第95話 主従関係②

「ああ、その通りだよ」

 渡辺さんはサヤカを抱きかかえたままニヤリと笑い、「外の奴らの血は、みんなサヤカに飲ませてあげた」と言った。「おかげで、サヤカは、こんな体になったけどね」

 この平屋住宅の一帯は、渡辺兄妹の巣窟のような場所だったのか?

 そこへ伊澄瑠璃子が戻ってきた。

 おそらく、ここは仮の住まいなのだろう。現在、伊澄瑠璃子が住んでいる場所ではない。本当の家は、どこか他の場所にあるはずだ。


「サヤカの体が元に戻らないのなら、貴様をやってしまうまでだ!」

 開き直ったような渡辺さんの声が響いた。悪意に満ちた声だ。

 自暴自棄になっているのか、


 だが、サヤカは首を横に振った。再び小さく「兄さん」と呼びかけている。

 その弱々しい声は、「もうよしましょう」と言っているようにも聞こえる。

「おい、サヤカ、どうした!」渡辺さんはサヤカを奮い立たせるように呼びかけ、

「この際、この女、伊澄瑠璃子と刺し違え覚悟で、やってしまおう」

 渡辺さんは、何をするというのだ?

 だが、妹のサヤカの方は、兄である渡辺さんほどの勢いはないように見える。

 そんな二人の様子を見て、伊澄瑠璃子は、

「あら、ちっとも仲良くなかったわねえ。美しき兄妹愛は、見かけ倒しね。私の勘違いだったのかしら」とあざ笑った。


 渡辺さんは、「ちくしょうっ」と言葉を放ち、伊澄瑠璃子に向き直って、

「サヤカの代わりに、俺が貴様の血を吸ってやる」と牙を剥くように言った。

 実際に渡辺さんの口から、ずずっと伸びた歯が光っている。吉田女医のような尖った歯だった。

 渡辺さんは伊澄さんの血を吸う気なのか?

 そう言えば、佐々木奈々が言っていた。

「屑木くん、伊澄さんの血を吸って!」と。

 佐々木の言う通り、僕は伊澄瑠璃子の血を吸う直前までいった。しかし、あえなく松村に妨害された。


 もしかすると・・伊澄瑠璃子の血を吸った者が、伊澄瑠璃子の上位に立つことができるのではないのだろうか?

 僕が君島さんの血を吸った後、君島さんが僕に寄り添ったように、主従関係が成立する。

 それを佐々木奈々は見抜いていた。

 だったら、今、渡辺さんが伊澄さんの血を吸うことは、僕たちにとって非常にまずいことだ。

 おそらく、渡辺さんは伊澄さんの血を吸った後、僕らに襲いかかる。

 今のうちにここを出よう・・外の老人たちを振り切れば何とか脱出できるはずだ。


 だが、渡辺さんがそんな僕の思いとは関係なく、

 伊澄瑠璃子に飛びかかった。

 渡辺さんは、伊澄さんの両肩を押さえ込んだ。

 だが、彼女は何ら抵抗することなく、渡辺さんの勢いに体を任せている。

 渡辺さんの口が、がばあっと大きく開かれた。

 口の中から、「あれ」がヌルヌルと這い出てきた。

「おおおおっ」渡辺さんの異様な声が響いた。血を吸う前の興奮から出る声なのか。

 その証拠に渡辺さんの声が「はあ、はあ」と上ずっている。


 だが、渡辺さんは大きな間違いをしていたようだ。

 それは傍観者の僕でもわかるし、神城にもそれが分かったようだ。

 つまり、伊澄瑠璃子の姉、伊澄レミの分身である「あれ」が妹である伊澄さんの血を吸うわけがない。

 僕のような体の中に「あれ」がないタイプの吸血人が血を吸うのと訳が違うのだ。

 

 そう思ったのと同時に、

 渡辺さんが「んぐっ」と、くぐもったような声を出した。

 そして次に、渡辺さんの体が、伊澄さんから勢いよく離れたかと思うと、

 喉を押さえながら畳に突っ伏した。

「んごっ、んごっ」と押し潰されるような声を上げ、のたうち回りだした。

 喉を押さえ苦しんでいるところを見ると、やはり予想通りのことが起こっている。

 渡辺さんの中の「あれ」が自分の体を攻撃し、苦しめているのだ。喉を掻きむしるようにして時折「ちくしょうっ」と同じ言葉を繰り返している。


「おほほほっ」高笑いと同時に、伊澄瑠璃子は不敵な表情を浮かべ、

「あらあら、妹さんの次は、お兄さんが大変なことになったわねえ」と言った。


 その様子を見ていたサヤカが、腕の触手を長く伸ばしたかと思うと、しゅるしゅると天井に向かって伸ばした。

 天井にはサヤカが舞い降りてきた板の穴がある。

 サヤカは触手の腕を器用に使って、そのまま天井に上がっていくつもりだ。

 おそらく、身の危険を感じたのだろう。

 伊澄瑠璃子はあえて逃げるサヤカを追うつもりもないようだ。両腕を胸元で組み、高みの見物をしている。


 渡辺さんは、妹が脱出するのを見つけると、喉を押さえながら、

「ま、待ってるれ、サヤカ!」と混濁した声を発しながら慌てふためいた。

「俺を置いていかないでくれ!」そんな意味の言葉を言ったと思われるが、顎が外れている上に、口の中の異物のせいで聞き取れない。

 だが、妹のサヤカは兄の方を振り返ることなく、天井の中に消えてしまった。

 ゴトゴトと天井を這う音が聞こえる。

 これがこの兄妹の結末なのか。

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