朝焼け
「うまかったろ?」
お姉さんの言葉に僕は、地面をみつめたまんまでうなずいた。なんとなく、お別れが近い気がしたから。だって、空の色が少しずつ明るくなってきている。もう少ししたら、お母さんも起きるかもしれない。そう考えると、家に帰るのが不安になって来てしまった。
「なにしょげてんだよ」
とお姉さんの手がボクの頭をくしゅくしゅと撫でた。長く伸ばした爪の感覚が胸をちくちくと刺すよう。独りで帰すのは不安だからと、家までついてきてくれるみたい。だけどそれはそれで、自分の家を案内することが、一緒にいる時間を短くしているみたいで嫌だった。わざと間違ったりしてみようかなんて思ったけれど、怒られそうだからやめた。きれいなお姉さんだけど、お父さんと同じ殺し屋だから、怒ったら怖そうだ。
家までの帰り道は、何とか間違えずにまっすぐに帰れた。初めての冒険で頭がさえていたからかな。
あらためて自分の家の真ん前に立つと、かっこ悪いなって思う。ぼうっと見ていても屋根が傾いているなあって分かってしまう。トタンや木材を立てかけてつなぎ合わせただけの見た目は、ボクがつくった積み木の家の方がずっと立派だと思ってしまうほど。壁には穴も開いているし。
「ここが君の家か」
なんてそれだけの言葉でちょっと恥ずかしい。「まあ、うちも似たようなもんだ」なんてお姉さんは言ってたけれど、ボクの家がかっこ悪いことに変わりはない。
「さ、今夜はたまたま運が良くて、いいお姉さんに捕まったけれど、次はそうは行かないぞ」
しゃがんで目線を合わせてから語りかける。途中、目をそらしたら両肩をつかまれた。大きな声を出されることはなかったけれど、きりりとした瞳は迫力があった。もし今度、夜に抜け出したりしたら大目玉を喰らうだろう。
「じゃあ、もうお姉さんには会えないの?」
だから、思わず心の声が漏れてしまった。お姉さんは、ボクの問いかけにはすぐには答えてくれなかった。少しの間だけ、静かでとんでもなく長い時間が訪れた。
やがて、ボクの頭の上にぽんっと温かい手のひらが置かれて。
「しおれるなよ。昼は……だいたい出払ってるけどさ。そうだ、その薬莢を今日のガレージのトラックにでも吊り下げに来てくれよ。手紙ぐらいは返してやるから」
手紙、お姉さんと手紙を送り合うことができる! 直接会えなくても言葉を交わすことができるんだ! それが分かっただけで嬉しくて嬉しくて――
「本当? じゃあ、絶対書く! 絶対に!」
そんな言葉を何も考えずに言ってしまうほどだった。お姉さんは「わかったわかった」と苦笑いをこぼす。それから、お姉さんも帰らなくちゃいけなくなって、お姉さんに手を振ってその姿が見えなくなったところでボクはようやく気付いた。――どうやって手紙を書いたらいいか分からないってことに。
そこで、お姉さんの苦笑いの意味が分かった気がして、ボクは悔しくてたまらなくなった。でも、絶対、絶対に書く。書くと決めたら書くんだ。
よおし、なんて声を上げそうになった。危ない、もう家の真ん前だから大きな声を出したりしたら、お母さんに夜に抜け出したことがバレてしまう。家を抜け出してきた時と同じようにそろりそろりと家の裏に回る。玄関の扉はきしんで物凄い音を出すから絶対にバレてしまう。裏手には相変わらず壁に大きな穴が開いていて、外の光が家の中にじんわりと沁みだしている。
もう一度、慎重に。立てかけた板に当たってしまわないように、しゃがみこんで四つん這いになったところ、「おい」と声をかけられた。さっき、あたりを見回していたときは誰もいなかったはずで、人の気配も感じなかったのに。――男の人の声だ。聞いたことのある、懐かしい声。
「殺し屋の息子が、後ろを取られるとは……まだまだだなあ」
バレた。見つかってしまった。お母さんにではなく、お父さんに。お父さんは一度仕事に出ると数日の間出かけっ放しになって帰って来ない。いつ帰って来るかも言ってくれない。だからそれが今だなんて思ってもみなかった。
これはしかられるかな。覚悟を決めてお父さんの方へと向き直る。さあ、げんこつが来るか、と歯を食いしばる。
「内緒で外に出ていたか、その抜け穴から。随分と無茶をしたなあ。――その勇気は認めてやろう。どうせ、中に入ったらお母さんから大目玉を喰らうだろうからな。俺が叱る必要もあるまい」
とりあえず無事でよかった、とボクの頭を撫でた。
深くかぶった帽子の影で口元が緩むのが見えた。――なんだか予想していたのと違った反応だった。
「外の世界は楽しかったか。それとも怖かったか」
楽しかった。お姉さんと会うことも出来たし。でも怖いことも沢山あった。そのどっちもだ、と答えるとお父さんは、「そうだろうな」と優しく返してくれた。そして、しゃがんでボクをおんぶさせてくれないかと言った。久しぶりに乗るお父さんの背中はいつだかよりも小さく見えた。
「重くなったんじゃないか」
お父さんは嬉しそうに言った。重くなったかどうかなんて自分ではよく分からない。それからお父さんは、ボクを背負って少し歩いた。ボクが住んでいる所は、海が近い。家の裏手から少し歩けば、小高い丘があって、その向こう側には鉄でできた箱がいっぱい置かれた港がある。
「そろそろいい時間だと思ってな」
その丘のてっぺんに着いた。お父さんは、顔を上げて「海を見てみろ」と言った。そこに広がっていた景色は――
まだ夜の青さが残る空を、はるか向こうの水平線から覗く太陽が、赤く染め上げようとしている。その光が港に並んだいくつもの鉄の箱を照らしていて、太陽の光と夜の境目で白黒の世界と色のついた世界がせめぎ合っていた。
「お前は朝焼けを見たのは初めてだろ。どうだ、きれいだろう」
きれいだ。思わず見とれて、口が開いたまんまで閉じることができないほど。
「お母さんは、お前が外の世界に出ることを嫌がっている。危険だからとな。だけど男は外に出ていかなくちゃならない。だからお父さんはお前に知って、そして覚えて欲しい。どれだけ外の世界が危険で辛い場所でも、外の世界にはきれいなものもあるってことを。それは外の世界に踏み出さなければ見られないってことをな。だから、よおく見ておけ。――これが、朝焼けだ」
きらきらと光る水面。
赤く染まる雲。
光の影で真っ黒になっている木々。
鳥たちの声。
冷たい空気の匂い。
その全てを焼き付けろとお父さんは言った。この景色は、外にしかない。やっぱりどれだけお母さんに怒られても、外の世界を冒険してみなくちゃいけない。これは、きっと憧れとかそういうものではなくて、ボクがやらなくちゃいけないことなんだ。
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