駆けたい
賢人と翡翠は走っていた。嫌がる眞守に対しては翡翠が憑き物を祟らせてやるという脅迫をかけてそういう非科学的なことにはダメージを受けないだろうと思っていた眞守がそれでも一緒に走った。
地獄の掛け軸を見たからだ。
神の絵も地獄の絵も信じない者たちに対しては生では見せない。デジタルカメラで撮影した映像を見せる。その間接的な地獄の異常な、否、虚仮の世を生きる人間にとって異常と思えるだけの地獄の『日常』は科学で物事の言い訳を考え出す眞守に対し精神的な恐怖をシナプスの一つ一つの抹消まで沁み渡らせた。
『死んだ方がマシだ』
この映像を見た人間は決してそういう言葉を吐けなくなるはずだ。以前賢人が言ったように死によって1%でも地獄に堕ちる可能性があるのならば。
そして賢人と翡翠と眞守の3人は神奈川の完成したばかりのレース用クロスカントリーコースを走っている。
「賢人。速いね」
「翡翠こそ。見事に骨盤で走れてる。眞守、大丈夫か」
「どうして走らなくちゃいけないんですか?」
「戦争だからだ」
「ダッシュ!」
翡翠は落下するようなその谷の下りを重力に任せて骨盤に連動させた筋肉というよりは脚の骨格そのものを動かすダイレクトで極めて合理的な運動効率で駆け下り、そのエネルギーを滅失させずに谷を一気に登り切った。翡翠のこのランニング・フォームは当然ながら普段のウォーキング・フォームの延長であり、だから痩せてまだ幼いから目立たないが翡翠の腰はけれどもしっかりとした女のくびれが構築されていた。
賢人も総合商社というとどのつまりは体力が問われる業界にあって走ることと自重での体幹トレーニングを日課としていたことと男であるという単純な生物学・筋骨上の優位性でもってほぼ翡翠と同タイムでクリアした。
問題は眞守だった。
「苦しい・・・死んだ方がマシ・・・」
「眞守! 地獄に堕ちたいの? ははっ」
「い、いやです・・・」
金末教授のプランはこうだった。
『キミらがそれを悪鬼神と呼ぼうが超常現象と呼ぼうが勝手だが現象としてはブラックホールとしか言いようがない。そして「バチが当たる」とキミたちが恐れているそのことを覚悟して絵の一部を薄く削り取ってサンプリングしてくれた地獄の絵の顔料も神の絵と同様の放射性物質を含有していた。そして来月、有史以来最大規模のブラックホールが地球上に発生するポイントが割り出せた。それを神の絵と地獄の絵を使って処理するんだ』
絵空事と捉えたかったが神の絵も地獄の絵も実在している。そしてそれは日々を生きる人間の空虚な現実などではなく絵そのものが圧倒的なリアリティを携えた現実なのだ。絵の中の出来事は地上の高天原とはるか地下深くの地獄とで起こった現実なのだ。
『いいか、有史以来の最大規模だぞ』
金末教授は自分の言い回しに酔ったのか二度繰り返して強調した。
C.Cを30周し終えて三人はウッドチップの上に胡座をかき炭酸入りスポーツドリンクをがぶ飲みながら段取りを確認し合った。
「場所は北の地方の県の一級河川の河川敷。そのパークゴルフ場の真横の本流と支流が合流する地点」
「賢人。なんで県名は極秘でわたしたちも一言も口に出したり通信機器に痕跡を残したりしたらダメなの」
「一応そこでやることは眞守たち科学者が自説でいうところの『核融合』に近いからな。失敗して第三者や周辺の生物・植物が被曝したら風評被害が深甚だからな。翡翠が広島の原爆ドームでエノラ・ゲイの飛行地点に向けてやろうとしたことをもっと強力な光源を使って実行する」
「賢人さん。なんでそんなにすらすら科学的な思考ができるんですか? たった一回教授から聞いただけなのに」
「翡翠と一緒に暮らしてきたからだろう」
「神様の絵と三人でね。ははっ」
「そうだな。それで眞守。役割は十分に理解してるだろうな」
「え、ええ。光源を最大効率で絵に照射できるように反射鏡の鏡面の研磨角度と個数、それからセットするポジションを計算することですよね」
「ああ。反射鏡を同時に複数の零細企業に発注しないともう間に合わん。俺の商社時代の顧客に当たって話はつけてある。全社ともどんなに遅くても三日後の営業時間終了までに仕様が欲しいと言ってきた」
「走ってる場合じゃないと思いますけど」
「走れないと当日、全員、死ぬ」
賢人は静かにもう一度告げた。
「成せずに死んだら、地獄に堕ちるぞ」
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