第126話 「三四郎池」美禰子と恋の風景
◆「三四郎池」美禰子と恋の風景
「あら、お二人そろって・・こんな朝早くからデートだったのかしら?」
旅館前・・出会い頭、速水さんは僕と青山先輩を皮肉った。
青山先輩はちゃんと否定してくれると思ったのだが、
「うん・・沙織、彼はなかなかいい男だよ」と答えた。
誤解を招く言い方だな・・
速水さんの隣の小清水さんが「ええっ・・鈴木くん、本当なんですかぁ?」と悲壮な顔で訊ねた。そこまで思うことはないと思うけど。
僕は速攻で「いつもの速水部長の冗談だから」と誤解を解いておいた。
大広間で皆で朝食を摂ると、
午前の部、男子部屋で和田くんが司会の夏目漱石作「三四郎」の読書会が始まった。
だが、初心者の和田くんに司会など務まるはずもなく、ほとんど速水部長が仕切っている。
「三四郎」は夏目漱石の代表作・・青春小説、そして、恋愛要素のある小説だが、謎の多い小説だ。
ヒロインの美禰子・・掴みどころがない。
主人公の三四郎にふいに「迷える羊(ストレイシープ)」と何度も言ったり、三四郎はおろか、読者をも混乱させる。
そして、主人公の三四郎・・女性に翻弄され過ぎ!
そんな謎の多い小説だが、美禰子との出会いのシーンがすごくいい。それはサークルメンバーも同意見だった。
それは三四郎が池の畔で初めてヒロインの美禰子を見かけるところだ。
速水部長は、自分のノートを広げ、そのシーンを簡略化した文章を読み始めた。
速水さん流に書き換えた文章らしい。
「・・ふと、眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。
女の一人は、まぶしいらしく、団扇(うちわ)で額を隠している。
顔はよく見えない・・けれども着物の色、帯の色は鮮やかに分かった。
・・三四郎は、ただ奇麗な色彩だと思った」
そう語り終えると、速水さんは自分の漱石ノートから顔を上げた。キラリと速水さんの眼鏡の奥の瞳が光った。
「この団扇をかざした美禰子さんの姿は最後にも出てくるわ・・絵だけど」
すげえな。速水さん、そんなものをノートにまとめているのか。さすがは部長だ。
すると、続けて今度は青山先輩が、
「ふと目を上げると、丘の上に女が立っている。
女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立ち。その後が赤煉瓦のゴシック風の建築である。
女は少し皺を寄せて、池の面に覆い被さりそうな枝を伸ばした木を眺めていた・・」
気持ちのいい朗読だった。
お気に入りの文章を抜粋して読んでいるのがわかる。
青山先輩は続けて、
「この文章・・最初に女性が立っていると書いて、後から、風景描写をしているのね。こういう書き方、好きだわ」と言った。
速水さんと青山先輩は、仲の良かった頃、こんな風に二人で文章を読み合っていたのだろうか?
そして、今も、心は通い合っている・・そう思う。
こんな読書会・・いいな。
この時、僕は初めて読書会を本当の意味で好きになった。
そんなことを考えながら、二人の朗読にうっとりしていると、
一応形だけの司会者を務める和田くんが、
「この主人公・・三四郎って・・ヒロインの美禰子の顔がよく見えてなかったんだね」とぽつりと言った。
小清水さんが「でも、物語の流れ的に・・このシーンは一目惚れですよね」と言った。
池永先生が「何で、これが一目惚れなのよ。顔がよく見えてないのに」と不満げに言った。
先生、物事を真っ直ぐに見過ぎ・・
けれど、そんな直球な見方が的を突くこともある。
池永先生の意見を拾い上げて、速水部長が、
「主人公は風景に恋をしたのかもしれないわね」と言った。
対して、小清水さんが「三四郎さんは、美禰子さんの顔を見ていないようで、しっかり見ていたんじゃないですか?」と反論した。
すると、青山先輩が
「人は誰かを、風景も絡めて見るんじゃないかしら?」
そこへ池永先生が「私、風景なんてどうでもいいけど・・問題はその人よぉ」と大きく突っ込んだ。先生、二日酔いか?
そんな直球型の池永先生に、速水さんは眼鏡の奥の目を光らせ、
「風景は大事よ・・好きな相手を風景で美化してしまう人も大勢いるわ」
和田くんが「それ、旅先で見た人は綺麗に見えるっていう・・」と言いかけ、止めた。
僕が「いや、この時点では、三四郎はまだ美禰子に恋をしたわけじゃないよな?」
と言うと、速水さんが、
「それを言い出したらきりがないわ。この小説の中で、いつ三四郎が美禰子を好きになったのか、よくわからないし」と言った。「それに、そんなに好きではなかったのかもしれないわ」
「本当かよ」
そう、わからないのだ・・
でもわからないものに解釈をつけていこうとするのが、読書会だ。
そして、それぞれが独自の結論を見い出そうとする。
そこには正解と言うものは決して見つからない。
そして、青山先輩が、
「この小説の読み方のポイントは・・この本自体が、青春小説だということね」と強く言った。「少なくとも常識に縛られた大人の小説ではないわ」
小清水さんが、
「青山先輩、それはどういうことですか?」と素直に訊くと、
青山先輩は優しく微笑み、
「若い時は、混迷の時・・そういうことだと思うの」と答えた。
青春の時は迷う時。
迷いながら、手探りで何かを探す。僕らはそんな時間を過ごしているのだろうか?
すると小清水さんが手を挙げ、
「つまり、こういうことですね」
と前置きして、アドリブで語り始めた。
「君を初めて見たのは、僕が池の傍で佇んでいる時だった。君の顔はよく見えなかったけれど、君の服の色や、髪の形は憶えている。
池の向こうには高い崖の木立があり、レンガ作りの建物があった。君は池に垂れかかる木の枝を眺めていた」
速水さんがそれを聞いて「沙希さんは漱石の口語訳でもできそうね」と褒め称えた。
小清水さんは更に言葉を続けた。
「その時の僕は都会に出てきたばかりで、見るもの、全てが新鮮に映ったのだ」
と言い、
「そんな新鮮な景色の中で・・君の顔は見えなくとも、僕には君が素敵な人なのだとわかった」と結んだ。
その言葉は小清水さんの完全アドリブだった。
小清水さんが即興で考え出したようだ。文学少女らしい言葉だ。
そんな小清水さんからは昨夜の豹変した姿は微塵も感じられず、神々しい姿にも見えた。
つまり・・小清水さんがこの場で伝えたかったこと・・
それは、若い時の恋というもの、それは青春時代に見せる幻だということ・・
だが、それは小清水さんの見解であって、ここにいる全て人の考え方ではない。
少なくとも僕は違う・・
全ての話が出揃ったところで、速水部長が「これで『三四郎』は終わりね」と眼鏡の縁を支えながら言うと、青山先輩が「沙織、この本の司会は和田くんよ」と戒めた。
「あら、そう言えばそうね」と速水さんは今更ながらのように言って、和田くんに向き直り「和田くん、読書会を締めてちょうだい」と強く言った。
和田くんが終了宣言をするのかと思いきや、
「あ、あの、ちょっといいかな?」と言って、誰も答えないでいると、和田くんは続けて
「この『三四郎』のあとに、漱石の『こころ』を読んだんだけど・・」と言った。
「読んだんだけど・・何?」速水さんがきつく促す。
「さっき、速水部長は言ったじゃないか・・三四郎が美禰子を好きなのかどうかわからない・・って」
和田くんの言葉に、速水さんは、
「確かに言ったけど・・それがどうかしたの?」
「『三四郎』には、『愛』とか『恋』は言葉として出てこないないけど・・『こころ』にはよく出てくるんだ」
そう言った和田くんに対して速水さんは、
「確かにそうね・・『こころ』には『どれくらい愛する』とか、よく掴めない言葉が多いわね・・」と言った。
僕は「速水部長は『こころ』が嫌いそうだな」と言った。
「ええ、そうかもしれないわ」速水さんはそう言った。「肌に合わないというか」
そんなやり取りを受け青山先輩が皆に向かって、
「それは作中の『迷える羊』・・ストレイシープに象徴されているのじゃないかしら?」と言った。
そんな青山先輩の言葉を追いかけるように速水部長が、
「そうね・・『三四郎』は『こころ』のように『愛』と言う言葉を使わず、『迷える子』・・つまり、それが若者の恋・・そう言う風に置き変えているんじゃないかしら?」と言った。
なるほど・・つまり、これが青春小説ということだ。
と僕が思っていると、速水部長は、
「つまり・・『三四郎』は青春小説で、『こころ』は大人の恋愛小説・・和田くん、それでいいかしら?」と冷たく言った。
和田くんも納得したように見え、「三四郎」の読書会は終わった。
『迷える羊(ストレイシープ)』・・・迷える心・・
僕も何かに迷っている・・
それは僕だけではない。
この場にいる全員・・ストレイシープなのかもしれない。
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