第21話 下巻の序章又はブリキ造りの路面電車
モスクワでのあの出会いが、
人生を大きく変えてしまうだなんて予想できなかった。
大津波を予想できなかった学者のような気分は、恐らくは終生、私の心に痼のように残り続けるのだろう。ときに痼は溶けだし、甘い臭いを放ち、身体中の血管にオレンジ色の液体を流す。そんなとき私は美しい思いでと、事の顛末を知る身としてのやるせなさの中で微睡む事しかできないのだ。身動きも取れない、言葉も初声ない。
でも、恐らくそんな状況にいる私に貴方が出会っても、私がトリップした状態であることには気づかない筈だ。その時の私は余熱で貴方と会話をする、貴方は私に何か訊ねる、私は取り敢えず、いたさわりのない言葉を返すだろう。しかし、その言葉を喋るのは、ちゃちなブリキ造りのAIロボットなのです。そんな脱け殻の私に貴方はなにも期待できないでしょう
そう、この文章は物語の本当の始まりの序章である。
私にとってこの物語を完結させることは終始辛い作業なのだ。
しかし、完成させなければならない。
何も使命だとか任務だとか、そうではない。単に私を次のステップに行かす為の治療のようなものだ。どんな怪我や病であれ治療はとても辛いものだろう、
特に症状が重ければ重いほどに。
・トランバーイ
彼女とはトランバーイと呼ばれる、日本で言えば路面電車になるが、そんな小綺麗な乗り物では無い。社会主義時代の名残というか、ロシア人の気質が産み出した大変ラフな乗り物。大変に揺れるし、直ぐに止まる、ダイヤなんてものは存在しない。一年ほど前に私は再度、モスクワへ行ったのだけれど、新車両が納入されていた、とても近代的で資本主義的デザインだったけれどだったけれど、あの町には不釣り合いだ、その証拠に未だにブリキの路面電車は稼働している客を揺らしながら。
そう、そんなところで出会ったのだ。
出会ったという、よりは"見かけた"と言うのが本当のところだろう。回顧主義者に言わせれば
「一目惚れ」ということになるのだろうが、他の人間の事は分からないけれど、「一目惚れ」
そんな柔い言葉ではすませられない気がする。
よく分からないけれど、ピラミットの中でスターゲートを見つけたような、そんな衝撃だった。
あのときモスクワは例年通りの大雪で道は雪と捨てられた煙草の吸殻が混ざりあって、茶色く歩道をモザイク柄に彩っていた。そんなとき、ロシア人であろうがフォリナーであろうが 、皆ブーツを履いている。
そんな中、彼女は白いスニーカーを履いていたよ、全く汚れていない真っ白なスニーカー。
そしてスキニーのジーンズに黒いコートを着ていた。
そして、何故か教科書を鞄にもいれず、手で抱えていた。
肝心な顔は車道に溜まった白い雪と一旦雪を降らしきったであろう空からの朝日とが反射してトランバーイの酷くよぼれた窓越しに車内に光が降り注いでいた、そのせいで彼女の顔はよく見えなかった。それでも私は一瞬にして心を奪われたのだ、顔を見れば尚更だったのだけれど。つまり私はその瞬間に人生の啓示のようなものを見たのだ、確実に。
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