第10話 卵泥棒
独り暮らしをしていた時期に、一度だけドアの鍵を閉めるのを忘れて一晩過ごしてしまったことがある。
朝、職場へと向かうときに玄関が施錠されていないのを発見したときは「あちゃあ」と思った。女性向け物件ということで漏れなくついてきた、せっかくのツーロックも、ピッキングされにくい、ディンプルシリンダ錠もこれでは何も意味をなさないではないか。不注意極まりない。
まあ、しかし、何もなくてよかった。今後は気を付けよう。反省しつつ鍵をしめてさっさと外へと歩きだした。冬の朝の光は鮮烈で、空気は澄んだ匂いがした。新しい一日の始まり。月末処理が近いので今日も張り切って仕事をしないとな、なんて思いつつ肩をぐりぐり回した。
「ええっ! じゃあ福井さん、一晩鍵を開けっぱなしで過ごしたんですか!?」
お昼休み。女性の同僚何人かとお弁当を食べながら、失敗しちゃったあ、と軽いノリで鍵の閉め忘れを自己申告すると、想像以上の反応がかえってきた。
「ダメだよ! 危ないよ! ここらへんすっごく治安悪いんだから。この間だって、近くに住んでる庶務課の崎島さんのところに空き巣が入ったばっかりなんだから」
「え! そうなんですか!?」
「そうそう。ガラス割られて、現金とかブランド物のバッグとか軒並みやられたって。まあ、犯人と鉢合わせしなかっただけよかったよね、って崎島さんは言ってたけどさあ」
「確かに……」
「確かに、じゃないよー、もう。怖い怖い」
しっかりしなきゃダメだよー、と同期からは怒られた。返す言葉がなかった。
一時間ほど残業をして、仕事を終わらせた私は帰宅した。
昨日買い物をしたからスーパーによる必要はなかった。
風呂を入れ、お湯を溜めている間に弁当箱を洗い、夕食、というか晩酌の準備をする。
毎日、風呂上りに自分で作ったおかずと、それに加えて一本ずつ、ビールと、缶チューハイ(ほろよいというアルコール度数わずか3%のチューハイ)を飲むのが当時の私の楽しみだった。
その日は寒いので、キムチ鍋にすることにした。ねぎ、白菜、あく抜き済みしらたきに、椎茸、豆腐を切って、水を張ってだしであるウェイパーを投入した鍋に入れる。キムチを加え、ことこと煮る。豚肉は最初から煮てしまうと、固くなるから最後。あと、ちょっとボリュームアップに卵もいれよう、と私は冷蔵庫を開けて、卵のパックに手を伸ばして、あれ、と首を傾げた。
昨日六個いりの卵パックを買った。昨日は卵を使った料理をしていない。それなのに……卵が五個しか入っていない。
背筋がぞくっとした。何かの記憶違いじゃないか、と私は昨日の晩酌のメニューと、今日の弁当の中身を思い浮かべる。
昨日は、スーパーに買い出しの日しか味わえないお寿司……鉄火巻きと、おとといの残りの肉じゃが。それに冷奴で手軽に済ませたのだった。お弁当は鳥の照り焼き丼。ご飯の上に、刻んだキャベツと鶏の照り焼きを乗せ、プチトマトを添えたものにした。やはり卵は一つも使っていない。
スーパーで買った時点で五個しか入ってなかったのではないか、ということも考えたが、卵を買う時にひびが入っていないかパックをひっくり返して確かめる習慣のある私が、そんな欠落を見落とすとも考えにくい。
じゃあ、なんで卵が五個しかないのか?
……私の頭の中にあくまで一つの可能性として、ある映像が浮かんだ。
鍵が開いている家のドアを開けて、誰かが入ってくる。私はのんきにお風呂に入っているか、もしくは寝息をたてているかで、気づかない。
侵入者は、冷蔵庫を開けて、中身を物色し、唇をなめながら六個入りのパックから卵を一つ、そっと抜き取る。
そこまで考えて、気味悪くなった私は、料理の手を止めて、冷蔵庫の中身を全て引っ張り出して点検した。
卵が一つ無くなっていること以外に、不審な点はなにもなかった。
だが、落ち着かなかった。一晩鍵が開けっぱなしだった我が家は『運よくなにも起こらなかった場所』から『何かがあったかもしれない場所』に変化していた。私は通帳が隠してある場所や、大切な書類がしまってあるブリーフケースの中、衣装棚の中の下着や、クローゼットの中にしまってある衣服や鞄などを一つ一つ見ていった。
卵の一件がなくても、何もなかった。よかった、なんて安心する前に、一応何がなかったかチェックはするべきだったのだ。私はつくづく迂闊な自分を自分で責めた。
だが、結果的に、幸運にも、というか卵が一つ無くなっている以外に不審な点はやはり何もなかった。
誰かが侵入したかもしれない可能性がある以上、警察に電話してみようか、とうい考えもちらりと頭をよぎったが、まあ思い込み違い、ということで相手にされないだろうな、と思ったので止めた。
結局、なんで卵が一つなくなっていたのかは謎のままである。
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