第201話 嬉しい時の心の暴発①-2
だから、僕は今日・・
文芸サークルの部室に来た。放課後の部室ではなく、夏休みの夕暮れ時の部室だ。
速水沙織は叔父さんの家で過ごさず、又、母親のいる家に行くこともなく、部室で沈黙読書会を一人で楽しんでいる。
いや、「楽しんでいる」と言うのは語弊がある。速水さんにとっては、「部室で過ごす」という以外に選択肢はないのだ。
母親の家には暴力男のキリヤマがいるし、叔父さん夫婦の家では気を遣う。
速水さんにとっての唯一の逃げ場がこの部室だ。
「ちゃんと、夕方には叔父さんのいる須磨の家には帰っているんだよな?」
速水さんは読んでいた文庫本を閉じ、いつものように眼鏡をくい上げして、
「ええ、ご心配なく・・ちゃんと帰っているわ。食事も三度しているし、睡眠も十分とっているわ」と淡々と言った。「私、こう見えても、とても真面目なのよ。どこかの不良少女じゃないわ」
速水さんのいつもの口調を聞いていると、少し安心する僕がいる。
「それで、鈴木くんは、この私に何の用なのかしら?」
改めて訊かれると言葉を失う。
「いや・・特に用事があるわけじゃないんだ」
僕がそう言うと、僅かな笑みを浮かべて、
「あら、鈴木くんは、部室で一人寂しそうに本を読んでいる私に同情してくれるのね。嬉しいわ」と言った。
僕は「その言い方・・全然嬉しそうに言っているように聞こえないんだけどな」と返した。
僕の返しに速水さんは、少し笑って、
「用がないのなら、私とくだらない雑談でもしようと思ってきたわけね」と言った。
「そう・・雑談だ」と僕は言った。「けど、くだらなくもない」
「小清水さんのことを報告していなかったしな」
僕は速水さんの近くの椅子に腰かけると、小清水さんとの間にあったことを話した。
彼女のこと・・つまり、小清水沙希の多重人格のことを話せる人間は速水さんしかいない。
小清水さん自身の秘密めいた話を他人に報告することはいけないことだと分かっていても、僕だけの心の中に封じ込めておくことも悪いような気もする。
それに小清水さんの多重人格については、速水さんも顧問の池永先生も承知していることだ。
「あら、私の了承なしで、また人前で透明になったのね」
僕の話を聞き終えると速水さんはそう言った。
「僕が透明になること・・それって速水さんの承諾がいるのか?」
「あまり、人前で透明になるのは、好ましくない・・そう思っただけよ」
そう言った速水さんに、「人がいないところで、透明になることも意味がないけどな」と返した。
すると速水さんは、やるせないような溜息を吐き、
「鈴木くん、私、言ったでしょう。覚えている?」と言った。「透明化している時に、心が暴発すると、そのままあの世に行ってしまうかもしれない、という話を」
透明化している時に、心が暴発するということ・・僕はそれを体験している。
合宿の夜、文芸サークルの部員が酔っ払いにからまれた時、体を透明化させて、部員を難から救おうとした際にそれは起こった。
心が遠くに吹き飛ばされるような感覚だった。
あの時は、速水さんが僕を抱き留めてくれて助かった。
「覚えているよ。あの時は、速水さんに助けられた・・」
心の暴発で、透明化どころか、僕の存在自身が消失してしまう・・実際にどうなるのか、僕には分からないが、もし本当にそうなるのなら、恐ろしいことだ。
若くして死んでしまう・・そんな緊急事態を速水沙織は救ってくれた。
僕がそう言うと、速水さんは豊かな胸を両腕で抱き、
「あの時、後ろから鈴木くんの背中を抱き締めた時の感覚は、この胸が覚えているわ」と真顔で言った。
「おい・・そんなことを真面目な顔で言うなよ・・」
確かに、速水さんに背後から抱き締められた時、ギュッと速水さんの胸が押しつけられていたが、そんなこと・・本人に言うかよ!
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