空使いとアルカンシェル

天瀬智

第一章 始まりの灯火

プロローグ 旅立ち

 雪化粧を施した山脈に覆われたその場所は、特有の地形によって温暖な気温が保たれ、緑豊かな土地が広がっていた。

 雪解け水によってできた巨大な湖。

 色とりどりの花が咲き誇り、風は遮られることなく山脈を流れていく。

 蝶々が自由に空を飛び、土を掘れば小さな昆虫が顔を出す。

 山脈の向こうから列を成した鳥が、湖で休憩をとる。

 そんな世界が、ソラのすべてだった。

 湖畔に、まるで場違いを思わせるように建つ木造の小さなログハウス。

「発つんだな」

「うん」

 家を出たソラは振り返り、玄関に立つ女性――楓を見上げた。

 首の後ろで一本に結ばれた、腰よりも長い黒髪がそよ風でやさしく揺れる。

 いつもと変わらない彼女の出身地独特の服――浴衣も、もう見納めになる。

「寂しくなるな」

 楓に抱き寄せられ、膨らみの間に顔を埋める。

「僕も……」

 楓の匂い、楓の声、楓の温もり――そのすべてが懐かしく感じてしまう。

 当たり前の日常とも、ここでお別れになる。

「十四年……長いようで、あっという間だった。あんなに小さかった子が、こんなに大きくなって」

 ゆっくりと優しく、何度も頭を撫でられる。

 その仕草に、なごり惜しさを感じる。

「楓……今日までありがとう」

 顔を離したソラは、素直に思ったことを口にしていた。

「母親として当然だ。アビーも見守ってる」

「うん」

 ログハウスの玄関から見える位置から、花々に囲まれた墓石が見える。

 雪解け水で角の取れた石。そこに彼女の名が掘られている。

 振り返るソラの両肩に、楓の手が添えられる。

 ソラのもう一人の母親――アビーが眠る墓標を前にすると、今でも泣きそうになってしまう。

 アビーに心配かけたくない。

 彼女はいつでも見守っていると言ってくれた。

 だから、今日だけは笑顔でいたい。

「ミュールには伝えておいたから、着いたらよろしく言っておいてくれ」

 ソラの向かう場所。そこにいる三人目の母親――ミュール。

 幼い頃に別れたきり、一度も会っていない。

 それでも、彼女の優しさは覚えている。

 会えるのが楽しみで仕方がない。

 でも――

「寂しいよ」

 楓との別れ。

 生まれてから今日まで、ずっと傍にいて育ててくれた唯一の人。

「私も寂しい」

 そう言って、くるりと振り返らされるソラ。

 楓と顔を合わせるだけで、泣きたくなってしまう。

「だけど、お前はもっと広い世界を見るべきだ。こんな狭い場所にいつまでもいたら勿体ない。私もアビーも、それにミュールもそれを望んでる」

 楓は心地よく送り出してくれようとしてくれている。

 それに、何よりもソラ自身、今も胸の高鳴りを感じている。

「うん、そうだね。僕も見たい」

 顔を上げ、楓の顔を正面から見据える。

「ああ、それでこそ私たちのソラだ」

「じゃあ――」

 一歩下がり、楓から離れたソラは、改めて見つめ合い、そして最後の言葉を交わした。

「いってきます!」

「いってこい!」

 背中を向け、歩き出す。

 もう振り返らない。

「ソラ――お前の行く先に風と地と水の加護を」

 楓の言葉が風となり、背中を押す。

 踏み出す大地を、アビーと共に行く。

 太陽できらめく湖の水面に、ミュールを思う。

 はやる気持ちを抑えきれず、ソラは駆けだした。

 目指す場所――五彩都市アルコイリスが擁するイリダータ・アカデミーへ。

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