二.夢現


 ふと気がつくと、私は見知らぬ場所に立っていました。今日はとてもいい天気でしたのに、辺りはとても暗いのです。

 さっきまでのことはちゃんと覚えています。残念なことにイカロス四号機が空中分解して、私は高いところから落ちてしまいました。



「アラン、どこにいるんですか?」



 アランの姿は見当たりません。アランを探そうとして身体を動かすと、ジャラ、と金属が擦れるような音がしました。音の主を確かめようとした時、私の背後に光源があることに気づきました。



「……鏡?」



 振り返ると、私が立っている所から二、三十歩ほど先に姿見が置いてありました。不思議なことに、その鏡自体がうっすらと鈍い光を放っていたのです。


 よく見ると、鏡面の中央付近と足元の方から、まるで植物が生えるようにして二本の鎖が伸びているのがわかりました。二本の鎖は鏡から出てこちらの方へ伸び、その先端は私まで――私の左手と右足にはめられた金属製の輪に繋がっていました。これは、枷? 罪人を戒めるための……


 鏡から伸びる鎖と、戒められた私。ああ、お母様。私はフィラデルフィアなのに、神様への忠誠を示さなければならないのに、私はいけないことばかりしてしまいました。だからなのですね。こんな夢を見ているのは。

 これはまるで、〝ルシファー〟のようではありませんか。




 フィラデルフィアには、決して忘れてはならない自戒の歴史があります。


 昔、人間が神様の罰を受けた時。王様と七つの家の当主自らがその身と引き換えに神様の怒りを鎮め、〝千年王国〟という至高の世界を授かりました。


 〝千年王国〟を創るために、神様は〝恐ろしいもの〟を七つの鏡に封じました。この鏡の番を担っているのが、王様とともに身を捧げた〝七つの家〟の血を引く者たちです。このため七つの家は、神様の忠実なる僕として〝聖騎士家〟と呼ばれることになったのです。


 しかしフィラデルフィアは、当主を天変地異でうしなったばかりでした。代わりに血縁の少女がその身を神様に捧げました。しかし少女は〝叛逆〟の罪で神様のご不興を買ってしまったのです。神様のご不興を買った少女は、神様の御許みもとへ参ることはできませんでした。人間たちへの見せしめとして、フィラデルフィアの鏡の中へ永遠に閉じ込められてしまったと言われています。


 少女の名前は、ルシファー。フィラデルフィアが、いえ、全ての人間が忘れてはならない、大罪人の名前です。




 この、目の前の鏡がもし、フィラデルフィアに伝わる鏡だとしたら。

 私もルシファーのように、鏡の中へ閉じ込められてしまったのなら。


 そんな思いに駆られて、ほとんど反射的に鏡の方へと駆け寄っていました。恐怖と後悔でいっぱいでした。あんなこと、しなければよかった。お母様に会いたかったのに、永遠に会うことが叶わないのかもしれない……


 鏡は薄く埃を被っていました。無我夢中で埃を拭い、鏡の向こう側、〝私のいた世界〟へ戻る術を探そうとしました。その時です。



「きゃっ……!」



 埃を拭った鏡に映ったのは、私の顔ではありませんでした。知らない女の子の顔です。目を閉じて、眠っているように穏やかな顔の。


 あまりに驚いたものですから、全身を駆け巡っていた焦りが一気に引いてしまいました。お陰で少し冷静になることができました。まだ囚われたとは決まっていません。まずは目の前のものを調べてみましょう、と思い立ち、鏡と彼女をじっくり観察することにしました。


 とりあえず鏡を覆う埃をできるだけ拭ってみました。鈍い光に照らされて、鏡の中の彼女の全身が浮かび上がります。彼女は聖騎士家の正装をしていました。全身が黒い簡素なワンピースで、頭には黒いヴェールを被っています。


 彼女の正体には、心当たりがありました。



「……あなたが〝ルシファー〟なの?」



 服に隠れてよく見えませんが、どうやら彼女は私と鏡合わせ、右手と左足に枷がはめられているようです。そして、私と彼女の枷は鏡を貫く鎖で繋がっていました。



「どうしてこんな……」



 私と彼女は、鎖で繋ぎ止められて鏡合わせ。答える人のない問いは、虚しく消えてゆくはずでした。



『気になるか?』



 地を揺らすような深い声でした。驚きのあまり身体がビクンと揺れます。この場に誰か、他の人間がいたなんて。

 でも、よかったです。私ひとりでないなら、こんな空間でも何だか安心できます。



「誰ですか?」



 もうそこに何がいても驚くことはないと思っていました。けれども私は、振り向いてその人を見た時、思わず呼吸を止めてしまったのです。


 そこには、この世のものとは思えないほどに美しい男性が立っていました。全身にほのかな光をまとっているかのように、暗闇の中で神々しいほどの存在感を放っています。すらりとした長身を黒い服に包み、星と同じ色をした髪が背中いっぱいに流れ落ちていました。鋭い眼光に射貫いぬかれた私は、まるでピンで縫いとめられた虫みたいになってしまい、身動きひとつできません。



『どうしてお前がここにいる。ああ、精神がしまったのか』



 彼は尊大な口調で独り言つと、ゆっくりと私の方へと歩み寄ってきました。その時、不思議なことが起きました。


 一歩、一歩と彼が歩みを進める度、踏みしめる床があおい光を放つのです。まるで、夜空に星を零したようで。それはそれは、息を呑むほど美しい光景でした。



『哀れだな……これも血か』



 そう呟くと、彼は右手で私の顔を覆いました。身動きのできない私は、彼になされるがままに視界を奪われてしまいました。淡い光がちらちらと覗くばかりで、あとは一面の闇、闇、闇……。



『気をつけるがいい。もうすぐ〝死〟が甦る。今日のようなことを繰り返せば、近いうちに死んでしまうぞ』



 彼の言葉の意味がわかりません。それなのに、背筋を冷たいものが伝いました。どういうことですか、と尋ねたいのに、私は声を出すことすら叶わないのです。



会おう……セシリー=フィラデルフィア』



 触れられそうに濃密な闇の中で、彼が私の名を口にしました。

 そこで、私の意識はぷつりと途切れてしまいました。





***





「待って!」



 ようやく声を出せるようになった私は、力いっぱいに身をよじりました。



「……シシィ様?」



 けれどもそこには彼の姿はなく、代わりに深刻な顔つきで十歳くらい老け込んでしまったようなアランが私を覗き込んでいました。



「あーーーーーよかったぁ!」



 アランが長い長いため息をきました。そうでした。私、高いところから落ちたのでしたね。それで気絶でもしていたのでしょうか。まだ回りきらない頭で、先ほどの場所が夢でよかったと、ぼんやり考えました。



「もう、本当に! 心配! したんですからね!!」


「ごめんなさい……」



 どうやらアランを相当心配させてしまったようです。私の悪事に渋々付き合ってくれているのに、申し訳ない気持ちでいっぱいです。



「大体ですよ、昼間にこういうことをするのはかなり危険なんですからね。誰かに見られるかもしれませんし。どうして夜にしないんです?」


「だって、昼の方が景色が鮮やかで綺麗なんですもの」



 ふと、脳裏に夢の光景が蘇りました。暗闇に浮かび上がるほのかな光。彼が歩いた跡が、星空のように美しかったこと。



「……でも、夜の景色も素敵かもしれませんね」


「そもそも、歴代のイカロスはどれもこれも危険な構造ばっかりなんですよ。今度はもっと安全な装置を考えましょう? たとえば気球みたいな……」



 渋々付き合ってくれている割に、毎度のようにアランは口出ししてくれます。私が怪我をしないようにと心配してくれてのことなのでしょう。けれども私は嬉しくなって、ますますアランに甘えてしまうのです。



「アラン、キキュウってなんですか?」


「あれ、知りません? 空気を暖めることで空に浮かぶ装置ですよ」


「知りませんでした。何だか大昔の遺物みたいですね、キキュウって」



 どこで知ったんです、と尋ねると、アランは首を傾げて考え込んでしまいました。



「さあ……どこで見たんだったかな」



 ――もうすぐ〝死〟が甦る。

 その言葉の意味はわかりません。ですが、恐ろしいと思いました。夢にしては隅々まではっきりと覚えています。覚えすぎなくらいに。



「次回作のヒントにします、と言いたいところですが、しばらくイカロスの開発はやめておくことにします」


「え、シシィ様、大丈夫ですか? やっぱり頭を打ったから……」



 鏡の中に囚われた少女。そして、あの人の言葉。夢だとわかっているのですが、それだけでは済まないような恐怖を感じてしまいました。



「アラン、お父様の書室へ行きましょう。調べたいことがあるのです」



 あのような夢を見た理由を知りたいと思いました。私の後ろ暗い行いが理由の大部分を占めていることは理解しています。ですが、それ以上に深い理由があるように思えてならないのです。


 暗闇に潜む、得体の知れない何か。姿のないがじわりじわりと日常を蝕んでゆく。そんな身の毛のよだつような光景が瞼の裏にありありと描き出されて、堪えきれずに身震いしました。

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