初恋は鉄と火薬の匂いがした。

津蔵坂あけび

真夜中の冒険

 とん、たん、とん――雨だ。


 トタンの屋根は雨音が良く響くから分かりやすい。それに透明なトタンだから、雨粒がわずかに透けて見えている。――こんなことを考えるのは何回目かな。


 雨だ。雨が降っている。そんな当たり前のことを何回も何回も心の中で呟いて、空っぽの時間を過ごす。何もすることがない。


「自由にしてなさい」


 なんてそんなこと言われたって、家には何もない。

 もう飽きた積木は、片づけたままで数年以上出していない。床の上に無造作に置いただけの箱馬の上には、折りかけの折り紙と、書きかけの落書きが散乱している。もう、興味がない。

 本もないし、それにあったって、ボクは“文字が読めない”。


 何もない、味気ないだけの部屋は、今にも崩れそうな土壁で縁取られている。その真ん中でお母さんは箱馬に腰かけながら手編みをしている。お父さんの仕事に比べれば、わずかだけど稼ぎにはなるらしい。


 もう限界だ。もともとずっと家事を手伝っていて、それで自由時間を貰ったのだけれど、貰ったところで持て余してしまった。お母さんは、ボクが疲れたと思って休ませたのだろうけど、ボクは最初から疲れてなんかいなかったんだ。

 地面がむき出しの床を歩いて、お母さんのもとへと。きっと苦い顔をされるけれど、退屈過ぎて耐えられない。


 「お母さん」とその声をボクが出しただけで、お母さんの顔がくしゃりと歪んだ。


「また、外に出たいとか言うんじゃないでしょうねえ」


 呆れがちな返答。お母さんはボクが、外の世界に出ることを、あまり快く思っていない。極端な話、洗濯物を干すだとかちょっとした用事でも。


「言ったでしょ。この街は、危ないところだって。客を取る娼婦が溢れ、殺し屋や薬物の売人がうろうろしている」


 ボクの肩を持って、目線の高さを合わせて言いつける。何度も聞いていることだし、正直飽き飽きだ。

 この街が、ひどい街だってことはよく知っている。お父さんは殺し屋で、お母さんは娼婦だったらしい。ちなみに娼婦が具体的に何かは、教えてもらったことはない。


「じゃあ、何か手伝うことは?」


 どうせ外に出られないなら、ずっと手伝いをしていた方が退屈じゃない。

 そうね――とお母さんはしばらくの間考えた。編み物は、独り作業で、かといって中断して何か他のことを始める気にもなれない、と。


 短い沈黙の間、雨の音が部屋の中に鳴り響く。――どんどん強くなっている。

 と、そのとき、湿って重たくなった壁がべろりとめくれて、崩れ落ちた。ぼっかと開いた穴を通して、隣の家の屋根を伝って流れる水がどばどばと入って来た。


「あら……、ずっと雨水がかかっていたのね。この家もいつ崩れるか分からないわね」


 壁に立てかけて置いてある木の板を、穴にかぶせて、その場しのぎををしようということになった。この手のことはよくあることで、家の壁には、お父さんが釘で板を打ち付けて補強した跡がいくつもある。

 お母さんは、大工仕事ができないから、とりあえずかぶせるだけだ。


「あの人、今度はいつ帰ってくるのかしら」


 寂しそうにぼそりと呟く。最後にお父さんに会ったのは、もう数週間も前かな。お父さんはお母さんと違って、ボクに外の世界をもっと見て欲しいと思ってる。だから、お父さんがいれば、ボクは外に連れ出してもらえる。お母さんはそれさえも気に入らないみたいだけど。


 お母さんと一緒に板を持ち上げる。結構な重さだ。

 二人でよたよたと歩きながら壁に開いた穴に板を立てかけた。家に入ってくる雨水を何とか防ぐことができたけれど、いくつか水たまりができたままだ。バケツですくって、家の外に水を出したけれどぬかるみは残ってしまった。ようやく作業が終わったころには、外は真っ暗っだった。


 それから、夕食に豆を煮込んだスープを食べた。

 お母さんとはいくつか言葉を交わしたけれど、その間もボクはずっと考え事をしていた。――穴のことだ。今までも壁に穴が開いたことはあったけれど、それはどれも高い位置だったり、小さかったり。でも、でも、今日開いた穴は、くぐり抜けられるくらいで、それも板を立てかけただけだ。板も倒れないように、角度をつけて立てかけているから、隙間が空いている。気を付ければ物音を立てずに抜け出すことができる! 外の――外の世界が見れるんだ! それも一人っきりだなんて初めてだっ!

 ボクはお母さんの目を盗んでは、ちらちらと板の隙間から外の世界を覗き見た。もう、わくわくしっぱなしで、にやにやしっぱなしで、どうにかなってしまいそうだった。


     ***


 冒険は、お母さんが寝静まった真夜中に決行した。

 こっそりと毛布から抜け出して、音をたてないように用心して。そろり――そろりと。途中で何度かお母さんの寝息が途切れて、気づかれたかと焦ったけれど大丈夫だった。

 身を屈めて、板と壁の間の隙間に、体を潜り込ませて――途中で板に身体が当たって、倒れてしまえばお終いだ。


 気を付けろ。ゆっくり、ゆっくり。


 ようやく抜け出した。息をこらえていたから、まるでボクは水面にやっと浮かび上がったようにぷはぁっと詰まらせていた息を吐いた。それから、目を閉じて大きく深呼吸をした。

 雨は上がったけれど、まだ湿った冷たい空気の匂いが鼻の中に入ってくる。カビと生ごみと、よくわからない油の匂い。――思わずむせ返ってしまったところで、あ、マズいと口をおさえる。家を出たとはいえ、物音を立てれば、お母さんに悟られる。


 急いで、だけど慎重に。ボクは歩みを進めた。


 狭い路地を出たところで、視界が開けた。夜空をいくつもの電線が切り分けている。それらがぼんやりとした光を放つ裸電球をぶら下げていて、吸い寄せられた蛾が集っている。建物は、ボクが住んでいるような地面から土をかぶって盛り上がっているだけのような低いものもあれば、出鱈目にトタンを張り付けて出来たうずたかいもの。ひび割れたコンクリートの塊のようなものまで。どれもが不格好で、どこか不気味だ。

 街を行く人たちは、真夜中なだけあって少ない。誰もが下を見て、ポケットに手を突っ込んで歩いている。いかつい男の人が多い。のぞきこんだ路地裏では、不精ひげを生やした、すえた体臭を放つがりがりのおじさんが、身体をぷるぷると震わせながら鼻から白い粉を吸引していた。けほけほっとむせ返って、それからのけ反って倒れた。しばらくしてから声をあげて笑い始めた。――そして、目が合ってしまって、急いで逃げた。


 駆け込んだ先は、コンクリートでできた八階建てぐらいのビルだった。

 あのおじさん、目が左右で違う方向を向いていて、その目が真っ赤で……思い出しただけで背中をぞわぞわっと虫が這うような感触がした。恐ろしいものを見た。

 荒い息を整えたところに、美味しそうな匂いが漂って来て、ボクのお腹をぐうと鳴る。道路に向かって覗き込むように顔を出すと、ここら辺は飲食店が多く並んでいる様子だった。いくつか開いているものもある。けれど、僕はお金を持ってないから、お店には入れない。

 ビルの一階のガレージには、ガラスが割れたトラックが一台停められていた。荷台にはカバーが掛けられていて、その上からゴムひもがくくりつけられていて、その中身が何かは分からない。目を皿にして探し回るボクは、まるで盗人だ。タイヤによじ登って運転席を覗き込んだり、必死に荷台の布を引っぺがそうとしたり。

 お腹が空きすぎて、お店を目にした途端に、金目の物――金目のものはないかと探してしまった。でも、何も見つかりそうもない。


 もう帰ろうかな。そう思ったけれど、最後の最後にとトラックの下をのぞき込んっだとき、何やら光るものがあると気づいた。――何だろうと思うまでに、ボクはトラックの下に潜り込んだ。

 それは金属製の筒のようなものだった。匂いを嗅いでみる――鉄と火薬の匂いがした。お父さんの持ってるもので見たことある。きっと銃弾の一部だ。お土産に持って帰ろう。ボクはその戦利品を月明りにかざした。


「坊や、そこで何してるんだい?」


 と急に声をかけられたから、飛び跳ねて、慌ててそれを後ろ手で隠した。


「それ、薬莢やっきょうだろ? あたし、集めているんだ」


 お母さん以外の女の人に会うのは、ほとんど初めてだった。でも、お母さんとはまるで別の存在のようで。だって、お母さんよりもずっと背が高いし。唇には艶があって、吐息からは花のような甘い香りがした。

 女の人は、しゃがみこんでボクと目線を合わせた。

 そして、紅い爪の生えた細い指でボクの頬を撫でた。


「君みたいな、小さい子が真夜中うろついていると、あたしみたいな怖いお姉さんに見つかるぞっ」


 脅しているような言葉だったけど、そう言って笑う顔は、人懐っこかった。

 長い栗色の髪、ドレスの空いた胸元から見える白い肌。――胸がどくんと疼いて、息が苦しくなった。


「冗談よ。退屈まぎれに話しかけてみただけ。子供からたかるほど野暮じゃないわよ。でもここが怖い街なのは事実。君のお父さんも、どうせ殺し屋でしょ?」


 なんで分かったの、と尋ねると。「ここら辺にはうじゃうじゃいるから」とまた人懐っこい笑みを浮かべる。ぷるんとした艶のある唇が、きゅっと細まって。上がった口角のすぐ傍で、えくぼが現れる――なんてぼうっと見ている間に、右の手を握られて、ボクは、かたまった。


「さあ、坊やの家を案内してちょうだい。殺し屋のあたしがついていれば、少しは安全だろうさ」


 そして上の空になっていたものだから、空耳かと思って聞き返す。でも女の人は、自分のことを殺し屋だ、と繰り返すだけだった。信じられない。こんな綺麗な人がお父さんと同じ殺し屋だなんて。

 お父さんから漂ってくるのは煙草の匂いで、女の人から漂ってくるのは、甘い香り。同じ殺し屋なのに。


 つながれた手は、温かくて――二人で並んで歩いているだけで、頬を熱い血が上っていく。なんだか、ふわふわしていた。雲の上を歩いているみたいに。


「ぷっ、今、お腹なったよ」


 と笑われて、今度は別の意味で頬を血が上っていく。


「ラーメンでも食べる?」


 ボクはその誘いに上の空なままでこくりと頷いた。

 不思議な感覚だった。意識ははっきりしているのに、現実感があまりなくて。


 ただ、こうやってお姉さんと手をつないで夜の街を歩くこの時間が、どこまでも、どこまでも続いて――朝なんか来なくていいのに。


 もうずっと、このままで――

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