彼方にて傍らで。
甘木人
1-1 ぬえと鵺
その日、
日が最も高くなる時間帯、普段ならば喧騒とは対極の位置にあり、穏やかで静謐な時間が流れているはずの頃合い。男たちは山へ、女と子供たちは田畑にて己の役割を果たし終え、自宅や集会所で一息を入れる頃である。
木造の質素なつくりでありながらも、翆嶺村で最も大きな家、村長であるヨイの自宅に大勢の人が集まっていた。がやがやと四方から話し声がしている。中央にいるあずき色の着物をまとった老婆、小柄である上に折れ曲がった背中のせいで、ひどく小さく見える。しかし、皺だらけの皮の奥にある眼光は鋭く、そして彼女の言葉はよく通った。
「遠路はるばるご苦労をおかけします。儂が村長のヨイと申します」
深々と折り目正しく頭を下げる。向かい合って座っているのは、漆黒の装束を身にまとった少女である。純白の刺繍が施された詰襟を思わせる上着は村人のそれとは一線を画すほど上等なものであることが一目で分かる。同じ素材の膝丈ほどの折り目のついた
空色の長髪が隙間風に揺れ、その傍らで赤い夕陽のような瞳が優し気に緩やかな弧を描いている。
彼女の形の良い唇から、皓歯が覗く。
「ご丁寧にありがとうございます」
ヨイに合わせて、深く頭を下げる。鈴虫の鳴き声のような、艶のある声だった。衣類や装飾、その立ち振る舞いからも少女が格上の身分であるということは伺える。しかし、彼女の立ち振る舞いはそれを鼻にかけることのないものであった。
「初めまして、ヨイ様。私は第六十六魔導官署所属、
紡がれるたびに光沢を帯び、高価な楽器を思わせる声色である。
朱い瞳が真っすぐに老婆の姿をとらえる。数多もの視線が突き刺さっているのにも関わらず、気圧されている様子は欠片もない。場馴れしている、ヨイはそう感じた。
「早速になりますが、此度は『不浄』と思われる存在の目撃情報を受け、こちらに参りました」
「はい、イスミ」
イスミと呼ばれた青年が立ち上がる。やや細身だが、しっかりと筋肉のついた青年である。
「ええっと、俺が……じゃなくて、私がイスミです。えっと、よろしくお願いす……します?」
義務教育が発令されてから数年がたつが、彼のような二十代半ばの人々には縁はない。年齢という問題、そして学舎の絶対数が不足しており、正式な教育を受けているのは未だに極一部である。都市に住んでいるのならともかく、このような辺境の地では学校に通えないのは必然であった。
当然、礼儀など知る由もない。見様見真似、否、聞様聞真似とでもいうべきであろうか、それらしく演じてみる。そんなイスミの姿を見て
「普段通りの話し方で構いませんよ。無礼であるなど、決して言いません」
どことなく人懐っこい、魅力的な顔である。村の娘たちでは醸し出せない雰囲気に、イスミの顔に一瞬、朱がさす。
「そ、そうすか? すんません、じゃあ、お言葉にあまえて」
「ここが今いる場所で、こっちが魔導官さんが来た道」
指でなぞりながら続ける。中央には集落があり、家々は省略こそされているが、生活の基盤となる山道への入り口や複数の河川、その分岐、流れの強さなどに関しては、詳細にまとめられている。群集する植物から動物の種類、歩く上での注意点なども同様である。
よく出来ている、素直に
「んで、俺たちが不浄っぽいのを見たのが、ここと……ここ、あとここ」
三か所に黒い小石が置かれる。
「最初は一週間前に翆嶺川の上流で鹿を狩りに行くとき、次が西山の中腹で山菜を採りに行った帰り、んでその三日後くらいに街への道の近くで見たって聞いたんだ」
「なるほど。それの形状はいずれも同じものでしたか?」
質問に、イスミは思い出すように考え込んだあと、小さくうなずく。彼の後ろで、数人の村人が追うように首肯する。
「ああ、間違いなく同じだった。たぶん、狸だと思うんだけど、いやに手足が太くて長くて、蛇みてえな尾っぽがあった」
置かれていた筆を手に取り、描いていく。世辞にも上手いとは言えないものだったが、不気味な形状は表現できている。
また、あくまでそれは後姿であったため、頭部の形状までは分からないと付け加える。
「なるほど、こういった生物を山で見た経験がある方はいらっしゃいますか?」
十数人の村人たちに問う。老若男女、年齢は十にも満たないであろう子供から老人まで様々である。皆がこの村で生きていた。この場所については、彼ら以上に詳しいものはいない。
村人たちは、はっきりと力強く首を横に振った。
「不浄、でしょうか?」
ヨイが問う。恐れと慄き、緊張の入り混じった複雑な表情だ。
「はい。ほぼ間違いないと思います」
ざわりとどよめきが広がる。村人たちの顔に浮かぶのは、不安、恐怖、動揺の色。
それを抑え込むよう、すっと立ち上がる。
「皆さま、ご安心ください。私、
清楚なその顔に、力強い覇気が宿る。華奢な体躯、染み一つない肌。人々を守る、頼もしい存在には見えない。だというのに、その場に居合わせた者は彼女から目を離せなかった。
理屈はなかった。ただ、彼女には不思議と人を安心させる力があった。
「だから、何も心配なさらないでください」
漆黒の魔導官装束をふわりと揺らし、踵を返した。
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