第273話 背中②

 昨日、部室に向かう旧校舎への渡り廊下で、水沢さんとすれ違った時、

 会釈した水沢さんは、少し微笑んでいた。だがそれは、何度か言葉を交わしたことのある人に対しての親しみを込めた挨拶のような笑顔だ。

 自分の心を押し殺そうとしている笑顔なのか、それとも誰かに話を聞いて欲しいのか。

 振り返って見た水沢さんの背中は寂しそうに見えた。

 彼女は人の心が読める・・いや、人の心が勝手に入り込んでくる。

 もしかすると、知りたくもない人の心を読み取ってしまったのだろうか?

 そして、こんな風に迷いの森に佇むような僕の心をも知ってしまったのだろうか?


「鈴木くん、そんなに気になるの?」

 放課後、二人きりの部室で速水沙織は僕に言った。

「僕が何を気にしているって言うんだ?」

 部長席で、上から口調で言う速水さんにそう返した。

「鈴木くんのことだから、恋い焦がれる水沢さんについて考えていたのでしょう?」

 そう言った速水さんに思わず「なぜ分かった?」と訊いてしまった。

 速水さんまで心を読むのか?

「あら、私、当てずっぽうで言っただけなのだけれど」速水さんは眼鏡の柄に手を添えて微笑んだ。

「なんだよそれ!」

「見事に当てられて悔しい?」

 確かに悔しい反面、速水さんのいつもの調子にどこか安心している僕がいる。

 

 僕は、速水さんの入れてくれた紅茶を飲むと、「久しぶりに速水さんと二人きりだな」と言った。

 今日は青山先輩が家の用で、小清水さんは珍しくまだ来ていない。いつもは小清水さんが入れたお茶を飲んでいる。

「そう言えばそうね」速水さんは小さく言って、

「不本意だけど、そうみたいね」と続けた。

「不本意!」ムッとした僕にお構いなしに速水さんは言った。

「教室では背中に視線を感じて、肩が凝ってばかりだし、せっかく体の凝りを取ろうと、部室に来たら、今度は真正面から鈴木くんのイヤらしい視線攻撃・・もう逃れようがないわね」

 速水さんは肩をくりくりと回しながらいつもの冷ややかなジョークを飛ばした。

「その『イヤらしい』というのは余計だ。僕は速水さんを見て、何一つ如何わしいことは考えていない」僕はきっぱりと言った。

「あら、私はイヤらしい視線と言ったのよ。鈴木くんが考えていなくても、その目がイヤらしく攻撃してくるのよ」

「それは屁理屈だ!」


 そう返した後、

「けど、視線を感じるということは、僕は結構存在感があるということだな」

 いつも影が薄いとか言われているからな、ここは言い返さないと。

 すると速水さんは「そうね」と言って、

「視線だけで、他は見えないわね」と冷笑した。

「目だけかよ、よけいに怖いじゃないか」

 僕は続けて、

「それに、僕は速水さんの背中を見てはいないぞ。黒板を見ているんだ」と正直に言った。

「黒板?」

「そう、黒板だ」

 速水さんは暫し沈思した後、

「そう言えば、窓際に座っていたはずの綺麗な人は、視線の届かない所に移動なさったものね。だから、黒板しか見るものがないのね」

「移動なさった、って、その言い方変だぞ!」

「しかも、同じ位置に今はあの加藤ゆかりさんが」

 速水さんは加藤の名前を出すと、

「そう言えば、私、前から気になっていることがあるのだけれど」と切り出した。

「何が気になるんだ?」

「鈴木くんは、どうして、加藤さんだけを呼び捨てで呼んでいるの?」

「・・」

「何度か鈴木くんが『加藤』と呼んでいるのを聞いて、そう思ったのよ」

 そういや、あの花火大会でも速水沙織の前で「加藤」と呼んでいたな。特に他意はないが、他者から見れば、疑問に思うのかもしれない。

「それに、加藤さんも鈴木くんのことを『鈴木』って呼んでいるわよね」

「そういや、そうだな。それにしても、速水さん、よく観察しているんだな」

 僕がそう言うと、

「私のことは、『速水』とか一つも呼んでくれないのに」と速水さんは言った。

「それ、多分、言えないから」僕は速攻で返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る