第182話 遺言

――真子の覚えている限りの記憶の話――

 

 真一とパン屋に行く道中、ビルの前に来たらものすごい突風が吹いた。ビル風なんて優しいものではない。竜巻のような風だった。それと同時に頭上でメキメキ、バキバキと音がした。見上げると足場がこちらに向かってはがれるように落ちてくる。

 周囲にいた者は悲鳴を上げて逃げ出した。2人もあわてて走り出した。しかし真子は走ることができない。真一が何とか背中を押してくれたが、数歩進んだところで突然突き飛ばされた。


 咄嗟にお腹をかばって体の左側から倒れた。全身に激痛が走る。同時に間近で鋼材が激しく地面に叩きつけられる音がした。あまりの大音量に一瞬耳鳴りがして、何も聞こえなくなった。逃げようとしたが足が動かない。何故かと足を見ると自分の右脚ひざ下が鋼材に食われていた。そしてそのわずかな地面と鋼材の隙間に「手」が見えた。そこで記憶は途切れている。


「もし真一が私を突き飛ばしていなかったら、間違いなく頭の上に鋼材が落ちて死んでた。あの子は、私とこの子をかばってくれたんだよ」

 お腹をさすり涙ぐみながら話す真子。ここから先は夢の中の話だと前置きして話を再開した。

 



 薄暗くてよく見えない空間で、いきなり赤ちゃんが自分の手から居なくなり、体も動かず、イモムシが這うように転がり周囲を探す。

 歩けば数歩の少し離れたところに、液体で満たされた大きなシャボン玉のような物体をみつけた。わずかに明るく光っていて、そのなかに赤ちゃんが入っているのだとすぐわかった。

 腕の中にすっぽりと収まってしまう程の大きさ。少しでも転がしたら割れてしまいそうな玉の外側に何か巻き付いている。目を凝らしてよくよく見たら「蛇」だった。そのシャボン玉が割れないよう全身で絡みついて守っているようだった。


 いきなり足元が大きく揺れた。天地がひっくり返るような衝撃。それによって体にまた激痛が走った。赤ちゃんの入ったシャボン玉が転がる。しかし蛇も決して離すまいとしがみついているので、そのままころころと転がるだけだった。

 それを見て、ああ、赤ちゃんは大丈夫だ、真一が守ってくれた、と悟った。どうしてか自分でも分からないが、蛇を真一だと感じた。彼と同じ優しい目をした鉛色の蛇。体は細くてもその姿勢に頼り甲斐がある。その後も2度ほど、地震のような振動が感じられたが、ヘビは離れず転がるままになっていた。

 

 自分はその後も、動かせない体でその蛇とシャボン玉をずっと見続けていた。たまに赤ちゃんが目を開けると、笑ったような顔で蛇に手を伸ばすようなしぐさを見せた。蛇は何をするでもなく、くりくりした目で中を覗き、たまにちろちろと舌を出す。

 

 今度は後ろから自分を呼ぶ声がした。振り向くと直哉が立っていた。なんだかボロボロの姿だった。顔色は悪く、また喧嘩でもした後なのだろうか、傷だらけでふらふらしていた。

「よかった、真一が守ってくれたんですね」

 玉に巻き付く蛇をみて、安堵の表情を浮かべる。そして真子の横にしゃがみ込み、これから真子さんを元気にします、と告げた。

 そっと左腕を直哉が掴むと、掴まれたところがぽかぽかと暖かくなってきた。最初はカイロを当てられているような局所的な温かみだったが、どんどん全身へ広がっていく。そして周囲も日が昇るように明るく暖かくなってきた。

 周囲が光を取り戻すにつれ、自分の体もかなり楽になってきた。どのくらいそうしていただろう、直哉が手を離した。


 ゆっくり直哉がシャボン玉へ近づくと蛇はとクイッと顔をあげて彼の顔をじっと見た。

「ピロ」

 呼ぶと蛇は言葉こそ喋れないが、返事するかのように舌をちろっと1回だけ出した。

 安堵の笑みを浮かべながら手を伸ばすと、蛇はするするとシャボン玉を離れて直哉の腕へ登った。直哉は何度も蛇に礼を言う。

 直哉がシャボン玉の表面にそっと手を置いた。するとその手のひらから、まるで赤い稲妻のような枝状の模様が走った。その先端は赤ちゃんのへその緒へとつながった。時間にしてわずか十数秒だっただろう。手を離すと蛇を抱えたまま、今度は真子に近寄り脇へしゃがみ込んだ。



「みんなに、何も言わないで出て行ったこと悪いと思ってます。でも断ったら止められるから、こうするしかなかった。今から言うことをできるだけみんなに伝えてください。

 一連のことは、全部自分を狙った死神が仕掛けたことで起きた事なんです。だから俺じゃないとケリがつかない。出て行ったのは孝ちゃんに言われたからじゃなくて自分で決めたんです。だから孝ちゃんには絶対自分を責めるようなことはしないでって言ってあげてください。あと美穂と優二と、拓にも、孝ちゃんを責めないでって。

 学校の皆にも、石田の事見捨てないで待ってて欲しいって伝えてください。必死で元に戻ろうとしてるから。おばさんもそう。責めないでください。

 俺はみんなが泣いたり不安がったりしながら過ごしてほしくない。いつも笑って仲良くいて欲しいんです。真一も同じです。

 俺たちは俺たちの帰るべきところに帰ります。風の子園だけじゃなくて、学校のみんな、町の人にも、全員に感謝してる。世羅や沙織にも、千帆のこと頼むって伝えてください。

 ここに来られて俺幸せでした。だから、真子さんたちも幸せに過ごして。それが俺らの願いです」



 直哉の手元から蛇の姿が光の粒になり消えた。直哉も立ち上がり背を向け歩き始めた。必死で待って、待ってと手を伸ばす。帰るって一体どこへ帰るというのか。

 その問いに答えはなかった。まるで濃い霧か雲の中に入っていくように、その姿は消えた。あとに残ったのは赤ちゃんの入った玉。駆け寄り抱きしめる。ビニールボールのように柔らかく暖かい体温を感じた。

 この子が無傷であること、自分の体が思うように動けたことに心から感謝した。そして2人がこの世界を去ったことを悟った。もう戻ってこない。でも別の世界へ帰ったのなら、あっちでまた心配されないよう、あの子たちが望み願った「平凡でも幸せな暮らし」をしよう。何があっても生きて行こう。救ってもらった命なのだから……そう決心した。

 



 話を終えて深く深呼吸をする。そこにいた全員も一緒に大きく息をつく。孝太郎は泣いていた。孝太郎だけじゃない、みんな泣いていた。

 いっぺんに2人を失って悲しいのと、彼らの最期がどうだったのかを知れたこと。真子と赤ちゃんをを守ってくれていたこと。そして自分たちを最後の最後まで気遣ってくれていたこと。

 胸のつかえは完全に取れたわけではないが、子供たちはそれを聞き入れ、何とか自分の思考で昇華しようとしていた。

「明日、帝王切開することになりました」

 杉村医師は目を真っ赤にしながら報告した。

「また、連絡します。きっと無事に生まれますから待ってて下さい」

 園長は泣きながら笑って、よろしくお願いします、と答えた。それ以上は真子の負担になるので、一斉に帰った。

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