第6話
暗闇に荒い息遣いが響く。
椎は疲労と虚脱感でぐったりと項垂れながら、汗ばんだ肢体を絡みつかせてくる弥生をぼんやりと見つめた。
視線に気づいた弥生が、クスリと笑う。
「ねえ」
囁くように、弥生は小声で言った。
「キスしようか」
次の瞬間には弥生の腕が背中に回され、柔らかい唇が押しつけられた。直後、生温かいものが唾液とともに口腔内に侵入してくる。
椎はそれをじっと受け入れながら、何故こうなったのか、についてぼんやりと思考を巡らせた。
神無月弥生と初めて出会ったのは、入学後、テニス部に仮入部した時だった。
当時は三年生が五名、二年生が二名しかいなかった為、初日に仮入部の申請をした椎と弥生は熱烈に歓迎された。そんな中、弥生は上級生に対して無表情に頭を軽く下げるだけで、無愛想な子だな、と感じたことを覚えている。
神無月弥生は、酷くドライな性格をしていた。
何事にも無関心で、感情の起伏を他人に見せることが少なかった。それは思春期特有の無気力さに類する幼さの表れのようにも見えたし、あるいは逆に達観した大人びた雰囲気を纏っているようにも見えた。神無月弥生という人物像を掴む事は、難しかった。それは他のクラスメイトも同様だったようで、初めは周囲も彼女を避けられる事が多かった、と椎は他のクラスメイトから聞いた事があった。
振り返れば、一年生の頃の弥生は、テニス部以外の生徒と関わりがなかったように思える。無愛想な性格に、どこか冷徹な印象を他人に与える端麗な容姿が重なった結果だろう。しかし、二年生に上がってからはいつの間にか特定の女子グループと付き合っている姿をよく見るようになった。相変わらず気怠い様子を見せる事が多かったが、少しだけ愛想良くなったように見えて、椎はそんな弥生の変化を内心喜ばしく思っていた。
椎と弥生の関係はそれだけで、それ以上の繋がりはどこにもなかった。
部活を通したどこにでもあるレベルの交友関係。それだけの、はずだった。
「そろそろ、終わりだね」
名残惜しそうに彼女はそう言って、唇を離す。
それからすっと立ち上がって、何事もなかったように制服に着替え始める。
「また明日」
最後に確認するように弥生は椎に暗い目を向けて、扉の向こうに広がる暗闇へ溶けていった。
残された椎の瞳から流れる雫には、誰も気づかない。
◇◆◇
「昨日も遅かったけど、最近部活忙しいの?」
帰宅後、椎を出迎えた母は心配するようにそう言った。
椎はただ、うん、とだけ答えてすぐに浴室へ向かい、シャワーを浴びた。胸元に残った爪痕を、椎は無感動に見つめ、上書きするようにボディソープを塗った。
傷は、消えなかった。
浴室から出ると、いつの間にか帰ってきていた父がリビングから顔を覗かせ、早く食事を済ませろ、と短く言った。
椎は、食欲がない、と言ってそのまま自室に向かい、鍵を閉めた。
全てが嫌になってベッドに倒れ込み、目を瞑る。
鞄の中で携帯が震える音が聞こえ、椎は無視するように両耳を塞いだ。すぐに振動が収まり、静寂が戻る。
そして、椎は静寂の中に意識を沈めていった。
朝。
重い身体を起こし、椎はリビングに向かった。
父が既に朝食を食べていて、椎が起きてきた事に気付いた母が、おはよう、と気遣うような笑みを浮かべた。
「最近、調子悪いの?」
「少し疲れてるだけだよ。ごめんね」
椎はそう言って席に座り、機械的に朝食を食べ始めた。
先に父が朝食を終え、いつものように家を出る。
椎は、行ってらっしゃい、と言って残りのトーストを口に無理矢理詰め込んだ。
登校時間が迫り、憂鬱な気分で家を出た。
マンションの一階に下りて、エレベーターホールから出る前に椎は深呼吸し、恐る恐ると自動ドアをくぐって外に出た。
「おはよう」
横から女の声がした。
弥生の声ではない。
振り向くと、自動ドアの横に水無月優香が座り込んでいた。
予想していなかった彼女の登場に、思わず足が止まる。
「優香、ちゃん?」
反射的に呼びかけると、優香は弱々しい笑みを浮かべて立ち上がった。
「いくら電話しても出ないから、心配で来ちゃった」
「電話?」
少し考えてから、寝る前に鞄の中で携帯が震えていた事を思い出し、椎は反射的に携帯を取り出した。
着信十四件という文字が視界に飛び込んでくる。
その全てが優香からのものだった。メッセージも二十六件届いていた。
携帯を操作する指先が自然と止まり、椎は思わず優香を見た。
優香は表情を変えずに、弱々しい笑みを見せる。
「あ……ごめん、昨日、疲れてたから早めに寝ちゃって」
椎は言葉に迷った後、素直に謝罪の言葉を口にした。
「椎くんって、あんまり携帯を確認したりしないの?」
優香が頬を膨らませ、不満そうに言う。
電話をかけすぎた、といった反省の色は見られない。椎とは電話やメッセージの頻度について、少し感覚が違うらしかった。
「寝る前に確認とかもあまりしないかな。ごめん。見落とすこと多いかも」
「気づいたらちゃんと返してよね。寂しいから」
優香の手が椎の手に自然と絡まる。柔らかく、女の子らしい手だった。
「お説教は終わりです。ほら、行こ?」
優香が恥ずかしそうに頬を赤らめ、優しく手を引く。
椎は彼女の表情に目を奪われ、うん、と上の空で答えた。
彼女の髪が風で揺れ、ほのかに甘い香りがした。
優香に引っ張られるように、マンションの敷地を出る。
椎は反射的に周囲を見渡した。
弥生の姿は、見当たらなかった。
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