第40話 邂逅

◆邂逅


 気がつくと、近所の公園に来ていた。箱ブランコのある公園だ。

 園内は雨のせいで誰もいない。

 箱ブランコ以外にも、普通のブランコ、すべり台、ジャングルジムなどが点在している。

 砂場に誰かの置き忘れたスコップやままごと道具が寂しく映る。

 今は、雨に濡れる方が落ち着く。

 ・・今日は一日大変だった。

 傘の中で、神城に迫り、キッチンで母の指を咥え、挙句の果ては隣の美也子ちゃんに手を出すところだった。

 取り敢えず、雨でびちゃびちゃのブランコに腰かける。お尻が冷たい。

 こんな所にもいたくないが、今は人のいる場所を避けたい。

 だから、本屋にも、図書館にも、ゲームセンターにも行けない。商店街なんてなおさらだ。

 ここで雨が止むのを待つことにしよう。少し小降りになってきたことだし。

 でも、雨が止んだとしても、家に帰るのも勇気がいる。母の顔をまともに見ることができない気がする。

 もうすぐ夏が来るというのに、寒い・・おそらく雨のせいだろう。


 その時、肌がざわつくような感覚が襲った。

 ぞくぞくっと背筋に悪寒が走り、僕は両腕でぎゅっと体を締めつけた。

 いっきに辺り一帯が暗くなり、木々の葉がざわざわと揺れ出し、足元の土が風に舞いだした。

 すると突然、

 ずん、と僕の体が前のめりになった。

 強い力で背中を押されたのだ。

 いや、押されたのではなく、誰かが、僕の背に覆い被さったのだ。

 それは女性だ。柔らかい胸が背に当たっている。乳房だ。

 そう感じた瞬間、女の両腕が僕の体にまわされた。背後から女に抱き締められたのだ。

 長い髪がはらりと落ち、目の前にだらりと垂れている。

 この雨の中、髪が濡れていない。

 ・・これは現実なのか? 

「屑木くん・・」名を呼ばれた。

ブランコの鎖がギギッと鳴った。

「見つけたわ。こんな所にいたのね」

これは・・以前見た夢のように、僕は公園で夢を見ているのか? 

「ねえ、体の中に入れてあげようか」

 耳元で囁く声は、伊澄瑠璃子の声だった。

 いつの間に僕の背後に?

 そして、何を体に入れるというのだ?・・だが、僕の問いは声に出なかった。

「とても、楽になるわよ」

 僕は「な、なにを・・」とようやく返した。なぜが、胸が苦しい。息ができない。

「全ての欲望から解き放たれるわ」

 欲望から・・放たれ、楽になれる?

 血を吸いたいと言う衝動が抑えられるのか? 伊澄瑠璃子に、その何かを体に入れてもらえれば、僕の中に取り込めば、楽になれる。元の体に・・

 だったら、そうして欲しい・・


 僕が首を捻って後ろを見ようとした瞬間、

「屑木くん・・私はこっちよ」

 真正面だ。制服姿の切れ長の瞳が光っている。長い髪が風に揺れている。

 いつのまに僕の前に? 

 まるで瞬間移動・・いや、一瞬だけど、前にも後にも伊澄瑠璃子は同時に存在していた気がする。

「うふっ・・」正面に立つ伊澄瑠璃子は口元に手を当て、

「そんな驚いた顔をして・・」そう言って笑みを浮かべた。

 今、僕はどんな顔をしているのだろう。

「今・・屑木くんは、とても苦しいのでしょう?」

 伊澄瑠璃子の問いに、僕はコクリと頷いた。ほとんど無意識に頷いた。

 僕は前にも後ろにも進めない。とにかく、今の状態を抜け出せるものなら、何だっていい。

「だったら、顔を上げなさい・・入れてあげるわ」

 僕は言われるままに顔を上げた。

 僕を見下ろす伊澄瑠璃子と目が合った。

 美しい・・

 普通の女性が、どうあがいても追いつくことのできない領域に存在する美しさだ。

 彼女の顔の向こうから雨が落ちてくる。

 しかし、伊澄瑠璃子の体には雨は当たっていない。

 まるで雨が彼女を避けて降っているように思えた。


「屑木くん・・口を開けて・・」

 柔らかい口調で、伊澄瑠璃子は指示した。

 その時、僕は思った。

 そうか・・松村も、白山あかねも、黒崎も、みんな伊澄瑠璃子に、口から体の中に何かを入れてもらっていたのだ。

「補っている」・・伊澄瑠璃子はそう言っていた。

 体の中に何かを入れて補えば、欲望を抑えることが出来る。そういうことなんだ。

 けれど、体育の教師、大崎は「失敗作」だと言っていた。保健医の吉田先生もそう言っていた。体の中に何かを入れるという作業が失敗したのだろうか?

 いずれにしても、少しでも血を吸われた者は、体内に何かを入れてもらえれば、楽になる。それでいいではないか。

 だが・・ふと僕は思った。

 だったら、血を吸ったのは誰なんだ。

 僕は黒崎みどりに血を吸われた。その黒崎の血を吸ったのは、白山あかねだ。

 屋敷の大広間で、白山あかねの血は糸状に放出し、空中に消えていった。

 その血を、吸ったのは誰だ?


 伊澄瑠璃子は体をゆっくりと傾けた。

 そして、彼女は両手で僕の顔を支えた。手がひんやりと冷たい。体温がないようだった。

「もっと、大きく開けて・・」伊澄瑠璃子はそう言った。

 言われるままに、僕は口を開けた。

顔が近づいてくる。髪がふわっと僕の頬にかかった。

 僕は彼女の目だけを見ていた。その瞳の奥に吸い込まれそうな気がした。

 優しい色の瞳だ。この瞳に僕の心を預ければいい。

 彼女の向こうに灰色の空が映っている。空は重たく、その重量に空は耐えきれず、空まで被さってくるような気がした。

 そんな空と彼女を見ながら僕は彼女に言った。

「お願いだ・・入れてくれ」

 僕の言葉と心を聞き届けたかのように伊澄瑠璃子は微笑んだ。

 彼女の顔が僕に被さった。

 同時に伊澄瑠璃子の柔らかな唇が僕の口に当たった。だが、そう感じられたのは、ほんの一瞬だった。僕の口は彼女の何かによってこじ開けられたからだ。

「あがっ」

 僕の口から変な喘ぎが洩れた。口が異様なほどに開いていく。苦しい。息ができない。

 まず、彼女の舌が僕の舌に触れ、交わり始めた。僕は任せた。

 体が溶けていくようだった。

 だがそう感じたのは一瞬だった。ぬるっとした感触が口の中に広がった。人間のあらゆる器官より遥かにヌルヌルしたものだ。

 伊澄瑠璃子の顔が右に左にと振られる。「んぐっ、むふうっ」

 まるで体の奥から、何かを引き出そうとしているかのような動きだ。

 ダメだ。こんなものを体に入れてはいけない。僕の本能がそう叫んでいる気がした。

 僕は伊澄瑠璃子の顔を両手で支え、逃れようとしたが、体に力が入らない。

 口の中が、ヌルヌルで満たされ、やがてそれは口腔の奥深くを目指すように移動し始めた。

 無理だ。僕は非力だ。何もできない。このまま彼女の体内にある何かを受け入れることしかできない。


 その時だった。

「和也くん・・」

 懐かしい声が聞こえた。


 伊澄瑠璃子が顔を起こし、舌打ちをした。その口元からは、どろどろの液体が溢れ、何か黒いものが、しゅるっと彼女の口腔に戻ったのが見えた。

 同時に彼女は「お預けね」と言って背を立てた。

 そして、伊澄瑠璃子の制服姿が灰色になった。

 彼女を避けていたはずの雨が彼女の体を覆い出した。僕の目がおかしいのか、僕の目は次第に彼女の姿を認識できなくなっていった。


「和也くん」

 じゃりじゃりと土を踏みしだく音が近づいてきた。その音に僕は現実の世界に引き戻されたようだった。

 傘を差す年上の女性。隣の美也子ちゃんとは全くタイプの違う姉。

「景子お姉ちゃん・・」

 僕はその人の名を呼んだ。

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