第26話 銭湯②

「すみません、おじさんと小川さん、お二人の関係がわかりません」

 パンツ一枚の年寄りが僕とおっさんの間を遠慮なく通り抜けていく。

「えっ、知らんかったんかいな。わしは悠子の叔父、あの子の母ちゃんの兄貴や」

 ああ、僕には知らないことが多すぎる。

 それであの日、小川さんのアパートから出てきたんだ。でも、このことを教えてもらってもまだまだわからない事だらけだ。

 僕がそう思っているとおっさんは「邪魔して悪かったな、店の売り上げの計算あるから、これで失礼するわ」と言って叔母さんの方を見ながら「ゆっくりゲームでもやっていったらええ、お姉さん・・いや叔母さんと」と笑って奥の事務室みたいな所に入っていった。

 おっさんが消えるのを見たあと叔母さんは僕の方に手を伸ばして「こらあ、陽一、叔母さんに全部話しなさーい」と冗談ぽく僕の頭を手で軽くつつきながら陽ちゃんと呼ばす陽一と言って微笑みを浮かべた。

 叔母さんとは本や映画や漫画の話、何でもできる。でもこの事はたとえ叔母さんでも話したくなかった。

 僕が俯いていると「そう叔母さんが言うと思ったでしょ?」と言い「大事なことは、お母さんに先に話さなあかんわ」ときっぱり言うと叔母さんは再びコーヒー牛乳を飲みだした。母にはなおさら話せない。そのことを叔母さんはわかっているはずだ。

「でも、さっきの人、私、どっかで見たことあるなあ」

 叔母さんはどの部分を聞いて大事な話だって思ったんだろう。

「陽ちゃん、それより、はよ、ピンボールしよ!」

 叔母さんはコーヒー牛乳を飲み干すと勢いよく立ち上がった。

 僕もフルーツ牛乳を一気に全部飲んだ。

 叔母さんは新しくなったピンボール台に向かうと嬉しそうに「先、私からね」と言って小銭を入れピンボールを始めだした。

 ボールが弾かれだすと叔母さんは「きゃっ」とか「惜しいっ」とか色んなことを言って子供のようにはしゃぎだした。

 ボールが下の受け口に落ちてしまうと「終わってしまったわ」とこれもまた子供のようにしょげて「次、陽ちゃん」と言って僕に小銭を握らせピンボール台を譲った。

 僕がボールを弾きだすとピンボール台がうなるような音を出し始め高得点が出たことを知らせた。

「陽ちゃんの方がずっと上手やん!」叔母さんは嬉しいような悔しいような声で言った。

 次第にピンボール台の音と叔母さんの「やったっ」とか「もう少しで一万点!」とか言う叔母さんの声しか聞こえなくなった。

 横にいた叔母さんの声が近づいたかと思うと急に遠のいていった。

 湯あたりでのぼせたのかな、と思っていると、奥の風呂場のタライの音や休憩所の家族連れの笑い声までがだんだん聞こえなくなった。

 お湯の流れる音だけがした。

 お湯はこの建物のどこを流れているんだろう?

 このまま倒れるのかな・・貧血かな? だんだん意識が朦朧としてきた。

 藤田のおっさんの息子、まだお風呂に浸かっているのかな? 僕もあんな風に体が丈夫になりたい。

 そう思った瞬間、後ろから叔母さんが僕の腰に両手をまわして僕の両手をピンボール台からそっと離した。

「陽ちゃん、次は私の番よ」

 叔母さんは小さな声でそう言うと僕を近くの安楽椅子まで連れていき「陽ちゃんは、ここで見学よ」と言って僕を座らせた。

「お姉ちゃん、そんなにせんでも大丈夫や」と言いながらも僕は椅子に深く座り込んでしまった。

「ほら、叔母さんのこと、また、『お姉ちゃん』って言ってるやん。ここでじっと座っとき」と言って叔母さんも僕の横の高めの椅子にちょこんと座った。

 二人がピンボール台を離れた後には親子連れが小銭を入れているところだった。

「次、叔母さんの番とちゃうかったん」声が少し出にくい。

「あほ、今は陽ちゃんが休む方が大事や、叔母さん一人でゲームして何が面白いの」と言った後「一番あほなんは私や。陽ちゃんが湯あたりしてるのに気づかんとあかんのに」と小さな声で呟いているのが遠くに聞こえた。

 叔母さんはアイスクリームを買ってきて「一人やったら、量が多いから半ぶんこしよ」と言ってアイスクリームを匙ですくい上げると僕の口まで運んだ。

「これで体の中も、頭の中も少し冷やしなさい」

 冷たいイチゴの味がした。

「ほら、お水も・・水分はたくさん摂らなあかんよ」叔母さんはコップに水をもらってきてくれていた。

 僕はアイスクリームで一杯の口の中に冷たい水を流し込みながらピンボール台の方を見るとさっきの親子がうまく点をだせずに悔しがっていた。

「陽ちゃん、ピンボール上手やったわ。私、もっと見たかったな」

 叔母さんは床に着いていない両足をぶらぶらさせながら言った。

 だんだん体中の血が頭に戻っていく感じがした。

「今度、また来よね」叔母さんの声もはっきりと聞こえる。

 そっか・・体中に水が流れているんだ。

 自分だけでなく、他の人の力で水の流れが変わったりするものなんだ。

「うん、叔母さんも、もっと上手くならなあかん」

 僕は元気よく頷いて叔母さんをからかう。

「叔母さん、今度は負けへんよ」

 僕の声を聞いて叔母さんはその顔に安心した表情を浮かべた。

 その後、すごい派手な音がした。ピンボール台の音だった。見るとさっきの親子連れに変わって風呂の中にいた男の子、藤田のおっさんの息子がピンボールをやっていて僕より高い得点を出していた。

「すごいね。あの子、陽ちゃんの同級生?」叔母さんがそう言っているのを聞いて僕はとても悔しくなった。親子連れまで関心したように見ている。

「あいつ、銭湯の息子や、きっと毎日やってるから上手なんや」

 僕は心の中になんだか変なものを感じた。叔母さんの関心が向こうにとられるような、僕の方に関心を向けたいような、一体この感情は何だろう?

 僕の体の中が汚れて、せっかく飲んだ水が濁りだす気がした。


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