第177話 裏切る

 うっすら床に自分たちの影が見え始めると、シズィータは一旦動きを止め顔をあげた。

「……」

 立ち上がり、鉄線の柵があったはずの場所で正と負が対峙しているのを発見した。しかし表情一つ変えなかった。

「フェル」

 シズィータが振り返る。

「僕の元に来てくれるね」

 直哉は咳き込みながら痛む全身を力ませ、身をよじった。

「うっ……あ……」

 うまく声が出せない。自分を見つめるその顔は、なんて優しい顔をしているんだろう。本当にこの人と一緒にいたら、死神になったなら、もう苦しまなくていいのではないか……と、ぼんやりした頭で考えた。

 まるで催眠術にかかったように、この男の言う事をすんなり受け入れている。

 もう疲れた。抗うことに……。


 何とか起き上がろうと右へ寝返りを打つと、太ももに痛みを感じた。なんだ? とポケットの中を探ると、真一の制服のボタンを1個入れたことを思い出した。ボタンの足の突起が刺さったのだ。もう一度仰向けになる。右手でそれをぐっと握り目を閉じた。 



―――真一、俺やっぱ死神になるわ―――




 よろよろと上体を起こし、涙と洟でぐしゃぐしゃの顔ですがるように自分を見上げる息子に、シズィータはそっと手を差し伸べた。直哉はその手へ向かって、自分の左手を震えながら伸ばした。



――――――



 シェトが正と負の石田をようやく同じ空間に戻し、横たわって動けない母親をここから出そうと抱きかかえる。弟の方にも早く加勢しなければ……。

 母親の腕を肩に回し、立ち上がらせて引きずるように歩く。こちらに向かうときはあんなに遠かったのに、戻るのは近く感じた。弟と死神の姿が大きく見えるにつれ、2人は静止しているのがわかった。よくよく目を凝らす。


「!?」

 シズィータの首と背中から不自然な突起が見えた。そしてずる、ずると前のめりに倒れ膝をつくような格好になった。その下には床に座り込んだ弟が棒を持っている……あいつの大鎌の逆端だ。しかも血の一滴も出ていない……まさか!

「オイ! お前何やって……」

「来ないで!」

 シェトの声を遮って拒絶した。

「おまえっ、お……その力使ったら……」

「もういいんだよ! もう……いい……終わろう……」


 シェトの腕の力と膝の力が一気に抜け、母親がずるずる自分の肩から落ちて行く。

「くそ……くそ! くっそぉおお!」

 シェトがありったけの声で悪態を叫ぶ。自分が弟を死神にしてしまった。自分に腹が立った。こっちに構わず弟に加勢してあいつを潰すべきだったんだ! 震える膝で必死で駆け寄る。

 


 直哉の握る柄の中央に宝石のような石がある。普段はほぼ黒に近い赤をしているくせに、それがどんどん強く鮮やかな赤に光っている。あの光は「生命力」だ。相手から抜き出して溜めている証拠だ。

「ヤメロ! やめてくれ! 頼むから!」

 あまりの焦りに足をもつれさせ駆け寄るが、もう間に合わなかった。もう息の無いシズィータを寝かせると、直哉はその三叉の槍先を、ぐっと引き抜いた。堰を切ったように血が溢れてくる。シズィータは目を見開いたまま、自身の血の海に浸っていく。



「なんで……どうして裏切った!」

 怒りと悔しさと後悔で、こぶしを震えるほど握り、シェトが聞く。聞くというより責めるといった口調だ。

「お前を悪魔にしないように、どれだけの奴がお前を支えてきたかわかってんのか! 杉村真一もそうだ、不老不死の女もだ! 宿舎や学校の人間たちもそうだ! お前はすべてを裏切ったんだぞ!」

 直哉は何も言わずうなだれてただ泣いていた。

「俺は……俺はお前を連れ戻すために来たんだ! 始末しに来たんじゃねぇ!」

 足を踏み鳴らす。しんと静まり返る空間。直哉のすすり泣きと、シェトの浅く速い呼吸だけが響く。

 シェトはじっと直哉を見つめた。何か言ってくれ、なんでそんなことをしたのか。



 長い沈黙のあと、ようやく直哉が口を開いた。

「……俺の始末は俺がする。ごめん……手柄になってあげられなくて……でもシェトの経歴には、傷はつけないから」

 シェトは眉間にぐっとしわを深く寄せて見下ろす。

「けい……経歴だぁ!? そうじゃない! そんなものどうでもいいんだよ! 俺はただ、お前をあっちに連れ帰りたかっただけだ! なんで、いつも、おまえは、ひとりで、なんでも……」

 本心を漏らした。同時に涙も一気にあふれた。願っていたことは何1つ叶わなかった。少しでも自分を頼ってくれていたら。いや、頼らせないようにしてしまったのは自分か……。

 こんな状況になってまで、こいつは俺の先を心配している。不憫で、とんでもない馬鹿なお人よしだと思った。自分より他人の方が大事なのか……。



「シェト、お願い」

「……」

 歯を食いしばって泣くのをこらえながら、直哉の話を聞く。

「俺からの最後のお願い。みんなを元に戻したい。それが終わるまで待って」

 断りたかった。これ以上弟が悪魔の業を行うなんて、絶対に止めなければいけない。自分の使命として。

「だめだ……」

「お願い!」

 一瞬びくりとするくらい、甲高い声がシェトの耳を鋭く刺す。

「お願いだから……」

 床にへたり込んだまま、直哉が頭を下げた。肩が震えている。泣きながら何度も、お願い、お願いと繰り返す。

「背中も刺されて、体中ボコボコで……これ以上動いたら危ないんだ、せめて止血だけ」

「そんな時間ないんだ。早くここを出なきゃ」

 よろよろと立ち上がる。何を言っても聞かない。強情な奴だ。こんなところで強情にならなくたっていいのに。

「オイ待て、こいつどうにかしないと」

 大きくため息をつく。シズィータの服の襟元を掴むと、ずりずりとわずかに開いたドアへ向かって引きずっていく。

 直哉の方は途中でへたり込む母親の元へと歩き出した。


 


 加奈子は立てずに泣きじゃくっていた。なぜだろう、なんだかふっと冷静な自分に戻ったのを感じていた。

「おばさん」

 直哉が近づいてきた。呻くような声をあげて後ろに下がる。きっと仕返しされる……。

「何もしません。早くここから出ましょう」

 思いもよらない言葉に、加奈子はますます顔をゆがめて泣き出した。そして、床に手を突き臥せって

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

と繰り返し口にした。契約者がいなくなったことで、心の束縛が外れたのだろう。彼との契約は破棄されたことになったはずだ。そして自分のしたことを思い返すことができるように、洗脳が解けたとか我に返ったという感覚か。それが確認できただけでも直哉はどこか安堵した。

 これから先、悪路になった人生の路を舗装しなおすには、彼女にはもう少し時間も労力もかかるかもしれない。だけど無事でいたのならそれでいい。きっと歩ける道に直せるはずだ。


「石田」

 奥でへたり込んでいる負と立ってこちらを見る正に向かって、直哉は声をかけた。

「待ってて」

 2人はこちらをじっと見つめた。何か言いたそうだったが、ここから去るのを惜しむような眼をしていた。

 母親を立たせると、大鎌を杖代わりにゆっくりと出口へ向かっていった。

「藤沢!」

 声が後ろから追ってきた。きっと正の石田だろう。

「俺は、お前にも、杉村にも、みんなにもひどいことした。謝っても許してもらえないのわかってる! でも……でも……あ……」

 言いよどむ彼の言葉の続きを、ゆっくり振り向きながら待つ。

「……俺のこと見捨てないで!」

 石田は意を決して自分の今の本心を吐き出した。虫のいい話だとは自分で痛いほど理解している。

 彼の親友を奪い、家族ともいえる園のスタッフを傷つけた。

 自分の父親も兄も出て行ってしまった。

 すべて自分と、母親の弱さや妬みから始まったこと。



 でももう、こんな事態になってしまったら直哉にしかすがる者がいないのだ。彼が最後の頼みの綱なのだ。

 直哉は自分も痛々しい姿になりながら笑顔を見せてくれた。笑顔を見た瞬間、みぞおちのあたりが勝手に収縮するような痛みが走る。胸が締め付けられるとはこのことか。涙が出そうだ。でも泣いたら言葉を発せない。伝えなきゃだめだ、黙ってちゃだめだ!

「ごめん、ごめんなさい! 悪かったよ! お願い助けて! みんなのことも助けて!」

 必死で声を押し出した。どんな謝罪の言葉を並べようと、何の埋め合わせにならないのも承知のうえで、彼がドアから出ていくまで謝り続け、哀願した。

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