第五話 神様と人間と、人間のおはなし

 備前岡山の日本刀を巡る取材の旅も、いよいよ終着点。

 一泊二日の超弾丸取材ツアーの最後を締めくくるのは、刀剣の里に根差し、古くから地域と刀匠の信仰を集めてきた、靱負神社【ゆきえじんじゃ】の取材です。

 一月の事前取材でも参拝し、二月の本番取材の二日目では備前おさふね刀剣博物館の学芸員杉原さんにもご案内いただいた靱負神社。

 そもそもなぜ靱負神社を取材しようと思ったかと言えば、日本刀の世界には『奉納刀』という文化があるからです。

 刀匠が神事のために刀を打つこともあれば、単純に奉納品として納められる場合もあります。

 靱負神社は刀匠の里にある神社なんだから、様々な逸話なり、刀匠の刀なりが奉納されてるに違いない……と、一月より前の和ヶ原は考えていました。

 それこそ、武具の里の神殿には伝説の武具が納められてるんだ!程度の発想でした。

 ですが、一月の予習取材、そして刀匠川島さんと学芸員の杉原さんとの交流の末、そういった発想は即座にどこかに飛んで行きました。


 こんな刀匠との交流がある!

 こんな刀が収められている!

 わあ! すごい!!


 これでは単なる観光客の感想です。

 繰り返しになりますが、この取材は将来の和ヶ原が「小説を書くための取材」です。

 いざ将来、刀や刀匠、あるいは刀剣の里といったエッセンスが盛り込まれた小説を書こうとしたとき、そこには作品の中での人間の生活があります。

 その生活を描く上で、刀匠や刀剣の里の信仰というものはどういうものなのか。

 信仰される神社側からの接し方はどうなっているのかを知ることこそが、本来の取材の本旨のはず。

 

 これまでも色々な形で繰り返してきたことではありますが、取材した事実をありのままに伝えなければならない報道の取材とは異なり、小説の場合、取材したことをそのまま作品に落とし込むことは非常に稀です。

 解説書や学術書を書くわけではないので、本来あるべき部分を意図的に改変したり描かなかったり、世界観に合わせて全く別のものに変えてしまったりなどということは普通にあります。

 ただ、作品を成立させるために嘘をつくのなら、真実を知っておく努力をするべきだと、和ヶ原は強く考えております。

 知らずに間違えることと、知っていてずらすことには天地ほどの違いがあります。

 そしてこの日の午後、和ヶ原は、こんなに身近なはずの神社について、そもそもほとんど何も知らなかった、ということを知りました。

『神様の御用人』の世界を描いた浅葉なつに一緒に来てもらっていながら、彼女の著作を読んでいながら、神社の本質についてなーーーーんにも分かっていなかったこということを知りました。


                    ※


 とにもかくにも、備前長船刀剣の里を辞した我々は、取材に応じて下さった靱負神社のご神職の下に参ずるべく、タクシーに乗っておりました。

 刀剣の里での取材中に浅葉なつの担当編集さんであるSさんと合流。

 移動に多少時間がかかったため、和ヶ原、浅葉、編集Aさん、Kさん、Sさんの五人でさっとお昼を食べるために丸〇製麺に立ち寄り腹ごしらえ。


 そしてたどり着いたのがこちら。


 瀬戸内市役所。

 えっ? なんで市役所?

 市の観光協会にでも行くの?


 違います。


 取材に応じて下さった靱負神社のご神職は、瀬戸内市の副市長を務めていらっしゃったのです。


 瀬戸内市副市長(2019年2月現在)、高原家直さん。

 高原さんは我々が前日に川島さんの作業場にお邪魔したことや、この日の前半に刀剣博物館で杉原さんに案内していただいたことをご存知でした。

 何でも川島さんのご家族からお電話をいただいていたということで、刀匠の信仰を集めてきた神社のご神職と刀匠のご家族の間に日常的なお付き合いがある、ということを図らずも教えていただき、一人で盛り上がっていたのはここだけの話。

 

 応接室に通していただいた我々は早速、靱負神社についてお話いただくのですが、その前に靱負神社がどういった神社なのかを改めてご紹介いたします。


                      ※


 靱負神社は長船町長船にあり、備前おさふね剣博物館から歩いて五分ほどの、天王社刀劔の森【てんのうじゃとうけんのもり】に鎮座します。

 天忍日命【あめのおしひのみこと】や、刀匠川島さんの回でも登場した『天目一箇神』【あめのまひとつかみ】が御祭神としてまつられています。

 天忍日命は天孫降臨の先払いをした神であるため、武人の信仰を古くから集めていました。

 靱負神社の名前に使われる文字である「靱【うつぼ】」とは矢を入れるための道具を表しています。

 その「靱」を「負」ってきた神様をお祭りするから、『靱負』。

 足利尊氏が長船の地に陣を敷いた際に目を患い、祈願したところ快癒したとの言い伝えから、古くから眼病平癒の霊験があると言われています。

 杉原さんの案内で、神社の表の参道からお参りする様子。

 備前は焼き物の里でもあります。備前焼の狛犬がお出迎えしてくれます。


 正面の社殿の正面にはかなり広くスペースが取られているのですが、ここで刀匠が、奉納神事で刀を打つこともあったそうです。


「め」と書いた紙を奉納することで眼病平癒の祈願となるようで、我々が参拝した際にも、この写真のように、沢山の「め」の紙がありました。


「め」の紙ですが、よくよく見ると、特別改まった紙に書いているわけでも、改まった書き方をしているわけでもありません。

 ほとんどが子供の字であることを差っ引いても、大半がルーズリーフとかコピー用紙で、

 一応、神様に祈願するためのものなのになんか色々適当だな、と思ったのを覚えています。

 ただ、この「適当だな」という思いは、後々になって思いもよらぬ形で改まることになります。


                  ※


 さてここで唐突なのですが、皆さん、日ごろ、神社とどのように関わっていますか?

 折々の機会にお参りや御祈祷をして、厄払いをして、おみくじを引いて、お祭りに遊びに行って、事業や商売の繁栄を祈って酉の市で熊手を買って……と、これくらいしていれば、現代の感覚から言えば、しっかりと関わっておられる方だと思います。

 近年ではテレビで「正しいお参りの作法」なんてものが繰り返し流れるようにもなっていますので、大きな神社や観光地に近い神社に行くと必ず、正しいお参りの作法を復習している若い人の姿も見るようになりました。

 では、一歩進んで、皆さんご自分がどちらの氏神様の『氏子【うじこ】』かご存知でしょうか。

『氏子』とは本来は同じ氏神様の周辺に住んで、氏神様を篤く信仰し、祭礼に深く関わる人々のことを指しているのですが、現代の一般的な感覚で言えば『ある神社の近くに住んでいる人、家、地所』という程度の認識になります。

 家を新築するときなど、土地のお祓いをしましょうという話題が出ると『こちらの土地は〇〇神社さんの氏子になりますね』と、気の利いた不動産屋さんやハウスメーカーさんなら把握していることがあります。

 厳密には御祭神の性格上祭祀圏が明確でなく氏子を持たない神社や、神社神道とは違う教派神道というものもあって正確ではないのですが、現代の日常会話の上で自分がどこの氏子かと言えば、大体一番近くにある神社の氏子、と考えれば間違いありません。

 町内会などに所属している方でしたら、氏神様の例大祭ごとに町内会費から玉串料を奉納している、と聞いたことがある人もいるかもしれませんね。

 ただ……令和の時代になった今ではこの辺りの話が、あまりピンとこない方も多いと思います。

 氏子以前に町内会に所属している世帯自体が、全国的に減っています。

 その上、厳密な意味での氏子というものは、そう簡単に増えたり減ったりするものでもありません。

 主要構成員の高齢化が深刻に議論されることも近年多くなってきています。

 基本的には、伝統が引き継げなくなる、という性質の、明るくない話題として取り上げられることが多いのですが、この日、和ヶ原が高原さんから伺った話は、ちょっと性質が違っていました。


 靱負神社の氏子総数は百戸で、規模としては小規模なもので、歴史的にこの数が大きく増減したことはないそうです。

 この氏子の方が中心として行う祭事の中に「お日待ち【おひまち】」というものがあります。

 靱負神社独特のものではなく全国的にある祭事で、「庚申待【こうしんまち】」とも言うそうですが、読んで字のごとく、ご来光を拝むための祭事なのだそうです。

 夜に所定の家に集まり、神様をお祭りしながら宴会を催し、朝日を遥拝する祭事です。

 この「所定の家」はその年一年、神事を受け持つ氏子である「祷主【とうぬし】・祷元【とうもと】」のお宅であり、この家を「祷屋【とうや】」と呼び、氏子が輪番でこの祷屋を受け持つのだそうです。

 お日待ちは神事ですから、祷屋の家にはそのための道具一式が持ち込まれ、番を受け持つ一年の間、大切に保管します。

 番が終わって次の番に回すことを「祷渡し」といい、次の人はまた一年、道具を大切に保管します。

 

 で、ですね。

 お若い方にちょっと聞きたいのですが……。


 これ、祷屋になるって、どう考えても大変ですよね。

 滅茶苦茶面倒そうじゃありませんか?


 地域から氏子が家に集まってきて、夜通し宴会をするわけです。

 持ちよりもあるでしょうが、祷屋はホストとして神事の段取りを組みつつ氏子たちを迎える準備をしなければなりません。

 そして、お日待ち以外にも様々な年中行事があるのです。

 お金も体力も時間も必要です。

 伝統の神事だから、というだけで、なかなかできることではありません。


 高原さん「ただね、今は大勢集まれるような家もありませんから、地域の集会所でやったり、お宮さんでやらしてくれ、というのが大半です。朝だけやる地域もあります」


 え? それでいいの?


 高原さん「形骸化した、と言えばそうなんでしょうが、それでも伝統のお祭りとして受け継がれてはいるんです。神事の道具も保管するのが大変ですから、祷渡しの際に渡す道具も御幣【ごへい】のみにしているところもあります」


 形骸化、というと良くないイメージの言葉として使われることが多いのですが、伝統的に氏子を受け継いでいるご家庭ですら神事を本来の形で維持することが難しいのなら、現状に即した形に変えていい、というのです。


 高原さん「今は氏子だけにこだわってたらいかんから、もっとゆるく、地域の人とやっていく形に変わっていかなければって話になってるんです。お祭りのときには驚くほど沢山の子供たちが集まってきたりするんですよ」


 もちろん理想は、昔ながらの伝統を百パーセント受け継ぐことなのでしょう。

 ただ、できないことにこだわって失うよりは、伝統の肝を残して形は変えれば思いだけはつながるわけです。

 もちろんその結論に至るまでには様々な思いやジレンマがあったのでしょうが、高原さんのお話を伺う限り、靱負神社と氏子の皆さんにとっては、お互いのやり取りの末に自然にそこに落ち着いた、という印象を強く受けました。

 ああせねばいかん、こうであらねばいかん、と頑迷になることなく、本当に大切なものを受け継ぐために、お互い柔軟にやれるところは柔軟にやりましょう、と手を取り合っていることを、ひしひしと感じました。

 

 さて、ここからがようやく刀に関わるお話になってくるのですが、ここでも靱負神社は柔軟でした。


 武人と刀匠の信仰を集めた理由は、御祭神に由来するところが大きいのですが、ではそもそも靱負神社がなぜこの地に建立されるに至ったか、という質問を、浅葉なつが発しました。

 靱負神社は元は今の吉井川に沿って北のほうにある『舟山【ふなやま】』という場所にあって、鉄を運ぶ吉井川の流れが歴史的に変わっていく中で、今の場所に落ち着いたのではないか、との説をお話しいただきました。

 長船から吉井川をやや南に下った近い備前福岡(今の長船町福岡)の地は、鎌倉時代には西国一の賑わいを見せる市場があったことで有名で、福岡一文字派と呼ばれる刀工たちが腕を振るっている地域でした。

 吉井川の流れが変わったため、現在は川の西側に位置してしまっていますが、この地にも信仰を集める石津神社【いしづじんじゃ】という神社があります。

 一方の靱負神社の長船の地はもちろん長船派の刀工たちが一時代を築きます。

 現代では同じ長船町内ですが、川の北と南でそれぞれに神様と刀の腕で地域が盛り上がっていた時代があったわけですが、靱負神社は舟山から長船に、刀の里の隆盛を追って、鉄を運ぶ船とともにやってきたと考えられるわけです。

 

 そして、個人的に一番面白かったのが、神社に掲げられた扁額【へんがく】の話。


 靱負神社をネットで検索すると、ほぼ確実にこちらの社殿の画像が出てきます。

 が、実はこの社殿、天忍日命【あめのおしひのみこと】をお祀りする靱負神社の本殿ではなく、崇神天皇をお祀りする社殿なのです。


 では靱負神社の本殿はというと、正面の社殿の右の奥にある、この脇本殿なのです。


 その脇本殿に掲げられている扁額(神額)がこちら。


 よく見てください。

 ここは「靱負神社」なのですが、「靫屓神社」となっています。

「靱」と「靫」は同じ矢を入れる道具を現す漢字なのですが「負」と「屓」は全然違う字です。

「負」は「靭」を背負っているから「負」なのですが、「屓」となると、鼻で息をするとか、他を支える、という意味になり、微妙に意味が分からなくなります。

 高原さんはこのことについて氏子の方にヒアリングをして下さり、こういうことだったのではないか、と仮説を話してくださいました。


 既に刀工の信仰を篤く集めていた靱負神社に、どうにかして「刀」の文字を入れたかった人物がいて、その人がなんとなく「負」という字に刀を混ぜ込んだ結果、それが更に転じて「屓」になったのではないか、という説でした。


 もしこの説が正解なのだとしたら、その人物が神社の人であれ氏子であれ、扁額にそれを採用しちゃおうとするのですから、なんとも郷土愛と遊び心と柔軟性にあふれた話だと覆います。


                    ※


 この日、高原さんに伺った靱負神社のお話は、川島さんや杉原さんから伺った話の、広大な延長線上、刀剣の里で神社がどのように地域の人々と向き合ってきたかという話に収束する「リアルな神社の生き様」のお話でした。

 神社神道というものは、教えを開いた教祖がいるわけでも、厳しい戒律があるわけでも、信者を導く経典があるわけでもありません。

 氏子、というシステム自体、中世の「惣【そう】」と呼ばれる村落の統治形態から発したものだという説があります。

 人々を教え導き救済する一般的な意味での「宗教」とは違い、神社と人々の関わりは日々の生活に根差し、地域、共同体、村落の安寧と繁栄を願って形作られていったものでした。

 こと、靱負神社は決して大きな神社ではありません。

 古くから地域の産業や生活と密接にかかわり続けて信仰を集めてきたからこそ、神社の側もまた、人々の生活の在りようや変化を敏感に感じ取ってきました。

 そして在りようを柔軟に変えてきたからこそ、伝統が形を変えつつも、今に受け継がれているわけです。

 そこで翻って、あの「め」の紙の写真を見てみます。


 決して改まった紙でも書き方でもなく、先述の通り、和ヶ原の最初の印象は「適当だな」でした。

 むしろ日用品としか呼べないものを使ってこの「め」の紙は奉納されています。

 ですが、よく見るとほとんどの紙が新しいのです。

 定期的にこの「め」の奉納が更新されていることが分かりますし、日常のものを使って気軽に奉納ができる、ということが、それだけ神社が地域の人々にとって、気安い存在であると考えることもできます。

 気安いということに、神社の品格、威厳などと絡めて眉を顰める向きも当然あるでしょう。

 ですが、形を変えつつも神域に伝わる伝統の肝はしっかりと伝えられ、地域を愛し地域に愛され、祭事の際には氏子総数をはるかに超える人々が訪れ、氏子の皆さんもまた、形を変えつつも神事と伝統をつないでいこうと努力をされている。

 

 将来、日本刀に関わらず小説の中で神社を描くことになった場合、こういう神社を書きたいと、思ってしまうわけです。


 瀬戸内市役所、副市長室にて、左から浅葉なつ、和ヶ原、高原さん。


                    ※


 最後に、瀬戸内市に日本刀の取材に行った者として、どうしてもお話しておきたいことがあります。

 

 「山鳥毛【さんちょうもう/やまとりげ】」という、刀があります。


 正確な文化財としての名前は、「太刀 無銘一文字 <山鳥毛>」。

 昭和27年3月29日に国宝に指定されました。

 刃長が79.5㎝、反りが3.4㎝、重さが1.06㎏。

 鎌倉時代中期の福岡一文字派の作と考えられています。


 この山鳥毛は、個人の所有者が手離す意思を示しており、瀬戸内市が五億円の購入予定額で、里帰りの計画を立てております。

 国宝は持ち主が個人か法人である場合は売買が可能であり、文化財保護法第46条の規定により、国に優先買取権が認められています。

 ですが、もし国、あるいは地方自治体が買い取った場合、国宝はもうそこから動くことはできなくなります。

 そして、これは極論ではあるのですが、個人や法人によって買い取られた場合、逸失の可能性も否定できません。

 現実に文化財保護法が制定されてから今日に至るまで、国宝と重要文化財が百点近くも、文化庁が所在を把握できなくなっており、中には重要美術品がコレクターの手に渡った末に海外の競売にかけられていたというケースまで存在します。

 日本刀の世界でも、国宝「短刀銘来国光名物有楽来国光」が、個人の所有者を伝来した末、平成の中頃から2013年まで行方不明になっていました。

 

 山鳥毛は、上杉家に縁の深い新潟県上越市が一度買い取りの名乗りを上げたのですが、実現しませんでした。

 備前の日本刀を代表する国宝「山鳥毛」が縁の地に戻り、今後備前だけでなく、日本刀文化全体の発展に貢献するこれが最後のチャンスであると、今回の取材で接した全ての方が力説されています。

 

『良い刀』とは、心を込めて作られ、大切にされてきた刀であると、刀匠の川島さんは仰いました。

 日本刀の歴史とは、日本の鉄の歴史と同義であると学芸員の杉原さんは仰いました。

 そして副市長の高原さんは、日本の鉄の歴史を宿した『良い刀』を故郷に帰し、更なる日本刀文化の発展に貢献していきたいと仰いました。


 今回和ヶ原が取材の中でお会いした方々は、それぞれに日本刀と、日本の文化と、そして今と昔の人々の生きざまに寄り添い続ける方々でした。

 そんな人達の元に、再び山鳥毛が戻ってくれれば、再び現代に日本刀の歴史が輝き始めるのではないかと期待せずにはおれません。

 五億円という金額は、確かに安いものではありません。

 瀬戸内市ではクラウドファンディングを活用した資金調達を計画していますが、五億円までは今しばらく、時間がかかりそうです。

 もしこの里帰りが実現せず、将来この山鳥毛が何かの理由で逸失するようなことがあれば、その損失は瀬戸内市のみならず、日本と日本刀の文化史においてお金では計り知れないものになるでしょう。 

 国宝を動かす機会は、今ここにしかないと川島さんは仰いました。

 

 もし本連載を読まれた方の中で、日本刀や備前長船刀剣博物館、瀬戸内市、そして国宝「山鳥毛」に興味を持たれた方がいらっしゃったら、是非こちらの「山鳥毛里帰りプロジェクト」の概要をご覧いただければと思います。

 「瀬戸内市 山鳥毛里帰りプロジェクト HP」 

 https://setouchi-cf.jp/

                       ※


 カクヨム連載企画 電撃ディスカバ:Reポート「和ヶ原、日本刀を学ぶ」は、これにておしまい。

 閉庁後の市役所から高原さんに見送っていただき、我々は東京行き新幹線の終電に乗るべく急いで岡山駅に向かいました。

 帰りの新幹線の中では、この一泊二日のウルトラ弾丸取材ツアーで出会った出来事、見たものが目まぐるしく渦巻いて、ああ、知恵熱って本当にあるんだと思いながら、この翌週に控えていた、渋谷区笹塚の書店で行われる、合同サイン会に向けての準備を進めていました。

 

「はたらく魔王さま!」で電撃文庫よりデビューしはや8年。

 作家としての分水嶺に差し掛かる頃合いですが、そんな折にこの取材に行けたことは、今後とても貴重な財産になったと思います。

 今回の取材で得たものが、一本の小説に集約されるのか、それとも分散して色々な小説のエッセンスとして取り込まれるのかは、和ヶ原自身にもまだ分かりません。

 ですが、間違いなく和ヶ原は日本刀と、それにまつわる様々な事柄のリアルな部分に触れることができました。


 この財産をくださった川島さん、杉原さん、高原さん。編集A氏、O氏、K氏、S氏、そして浅葉なつに、改めてこの場を借りて御礼を申し上げます。


 既にこの取材を行ってから半年がたってしまいましたが、そう遠くないうちにまた岡山を訪れて、色々見聞きしていきたいと思います。

 とても、いいところでした。

 純粋に、また行きたい。


 東京駅到着直後。さすがに顔が疲れている……。


《終わり》


★取材に同行した浅葉なつによるスペシャルエッセイもチェック

⇒第五話補記:浅葉なつ、もうひとつの電撃ディスカバ:Reポート




◆次回予告◆

電撃文庫『錆喰いビスコ』著者・瘤久保慎司による【第二回真っ向取材 電撃ディスカバ:Reポート】が始動!! ご期待ください!


    取材テーマ:キノコの「本当」に迫る!


 


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