。
「逆にお前が迷惑じゃないのか? 俺なんかに時間使って平気なのか?」
「懸念はその点だけだな? ならば僕は全然迷惑ではないし、むしろやらせてほしいと思っているから、この話は決まりだ。今日はこちらの準備を整えるので、明日部活帰りにうちに寄ってもらおう。特に用事はないな?」
「え? あ、うん。用事はないけど」
「ではそれも決定だ。契約書はないが、口頭での約束でも法的には契約として有効だ。一般的には口頭での契約は立証が難しいとされるが、今回はこの車両に乗っている人間全員が証人となる」
「よ、よくわからないけどわかった……」
声が届いてしまった左右のサラリーマンが「はぁ?」という顔で総一郎を見ている。無論、集中している総一郎本人にはなんの障壁にもならない。
「よし。では後で家の場所を送ろう。LINEのIDか電話番号がほしい」
「じゃあどっちも教えるよ」
「ありがとう」
「こ、こっちこそ。なんか悪いな」
無事に彼に勉強を教えられる流れになった。しかも彼のLINEと携帯番号まで入手。
うまく行きすぎて怖い。
(ダメだ。まだ笑うな)
以前、父親との何気ない会話で、「塾講師や家庭教師は生徒と仲良くなることや信頼関係を築くことも大事だが、一番大事なのは『成績を上げること』である」と聞いていた。
総一郎は学生であり塾講師や家庭教師ではないが、今回役割としてはほぼ同義だろう。
笑ってよいのは結果が出てからだ。
* * *
電車からホームに降りた隼人は、まだ信じられない思いでいた。
(なんか凄いことになったぞ……)
全教科赤点を取ったこと。追試でも全滅し続け、期末テストが近づいている今でもまだ引っ張られ続けていること。これらは特に深い考えもなく、聞かれたから正直に答えただけだ。嘘をついてごまかすことでもないし、せっかく毎日会話をする関係になった彼に嘘をつきたくもなかったからだ。
だがそうしたら、まさかの展開となった。
(でも、嬉しいな)
LINEと携帯番号を交換できたのがうれしい。彼が自分を助けてくれようとしているのが嬉しい。彼の家に行けるというのが嬉しい。
最高すぎる。こんなコンボが来ようとは思っていなかった。
(うわー今なら空飛べそう)
隼人は両手を広げ、自動改札機に進んだ。
「ぐふっ」
閉まったフラップドアに腹部を強打した。
翌日――。
野球部の練習を終えた隼人は、約束どおりに総一郎の家に到着した。
(ず、ずいぶんと立派な家だな)
今は日が長い時期なので、ギリギリではあるだろうが、まだ明るい。家と庭がよく見えてしまう。
大きな門の向こうには、きれいに刈られた高麗芝が特徴的な、広い庭が広がっていた。そしてスタイリッシュなフラット屋根を持つ、二階建ての建物。屋上ではガーデニングをやっているのか、植木が見えている。
(あいつ、いかにも育ちがよさそうだったもんな)
意外性はないのだが、隼人は築二十五年の普通の家に住んでいることもあり、やはり気圧される感じはあった。門柱についたインターホンの前で固まってしまう。
(き、緊張する)
前日は嬉しすぎてそこまで頭が回らなったのだが、よく考えたら総一郎の家である。緊張しないわけがないのだ。
(準備は大丈夫のはず……なんだけど、不安だな)
練習が終わった後は、水泳部に頼んでシャワーを貸してもらった。学ランの中のYシャツは汗を吸収しすぎていたので、脱いでバッグに仕舞ってある。中に着ているTシャツとボクサーパンツもシャワー後に替えているし、汚れたバッグもしっかり拭いている。用意は完璧のはずだ。
(よし、行こう)
ボタンを押す決心を固めるのに結局数十秒を要したが、無事に門を乗り越えた。
玄関へと向かう。
「やあ隼人君、待っていたよ」
「こんばんは。息子がお世話になっております」
「ゆっくりしていってくださいね」
(……!?)
事前にLINEで三人家族であるということは聞いていたが、なぜか三人揃って扉の前でお出迎え。
隼人はガチガチになってしまい、どう答えたのかは瞬時に忘れた。何かの言葉を発してアハハハと笑って、カックンカックンと何度も頭を下げた。
辛うじて、父親は長身で眼鏡をかけていて、髪を決めている「できる風サラリーマン」のような容姿であり、どこかで見た顔のような気がしたこと。母親は髪が長く、おしとやかな雰囲気の女性であったこと。そして総一郎はどちらかというと父親似だということはわかった。
玄関から中へとあがっても、心臓のバクバクは止まらない。
(晩メシの誘い、遠慮しといてよかった……)
LINEのメッセージでは「よければ夕食も」という話もあった。さすがにそういうのは早すぎるだろうということで全力で辞退していたが、どうやらそれは正解だったようだ。
もしその話に乗っていたら、心臓破裂で生きて帰れなかっただろう。
* * *
総一郎は、自分の部屋に隼人を案内し、部屋の中央にある円卓のところに座るよう促した。
八畳の部屋は普段からきれいにしている。しかし念のため、彼を迎え入れるにあたり失礼がないよう、昨日学校から帰ってから大掃除を敢行していた。
壁際に置かれたベッドも、機能的なデスクも、報道番組しか見ないテレビも、舐められるくらいピカピカにしてある。棚の上に置かれたネオンテトラの水槽も水を替え、フィルタも掃除済。エアコンのフィルタも掃除し、蛍光灯もすべて新しいものに交換している。
部屋着も普段はチーバくんのロングTシャツを愛用しているが、彼に見られたらドン引きされそうなので、きちんとした襟付きのシャツを着た。トランクスも今日はチーバくん柄だったが、シャワー後にディープブルーのシンプルなものに変更した。穴はない。
隼人が円卓の前であぐら座りした。
そして学ランの詰襟が苦しいということで、上を脱いだ。
脱いだ中身はワイシャツではなく、白いTシャツだった。
(ワイシャツはバッグの中か……? 学ランの下にTシャツ一枚だったのか)
Tシャツ姿はもちろん初披露だ。
総一郎は円卓を挟んで……ではなく、隼人から九十度ほど回ったところに座った。真向かいではなく、彼の右斜め向かいである。
円卓はさほど大きくないので、生腕が近い。
(なんかエロいぞ……)
前腕は明らかに文化系の学生とは異質だ。構成要素が脂肪ではなく筋肉というのが一目見てわかる。
上腕も、あまり袖が長くないTシャツなので、かなり上の部分まで見えている。いつも部活ではアンダーウエアを着けているのか、あまり日焼けはしておらず、いわゆるポッキー焼けのような感じにはなっていない。だが、ゆるやかに色が移行している境界部は見て取れ、それが妙に刺激的だった。胸のたくましさや腹部の引き締まりも、学ラン越しよりずっとリアルに伝わってくる。
(鼻血注意だな。ここで出たら人生終了だ)
気を引き締め、隼人に話しかけようとした……が。
彼が胸を押さえて深呼吸をしている。
「ん、どうした? 隼人君」
「いや、緊張したなーって。ほら俺、お前んちに来るの初めてだし」
「緊張か。まあ初めてというのは緊張するだろうな」
お互いにな、と総一郎は心の中で付け加える。
「さて、時間もないことだし、始めようか」
「そ、そうだな……って、お茶かよ?」
彼の手に握られているのは、シャーペンではなく湯のみ。円卓の上におかれているのは、お茶と茶菓子のみだった。今のところは筆記用具すら置かれていない。
「ああ。今日はまず打ち合わせに時間を使おう」
「打ち合わせ?」
「そうだ。なぜ君が点数を取れないのか、その理由を見極めないといけない」
「理由、か。考えたこともなかったなあ」
腕を組んだ彼。
「まず、テスト勉強はいつもどうやっている?」
「どうやってって……教科書を見直して、ノートを見直して……」
「……。それで点が取れていないわけだよな?」
「取れてないな、まったく」
「では……。仮に部活の時間が縮まって、勉強時間を今より増やせるとしよう。そうなったときに点が取れそうな気はするのかな」
「取れる気はしないかなー。やっぱり俺、頭がちょっと。もし取れたら友達がびっくりしすぎてショック死しそう」
笑いながら頭を掻く隼人。
彼は照れたり恥ずかしがったりするとすぐに頭を掻く。どうやら癖なのだというのは、すでに総一郎も把握済みだ。
だが今の位置関係でそれを右手でやられると……袖の奥の脇の下が見えてしまう。
腋窩を構成しているしっかりした筋肉の壁と、薄い毛。
心の準備ができていなかった総一郎の心臓が跳ねた。軽い浮揚性めまいのような感覚に陥り、視界もホワイトアウトしかけた。
(み、見てはだめだ……。家庭教師も塾講師も、その仕事は脇チラで動揺することではない。『成績を上げること』だ。まずは結果を出さねば)
現世に踏みとどまれるよう、必死に心身に喝を入れた。
「少し考えたい。三分くれ」
三分? と首をひねる隼人をよそに、総一郎は目をつぶり、思案に入る。
彼の勉強の仕方は……たぶん悪いのだろう。普通の人であれば、彼のやり方でも悪くはないのかもしれない。だが彼はそういう次元には存在していない。
そして致命的な問題がある。「点が取れる気」がしないのにそのまま勉強していることだ。取れるイメージが湧かないからモチベーションも上がらず、勉強の質が悪くなる。勉強の質が悪くなるから点が取れず、ますます点が取れる気がしなくなる。悪循環以外の何物でもない。
これを解決するには……。
総一郎はアイディアをまとめていく。
「よし。わかったよ。君がどうすればいいのか」
「ホントか?」
「君は一度まともな点を取るといい。まともな点を取って、周りの人たちに褒めてもらうんだ。そうすれば今後も点が取れそうな気がしてくるし、その状態で勉強すれば、きっと今よりも質の高い勉強ができるようになってくる」
「そうなんだ? 俺なんかでも一度まともな点取ればイケる感じ?」
「ああ。勉強の第一歩はイマジネーションとモチベーションだと思っている。いい点が取れそうだと思って勉強するのと、どうせ取れないだろうなと思って勉強するのでは、その効果が大きく異なるからね」
「おお!」
ウキウキした声を出した隼人だったが。
「……って。俺、その『まともな点を取る』ってのができないから困ってるんだけど」
ガクッと彼の肩が落ちる。
だが、この答えも総一郎はすでに用意していた。
「ならばズルすればいい」
「え、カンニングとかか? 悪いことをするのはちょっとな」
「もちろん合法的なズルだ。今回それを僕が教える」
総一郎は湯のみを口に運び、のどを潤した。
「まずは教科書とノートを用意してだな……」
「うん」
「閉じたままにしておく」
「ん? 開かないのか」
「ああ。どちらも補助的に使う。メインで使うのはこれまでに落ち続けた試験の過去問だ。持ってきているな?」
「LINEで言ってたやつか。全部持ってきてるぞ」
五分くれ――。
総一郎はそう言うと、本試一回・追試二回の合計三回分の過去問を高速で眺めていく。
そして宣言どおり五分でチェックを終え、確信を得た。
「やはりな。出ている問題は同じだ」
「ちょっと待て。全部違うだろ?」
「いや。試験攻略の観点で言えば、この三回の試験はすべて同じ問題だ」
「そ、そうか。お前が言うなら、そうなのかな」
「少し出し方を変えているだけなんだ。問題は解くよりも作るほうがずっと労力が必要。作る先生は忙しいだろうし、完全な新作は出してこない。旧作のアレンジのみになるのは自然な話だ」
「……」
「だから君は、この三回分の問題を使って勉強するだけでいい。他は何もしなくていい。それだけで、次の追試については受かるだけでなく、〝まともな点数〟が取れるだろう」
「へー。なんか裏技っぽい」
「ああ。まずは学力アップというよりも、まともな点を取って気持ちよくなることが大切だ。君はそこから始めなければならない。勉強の第一歩はイマジネーションとモチベーションだ」
「気持ちよく、か。わかった」
「僕がナビするから、だまされたと思ってやってみてほしい」
「よろしく頼む」
直近の追試験が28点で、もっとも合格点に近かった世界史Bからいこう――。
ということで、総一郎は隼人に対し、設問と解答を声に出して読むように指示した。そして選択問題については、選択肢の内容もすべて読むように、と付け加えた。
「四択で正解を一つ選ぶ問題でも、選択肢を全部見直すのか?」
「そのとおりだ。他の選択肢はなぜ違うのかをはっきりさせる。そうすれば、その一問だけで四問勉強したことと同じになるし、問題を少しアレンジされても対応できるようになる」
「へー……」
総一郎は、彼が読みあげた設問や回答の選択肢の内容について、こまめに突っ込みや質問をしていった。そして隼人の受け答えやその表情、声のトーンや仕草に至るまで、厳しくチェックをしていった。彼の記憶への定着度がどの程度か確認するためと、会話形式にすることで記憶に残りやすくするためだ。
覚えていない、もしくは覚えていても怪しいものについては、そこで必ず調べさせた。使う順番はノートが先。それでも載っていないのは教科書を使ってもらった。
世界史Bが終わったら、他の教科に入る。
やることは同じ。三回の過去問の徹底的な見直し。他はいっさいやらない。
「よし。今日はここまでにしよう」
「あー! つかれたー!」
総一郎が終了宣言したときには、完全に夜になっていた。時間の都合もあり、ほぼ休憩なしだった。
野球部で体力があるとはいえ、また違うエネルギーを使うのだろう。彼が大きく伸びをして、後ろにバタンと仰向けで寝ころんだ。
「はは。それは集中した証だと思…………!?」
総一郎はねぎらいの言葉をかけようとしたが、途中で止まってしまった。
彼は伸びをしたまま仰向けになったので、シャツの裾から腹部が露出していたからである。
(なんだ、このサービスタイムは……)
もちろん彼は見せつけているわけではなく、見えてしまっているだけなのだろう。
だが、引き締まった生腹筋に、きれいな生ヘソ。学ランのズボン上からはみ出すディープブルーのパンツ――おそらくボクサーパンツ――。据え膳にも程がある。
総一郎の頬は瞬時に熱くなった。
彼は脱力した状態で目をつぶっている。
どうする?
手を伸ばすか?
それとも手を伸ばすか?
あるいは手を伸ばすか?
もしくは手を伸ばすか?
(なんてな。そんなことは論外だ)
総一郎は意識的に顔を逸らした。
彼はここに教わりに来ている。そうなれば、やはり自分は家庭教師や塾講師と同じ。役割は彼に追試で点を取らせることだ。
総一郎は、庭の門の外まで隼人を送った。
「今日はサンキューな!」
「ああ、気にする……な…………!?」
まるでヘッドロックのように、彼の腕が乱暴にギュッと首に巻き付いた。
男友達ではけっして珍しい光景というわけではない。運動部であろうが文化部であろうが、よく見られるものだろう。
なのに、首から脳天に至るまで瞬時に熱くなる。
暑い季節に、発火しそうなくらいの熱さ。
でもそれがなぜか心地よい。
距離が近いので、彼の香りを強く感じる。頭がクラっとした。
腕はすぐに離れ、彼も離れた。それがとてつもなく惜しかった。
「じゃあ、おやすみ!」
最後は、向き合った隼人のほうから手を差し出してきた。天使のような笑顔付きだった。
「ああ。おやすみ」
総一郎も手を差し出し、握り返した。そこで気づいたが、握手するのも初めてだった。
野球部の、硬い手だった。
* * *
(あれは失礼じゃなかったよな? 大丈夫だよな?)
隼人は、総一郎邸を後にして電車に乗ってからも、心臓がバクバクと鳴っていた。
腕が総一郎の首に回ったのは無意識だった。部活の仲間にはよくやるし、やられることもある。
だが、やってから気づいた。やはり彼は他の友人とは違う、と。
距離が近いので、彼の香りを強く感じる。頭がクラっとした。
腕を回しているのは自分なのに、あたかも自分の首が絞められているかのように視界が急速に白ばんでいき、ホワイトアウト状態になりかけた。
しかもそんな状態なのに、腕を外すことがもったいないと思った。
他の人にやっても、あのような感覚にはならないはずだ。
さらには、照れ隠しとカモフラを兼ねてやった握手。手を握るのは初めてだったが、その感触を忘れたくないとも思った。
(あいつ私服姿もよかったな。きっちりしてた。俺なんかと違って、家でもちゃんとしてるんだろうなあ)
そうやって総一郎の姿を思い返していたら、乗り過ごすところだった。
ギリギリでなんとか電車から降り、隼人は家へと帰った。
一日だけではやりきれなかったため、隼人は翌日も総一郎の家に行き、勉強のやり方を教わった。
そして、追試の追試の追試を受けた――。
「総一郎!」
朝の電車で、乗ってきた総一郎を見るなり、隼人は立ち上がってしまった。
「どうした?」
席の前に来た総一郎が、とりあえず座れ、と両肩を押さえてくる。
座り直しながら、隼人は報告をした。
「やったよ!」
「ん?」
「追試、全部通った!」
すると彼も、怜悧な顔をわずかにゆるめた。
「そうか。よかった」
「追試の問題、全部見たことがあるような問題に見えた!」
「ああ、そうなれば勝ったも同然だ。きちんと準備さえできていれば、学校のテストというものは、それまでに用意した引き出しを開けるだけだ。頭を使う問題など実はほとんどない」
「お前、すごいよ! ありがとう」
「おめでとう。君が頑張った成果だ。僕は一回で変われた君がすごいと思う」
今度は総一郎のほうから、手を差し出してきた。
隼人はその白い手を強めに握り返し、そのまま彼の顔を見た。
微笑のレベルからは逸脱していない。だがなんとなく、彼も心の底から喜んでくれているような気がした。
そして、彼が褒めてくれた。それが隼人には嬉しかった。
「先生やクラスメイトからも反響があっただろう?」
「めっちゃあった! 褒められたし、明日は大雪が降るとか言われた!」
「そうなるとやる気が出るから、次も点が取りやすくなっていく。しばらくはその好循環が続くようにしたい。期末テストも対策法を伝えたいので、今週中にまたうちに来てほしいけど、どうかな?」
「ぜひ! ぜひぜひ! ぜひ頼む!」
「じゃあ決まりだ。また先生やクラスメイトに褒められるようにがんばってくれ」
「ああ! またお前に褒めてもらえるようにがんばるよ!」
改札を出てからも、高揚感は止まらない。
(期末もがんばろっと)
また彼の家に行くことができる。そう思うと、自然と足取りも軽くなる。
いつもよりも早く校門までたどり着いた。
(よーし。勉強の第一歩はイマジネーションと……あれ、なんだっけ? なんとかベーション……マスターベーションだっけ? もう忘れちまった……。明日あいつに確認しよっと)
隼人は空を飛んでいるような感覚で、学校の敷地へと入った。
(『忘却はよりよき前進を生むが、それを言ったのがニーチェなのかフルーチェなのかはわからない話』 終)
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