5、サラスヴァティの涙

***


 ローテンブルクを南下したところにある小さな町・ディンケルスビュール。


 グレンとメリルローザは、ここに住む子爵が呪われた宝石を持っているというので会いにやってきた。グレンは二週間以上前から会う約束を取り付けていたというのだから、父に譲った園遊会とやらもはじめから行くつもりなどなかったのだろう。


「いやあ、わざわざ足を運んでいただいて申し訳ないですなぁ」


 でっぷりとお腹の出た男性を前に、グレンとメリルローザ、実体化したヴァンが並んで座る。


 彼が宝石の所有者であるレントリヒ子爵だ。毎日美味しいものをたっぷりと食べているのか、ソファが悲鳴をあげている。

 若い女性は大好物だとグレンが事前に話していたので、メリルローザは令嬢らしくグレンの隣で微笑むのに徹することにした。メイドが運んできてくれたお茶を飲みながら上品に会釈しておく。


「いえいえ。こちらこそ、貴重な宝石を拝見できる機会を作って頂きましてありがとうございます」

「それにしても、グレン男爵にこんなに美しいお嬢さんがいらっしゃるとは知りませんでしたな」

「私の仕事の手伝いをしてもらっていましてね。今日も、珍しい宝石が見られるとあってぜひ一緒に来たいとねだられてしまいました」

「ははは、そうでしたか。我が家にはお嬢さんに似合いそうな装飾品もたくさんありますよ。どうです、宜しければ……」


 好色な目をメリルローザに向けた子爵だが、メリルローザの後ろにいるヴァンの顔を見てすぐさま笑顔を引っ込めた。

 咳払いをひとつして、気を取り直したように小箱を取り出す。


「こちらがパリで見つかったとされる呪われし宝石『サラスヴァティの涙』です」


 ――サラスヴァティ。

 サンスクリット語でサラスヴァティとは「水を持つもの」の意であり、水と豊穣の女神であるともされている。


 女神の涙という名前にふさわしく、小指の爪ほどの大きさのサファイアだ。

 白銀の台座に嵌め込まれた指輪となっており、深みのある青色は知性や気品を感じさせる。


 グレンは手袋をはめると「拝見しても?」と子爵の許可を得て、持参したルーペでじっくりと見ている。


 美しいがサファイア自体は取り立てて珍しい宝石ではない。

 子爵もそれはわかっているようで、「宝石というよりも、それにまつわる話が興味深いのですよ」とメリルローザの方を向いた。


「ある日、公園を歩いていたフランス人の男が、行商人の老婆に押し付けられたのがきっかけでしてね。男がいらないと突き返そうとすると、老婆はあっという間に消えてしまったんだそうだ」


 しぶしぶ持ち帰った男の身に不幸が起こりはじめ、気味が悪いと男は匿名で別の人物に送りつけた。

 その人物も、怪我ひとつしない丈夫な男だったのに、指輪を手にした途端に足を骨折。指輪のせいに違いないと売ってしまったんだそうだ。

 以来、指輪は人の手を渡り歩いてきた。病気、事故、怪我、喧嘩……。不幸の種類は大なり小なりあれど、持ち主は気味悪がって手放していくらしい。


 怪談のように声音を作って話す子爵に、メリルローザは顔をひきつらせた。生き死にに関わらないぶん、地味に嫌な呪いだ。


「子爵は……その、大丈夫なのですか?」

「私は悪運の持ち主でしてな。手にいれてからもう一月ほど経ちますが、御覧の通りピンピンしておりますよ」


 はっはっは、と笑って見せる。


「なるほど、興味深いお話ですね。どうだい、メリルローザ」


 グレンが指輪をメリルローザのほうに向ける。この間の十字架のような黒いもやは視えない。


「ええ……。でも、その、とても怖いですわ……」


 わざとらしくないよう、首を振る仕草でグレンに呪われていない品だと伝える。グレンも小さく頷いた。


「いやあ、すっかり娘が怖がってしまったようで……申し訳ない」

「ああ、いやいや。若いお嬢さんを脅かしすぎましたな」


 子爵はグレンが指輪を高値で買い取ってくれるのを期待していたのだろう。

 今日は貴重な時間を頂いてありがとうございましたとグレンが話を畳むと、がっかりしたような顔をしていた。


「……買い取らなくて良かったんですか?」


 例え呪われていない品でも、価値があれば買い取ると言っていた。グレンが言っていたように、「いわくつき」というのは付加価値になるからだ。


「うん。サラスヴァティの涙という指輪は確かに存在するけれど、あれは多分偽物だね」

「偽物!?」


 屋敷を出たばかりなので慌てて口を押さえる。屋敷から離れたところで再びグレンが口を開いた。


「叔母が生きていた頃に目にしたことがあってね。不幸を呼ぶ指輪として粗雑な扱いを受けていたせいか、僅かに欠けている部分があったはずなんだけど――あの指輪は真新しい感じがしたね」

「じゃ、子爵は偽物ってわかっていて叔父さまに売ろうとしたの?」

「うーん、それはどうだろう。あの様子だと、本人も気付いていないんじゃないかな」


 子爵ががっかりしていたのは、高く買い取ってもらえなかったからか、指輪を手放すことが出来なかったからか……。

 グレンはあの指輪にあまり価値がなく、害もないとわかったために買い取らなかったそうだ。


 わざわざ一泊してまでこの町に来たのに成果なしとは、ちょっと損した気分だ。そんなこともあるよとグレンは笑った。


「……叔父さまはヴァンが見えない間どうしていたの?」


 宝石の価値は分かっても、呪われているかどうかは持ち主の話だけで判断出来るのだろうか。

 そう尋ねると「今日はメリルローザがいて助かったなぁ」と微笑んだ。


買い取っておいたのが屋敷に置いてあるよ。暇な時にでも視ておいてくれると助かるなぁ」

「……取り合えず?」

「だって、僕には判断がつかないからね。今日みたいに偽物だってわかっていても、呪いがかけられているかもしれないだろう」


 ……信じられない。なんて無駄使いだ。


 商家の娘としてあんぐりと口を開けてしまった。


「もしかして、ヴァンがいた部屋にあったのも全部……」

「大丈夫。売ればちゃんと利益は出るよ」


 帰ったら宜しくねと言われ、ヴァンが口を挟んだ。


「おい、仕事なら血をよこせよ」

「ああ、そうだ。呪われた“偽物”だったら、その場でメリルローザに浄化してもらおうかな。そうしたら価値のないものは買い取らなくて済むし」


 お互い好き勝手なことを言ってくれる。

 だが、メリルローザには考えがあった。


「いいわ、ヴァン。ホテルに戻ったら血をあげる」

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