1-4 小さな異変
今日は水曜日、彼女に会える日だ。
そう思うと自然に顔が緩んでしまう。
正に一目惚れだった。
あの日、初めて会ったその場で恋に落ちてしまった。
長い黒髪、ぱっちりと大きな二重瞼に愛らしい口元。
強く抱きしめると折れてしまいそうな小柄で華奢な身体は庇護欲をそそられる。
笑顔も眩しくて、何もかもが愛おしく感じてしまう。
鈴の鳴るような透き通った声で自分の名前を呼んで欲しい・・・・。
「おい、里中。今朝は何だか楽しそうだな。」
里中はロッカールームで2年先輩に当たる近藤に突然声をかけらえらた。
「え?急にどうしたんですか?先輩。」
里中は驚いて振り向いた。
「お前さっき鼻歌、歌ってたぞ。」
近藤は呆れたように言った。
「え?マジすか?」
「何だよー無自覚で歌ってたのか?どうせ、あれだろ?今日は花屋のあの子が来る日だもんな?」
バタンとロッカーの扉を閉めながら近藤は言った。
「ななな、なに言ってるんですか!先輩!」
里中の口調はしどろもどろだ。
「お前な~バレバレなんだよ。分かりやすいったらないぜ。」
「ま・まさか・・・鈍い先輩にもバレているんなら、他の人達にも・・・。」
里中は青ざめた。
「だ・れ・が・鈍いって。」
近藤は里中の頭をこずいた。
「まあ、あのリハビリステーションにいる人間なら皆気付いてるだろうな、患者さんだって気付いてる人も中にはいるし。里中は千尋ちゃんに片思い中だって。」
「う・・・。で・でも苗字じゃなくて名前で呼ぶまでには進展したんですよ!」
先月、里中はようやく千尋の事を名前で呼ばせて貰える仲になれたのである。
「俺はとっくに名前で呼んでたけどなあ・・・。それに肝心の千尋ちゃんはお前の気持ちに全く気が付いてないみたいだけどな。」
「ぐ・・・・そ・それは・・。」
「お前なあ、千尋ちゃんの事好きなんだろ?あの様子じゃ、今のところ男の影は見えないようだけど、ぐずぐずしてると他の男に取られてしまうぞ?お前、それでもいいのか?」
「え?彼女を狙ってる男が他にも?まさか・・・先輩・・・?」
「ば~か、俺にはちゃんと彼女がいるよ。安心しな。」
「先輩!彼女いたんすか?!」
「何だよ。いちゃ悪いか?それより早く着替えて来いよ。遅刻するぞ!」
言い残すと、近藤はロッカールームを出て行った。
気付けばロッカールームに居るのは里中只一人だけである。
「あ、やべっ!急がないと!」
里中は慌てて着替え始めた。
「それじゃ、店長。そろそろ病院に行ってきますね。」
千尋は花の水やりをしている中島に声をかけた。
「あら、青山さん。今日の花はいい香りがするわね。もしかして金木犀かな?」
「はい。患者さんで金木犀の香りが好きな方がいて、リクエスト頂いたんです。」
「ふ~んそうだったの。その様子だと大分患者さん達とも親しく慣れたみたいね。」
「はい!行こう、ヤマト。」
千尋はヤマトを連れて軽トラックに乗り込んだ。
「う~ん・・。どうしよう。まさか渋滞に巻き込まれるなんて・・。工事中なのも忘れていたし。」
千尋はハンドルをトントン叩きながら、カーナビの液晶画面に映された時刻を見て
ため息をついた。
いつもならとっくに病院に到着している時間なのに大幅に予定時刻を過ぎている。
おまけに渋滞と言っても、ノロノロ動いている為、病院に電話をかける事も出来無い。
「病院に着いたら、すぐに連絡入れなくちゃ。」
すぐ側を爆音を鳴らしながらバイクが数台走り抜けていった。
「バイクはいいなあ。渋滞なんか関係ないんだから。」
丁度その時千尋の携帯の呼び出し音が鳴っていたが、爆音にかき消されて千尋の耳には届いていなかった。
「千尋さん、遅いですね・・・。」
里中はリハビリ器具の点検をしながら主任に問いかけた。
「うん?言われてみれば確かにそうだな。」
野口は本日リハビリを受ける患者のデータをチェックしながら返答する。
「連絡は来ていないんですか?」
「来てないなあ。珍しい事もあるもんだ。」
「何かあったんじゃないですかね?」
里中はそわそわしながら時計を見ている。
「今、こちらから連絡してみるか。」
「え?主任!千尋さんの連絡先知ってるんですか?!」
「青山さんがここに初めて来たときにお互いの連絡先は交換しておいたんだ。花屋経由で連絡取り合うのは手間だしな。」
それがどうしたと言わんばかりの野口の言葉に里中は少しばかりショックを受けて固まってしまった。
その様子に気付いた野口は
「里中、勘違いしてるかもしれないが、あくまで彼女と連絡先を交換したのは業務連絡を取り合う為だからな?大体、俺は結婚だってしてるし子供もいる。」
「う・・・俺も業務連絡でも何でもいいから連絡先交換したい・・・。」
小声で言ったつもりだが、ばっちり野口の耳に入っている。
里中のぼやきを聞かなかったフリをして野口は千尋の携帯に電話をかけたが、一向に出る気配が無いので電話を切った。
「どうでしたか?」
「駄目だ、電話に出ない。」
「主任!フロリナにも電話してみましょうよ!」
「おい、・・・お前心配し過ぎなんじゃないのか?ひょっとして今日は五十日だし、この病院周辺で道路工事していて片側一車線になっている区域があるから渋滞に巻き込まれてるだけかもしれないじゃないか。今のところ、まだせいぜい30分程度の遅れなんだから、もう少し様子を見よう。」
「・・・・・。」
黙り込んだ里中を見て
「ほら、そんな事より仕事仕事!」
「はい・・・・。」
里中は渋々持ち場へ戻って行った。
千尋がようやく病院に着いたのは普段よりも30分以上経過していた。
駐車場に車を停め、携帯電話を取り出した。
「今病院に着いた事、野口さんに連絡入れなくちゃ・・・え?リハビリステーションから着信がある!」
慌てて千尋は電話をかけるとすぐに
「はい、リハビリステーションです。」
受話器越しに野口の声が聞こえた。
「いつもお世話になっております。青山です、申し訳ございません。渋滞に巻き込まれて連絡を入れるのがすっかり遅くなってしまいました。」
「ああ、やはり渋滞に巻き込まれていたんですね。いえ、こちらなら大丈夫なので
慌てず来てください。」
「ありがとうございます。」
千尋は電話を切るとすぐに受付をする為に通用口に向かった。
千尋との会話を終え、受話器を置くと野口は暫く考え込み、里中を探した。
目に入った里中は丁度患者のリハビリを終えたばかりである。
「おーい!里中!ちょっとこっちへ来い。」
「何ですか?」
野口の呼びかけに里中はやってきた。
「今、青山さんから病院に着いたと連絡が来たぞ。まだ患者さんも少ないし、スタッフの手も足りているから正面玄関で待っているか?そこなら青山さんも探せるだろ?荷物を運ぶのを手伝ってやってくれ。」
「はいっ!」
里中は嬉しそうに返事をすると急いで正面玄関へと出かけて行った。
「全く・・・分かりやすい奴だ。」
野口は里中の出て行った方向を見ながら呟いた。
「ではいつものように、こちらに名前を記入して下さい。」
千尋は通用口の守衛を務めている若い男性からボードを受け取ると、「フロリナ」と店名を記入して手渡した。
「お願いします。」
「お花屋さんは土日もお店を開けてるんですよね?」
守衛はボードを受け取りながら、千尋に声をかけた。
「はい。土日は書き入れ時なので通常は仕事ですね。」
「定休日と言うのはあるんですか?」
「いえ、特に定休日は無いですね。シフト制でお休みを入れてますけど?あの・・・それが何か?」
今迄一度も個人的な話をした事が無かった千尋は戸惑いを見せた。
「あ、いえ。お花屋さんて結構重労働な仕事だから大変だろうなと少し興味を持っただけなので気になさらないで下さい。はい、こちらが入館証になります。どうぞ。」
「ありがとうございます。」
千尋は入館証を受け取ると、お辞儀をしてその場を後にした。
「お待たせ、ヤマト。」
駐車場のトラックの荷台に乗っていたヤマトの元へ戻り、荷物を降ろそうとした時である。
「ウオンッ!」
ヤマトが一点を見つめて吠えた。
「千尋さーん!!」
見ると里中が手を振りながら小走りでかけつけてきた。
「里中さん?どうして此処に?まさか・・・私が遅いので迎えに?」
千尋は驚きの表情を見せた。
「それもありますが、主任から千尋さんの荷物を運ぶの手伝って来るように言われたんですよ。」
(どうしよう、私のせいで里中さんにまで迷惑をかけてしまった。)
「すみません・・・。私が遅刻したばかりにご迷惑を・・。」
みるみる表情が曇る千尋に慌てたのは里中である。
「クウーン・・・。」
ヤマトは心配そうに千尋を見つめている。
(ああ!何を言ってるんだ俺!これじゃ主任に言われて仕方なく迎えに来たと思われるじゃないか!)
「い、いや。そんなんじゃないっすよ!俺が主任に千尋さんが遅いのをしつこく聞いたから・・・あ・・・。」
どんどん千尋がすまなそうに俯くのを見て、ますます里中は焦った。
(しまった!これじゃますます千尋さんに気を遣わせる発言じゃないか!)
「千尋さん!荷物全部俺が降ろしますよ!俺、千尋さんを手伝いたくて来たんですから。」
照れ隠しをする為、わざと大きな声で言うと里中はテキパキとカートに荷物を降ろしていった。
「ありがとうございます、助かります。」
千尋はにっこり微笑んだ。
(うわあ・・・可愛いなあ・・。)
里中は赤くなった顔を見られないようにくるりと背を向けると
「それじゃ、行きましょうか。」
「はい。」
二人と一匹は並んで歩き始めた時、里中は強い視線が自分に向けられているのを感じた。
「!」
里中は反射的に立ち止まり、辺りをキョロキョロ見回したがその時には鋭い視線は消えていた。
ヤマトも何かを感じたのか、じっと身構えている。
「どうしたんですか?」
不意に立ち止まり、辺りを警戒するような動きを見せた里中を不思議に思い千尋は声をかけた。
「あ、何でも無いっす。俺のファンの子かな?誰かに見つめられてる感じがしたんだけど気のせいだったみたいだな~なんて。ハハハ・・・。」
里中は千尋を心配させないようにわざと明るい声で言った。
「そうなんですか?でも里中さんなら女の子の1人や二人、ファンがいそうですよね。」
「いや~。かつて女の子だった人達なら俺のファンがいるんですけどね・・・。
あ、この話ここだけにしておいて下さいよっ。」
里中が何を言わんとしてるか気づいた千尋はくすくす笑いながら頷いた。
そんな二人の楽しそうな様子を陰からじっと覗いてた人物がいる。
「くそ・・・・あの男・・。俺の彼女に馴れ馴れしくしやがって・・・。彼女は俺の物なのに・・!大体、彼女も何なんだ?俺と言う者がありながら、あんな軽薄そうな奴と親しくしやがって・・・!」
男の顔は嫉妬で醜く歪み、その声は憎悪にまみれていた。
「もっと彼女に俺の存在を自覚させないと・・・。」
男は低い声で呟くのだった。
「ただいま戻りましたー。」
約1時間後、千尋はフロリナに戻ってきた。
「お帰りなさい、千尋ちゃん。今日は帰りが遅かったのねえ。」
パートの渡辺が花の手入れをしていた。
「すみません、道路が渋滞だったので遅くなってしまったんです。あれ?店長はどうしたんですか?」
「それがね、今から1時間位前に薔薇の花のオーダーが入って急遽仕入れに行ったのよ。」
「そうなんですか?お店の薔薇じゃ足りない本数なんですか?信じられない!」
「いえ、そうじゃないのよ。すごく珍しい色の薔薇で、どうしても今日中に届けて欲しいって連絡が入ったの。」
「珍しいですね・・それなら普通は完全に予約ですよね・・?」
あの店長が無謀な注文を受けるのを千尋は信じられなかった。
「ほら、先月うちの店から歩いて10分程離れた場所に新しい花屋がオープンしたじゃない?だからのんびり構えてられないって、時にはHPも使って営業していたんだって。そしたら今日突然メールで薔薇のオーダーが入って、もし手に入れる事が出来たら毎月定期的に依頼したいってメールが届いたそうよ。」
「それで店長は受けたんですね。」
「そう!しかもかなり上客らしいのよ。この客一人でもかなり毎月の売り上げが
アップするかもって店長喜んでいたから。」
その時である。
「ただいま~ッ!」
店長の中島が鮮やかな青色の薔薇を大量に抱えて帰ってきた。
「うわっ!店長、オーダーの薔薇って青い薔薇だったんですか?!」
千尋は目を丸くした。
「これだけ青い薔薇が揃っていると壮観ねえ・・・。」
渡辺はうっとりした表情で言った。
「大変だったわよ~あちこち問屋さんを尋ねてやっと注文通りの本数を揃えられたんだから。さてと、お客さんに連絡しなくちゃ。」
中島は業務用のスマホを取り出し、メールを打って送信した。
するとすぐにメール通知の知らせが届いた。
中島はメールを開くと
「ええっ?!嘘でしょう!!」
そして千尋の方を見た。
「?どうしたんですか?店長。」
千尋は首を傾げて中島を見た。
「この青い薔薇・・・届け先は青山さんだって・・・。」
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