第81話 小清水沙希の別の顔②

 家に帰ると、いきなり僕の大好きなカレーの匂いが漂ってきた。

 キッチンで母、そして、もう一人・・なんだ、珍しい・・妹のナミが母を手伝っているではないか。

 僕の帰宅に気づくと、母に「おかえりなさい、いい問題集あった?」と訊ねられ、ナミは振り向いて「おかえり、今日はナミの特製スパイス入りカレーだよ」と言った。

 スパイス? ナミがいつもポテトチップスに振りかけている謎の粉じゃないだろうな。

 ナミは一段落ついたのか、リビングのソファーにでんと座り込み、

「兄貴、本当は本屋さんじゃなくて、デートだったんじゃないの?」

「は?」

「ごめん。兄貴、片思いだったよね・・ま。どっちでもいいんだけどね」と言った。

 おまえ、適当に言ってるだろ。人の恋路に首を突っ込むなよ。

「その片思いの彼女・・この前のきれいな人・・はやく、思いをぶちまけないと、誰かに持っていかれちゃうよ」

 水沢さんのことだな。

 この前、ナミに推測で当てられた。何だか弱みを握られた気分だ。それに思いをぶちまけるって何だよ。下品だぞ。

「よけいなお世話だ」と大きく言って向かいのソファに座り込んだ。


 そして、母の手創りカレーを静かに待つ。ナミの謎のスパイス入りカレーだがな。

 ナミに「兄貴、部屋に行かへんの?」と訊かれたが「カレーを早く食べたい」と答え、カレーが出来るまで勉強でもしようと、鞄から単語帳を取り出しカードを繰った。


 ナミが「その単語帳・・兄貴の手作り?」と訊いてきたので「ああ、そうだ」と荒っぽく答えると「へえっ・・それなら、私の専用の単語帳も作ってよ」と甘えたことを言うので「自分で作れ!」と戒めた。

 

 ナミに横槍を入れられては単語の暗記に集中できないな・・二階に上がって勉強するか・・と考えていると母が「お待ちどうさま」と美味しそうなカレーを運んできた。

 ナミは「お母さん、私も手伝うよ」と言って立ち上がって二人で夕飯の支度を始めた。


 やっぱり、わが家のカレーは一番おいしい。と言っても他のカレーはあまり知らないが。

 ナミは「やっぱ、お母さんのカレー、最高!」と大きな声で言いながら、カレーを頬張り、合間に水を飲んでいる。「毎日、カレーでもいいくらいだよ」

 

 これが、いつものわが家の風景だ。帰りの遅い父が帰宅すれば、それは完璧な形となる。

 ・・だが、僕はふと思う。

 この家族のそれぞれの人間は、家の外では別の顔を持つ。

 母は友達と、ナミは学校で、そして父も・・それぞれが僕の知らない面を持っているのかもしれない。

 それは当たり前のことなのだろうか?

 僕だって、家族の知らない所で、恋をしたり、透明になって先生を助けたり、とんでもないことをしている。 


 そして、僕は小清水沙希のことを思い出していた。

 いや、小清水さんに限らず、水沢さんさんだって、速水さんだって、学校での面でしか知らない。それぞれの家や、別の場所で何をしているかなんて知らないし、知ることは不可能だ。


「なあ、ナミ・・おまえ、家族の知らないどこかで、豹変してるってこと、あるのか?」

「何それ? ヒョウヘンって何?」

 ナミはカレー皿から顔を上げ訊いた。

「例えばの話だよ・・ナミは家以外の場所で、別の顔を持っているかってことだよ」

「ちょっと兄貴の言っている意味がわからないんだけど」

 ナミはカレーを食べている至福の時を邪魔されたくないという顔を露骨に顔に表す。


 豹変・・その容姿、性格、口調・・

 小清水さんの場合、その全てが変貌していた気がする。僕の思い過ごしだろうか。


 ナミは僕の次の言葉を待っているようだ。だが、ナミにこんなことを訊いてもどうなるものでもない。

 すると席に着いた母が、

「道雄、何をいまさらとんちんかんなことを言っているのよ」と言った。

 とんちんかん? って言葉、久々に聞いたぞ。鍛冶屋の音だろ。

 ナミも母につられて「そうそう、兄貴はとんちんかんだよ」と小ばかにしたように笑った。ナミは意味がわかって言っているのか?

「そんなに変なこと言ってるか?」

 母が「変も変よ・・大変!・・道雄、勉強のし過ぎなんじゃないの?」と言うとナミも「そうだよ、兄貴、お医者さんに見てもらったら?」と更に笑った。

 おい! 何だよ一体、この家族は・・

 

 ナミは好き勝手を言ったあと、

「兄貴さあ・・兄貴だって、私が学校でどんな風にしているか、わかんないでしょ」

「それは、わからないな」

 ナミの場合、ろくなことをしていないような気がする。

「私だって、兄貴が、家以外の場所で何をしてるか知らないんだよ」

 そういう話を聞きたかったんじゃないんだけどな。まあいい。

 続いて母も、

「そうそう。道雄もお母さんが若い時のことを知らないでしょ?」

 母の若い頃? 想像できない。

 ・・そうだ。家族の間だって知らないことは多くある。同じ時間を過ごしているようで、すれ違っている時間もある。

 それは、誰だって同じだ。

 僕の恋い焦がれる水沢純子の場合だって。僕は彼女の何を知っているというのだ。

 水沢さんの幼かった頃のことなんて僕は知らないし、それどころか、水沢さんの家族構成やそこでの生活も何も知らない。

 人が人を好きになるということは、どこまで知った場合を指すのだろうか?


 小清水さんの場合もそうかもしれない。

 僕は文芸サークルの部室内での小清水さんしか知らない。本屋さんでの小清水さんしか知らない。

 要は何も知らないのと同じだ。今日見かけた小清水さんを先入観で見てはいけないのだろう。

 それは小清水さんにとっても失礼なことだ。

 けれど・・そんな一般的な考えは、今日見た小清水さんの別人のような姿に当て当てはまらない気がする。

 普通の考えを超えている・・


 そう思った時には、母とナミはカレーを食べ終えていた。「道雄もぼうっとしてないで、早く食べなさい」と母に急かされた。


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