第152話 11月25日 目覚め

 加奈子は息子に触れられるようになってから言葉をかけることを絶やさない。

 顔の包帯も取れてきて、絆創膏やシップに変わって素顔が少しずつ見えるようになってきた。それだけでも母親にとっては嬉しいことだった。体に触れるだけで自分の力を分けてあげられているような気にさえなった。

 今朝も1瓶ドリンクを飲んできた。きっとこれが飲み終わる頃この子は回復するに違いない。そんな根拠のない確信が芽生えてくる。

 暖かい日差しがカーテン越しにそそぐ。うとうとと眠気が襲ってきて、加奈子はベッドのはしに腕を枕代わりにしてうずくまった。

 




「もとに……戻りたい……戻してよ」

「!!」

 加奈子がびくっと体を弾ませて跳び起きた。声がした。間違いない、息子の声だ。ふと顔を見るが、呼吸器で覆われていて目は閉じたまま。気のせいか……。

 いや、でもきっとこれは彼の心の声に違いない。やはり元の体に戻りたがっているんだ。人の息子をこんな体にして……相手を絶対に許せない……。

 指先に心拍をはかるセンサーのついた左手を、そっと握る。もしかして気づいて握り返してくれるのではないか。しかしどれだけ握っていても、その指は最後まで動くことはなかった。


 自身の体力が弱まっていることもあり、また少しすると眠くなってきた。手を握ったまま、再び浅い眠りに落ちていく。夢なのか現実なのかわからないが声がする。

「お母さんの生命力はすごいですね。愛情と言った方がいいのかな。自分の寿命を分けるなんて、やっぱり流石親子ですよ」

 医者のような看護師のような人物が脇に立っていて、息子の点滴袋を付け替えた。

「これで元気な体に戻れますよ。もう大丈夫」

 顔はよくわからなかったが、加奈子は必死でありがとうございますを繰り返した。これで助かる。翔は元の体に戻れるのだ。光るい明が見えた。



「ん……」

 まぶしさに目を開ける。なぜか窓のブラインドが開いており、直射日光が差し込んでいた。明るく見えたのはそのせいだったのか……いや、でも今医者が来たし……あれ、夢だったの?

 しばらく混乱して考え込んでいた。点滴袋を見たが、中身はかなり減っていた。さっき変えてくれたばかりのはずなのに……。寿命を分けたとか言ってたけど、どうやったんだっけ?

……ああ、夢だったのかと理解し、落胆したのは少し時間が経ってからだった。

 


 

 貰ったドリンクは全部飲み切ってしまった。売店に売っていないかと一旦部屋を出た。残念ながら病院内には売られていなかった。仕方なく何も買わずに戻ることにした。

 

 階のエレベーターの扉が開く。遠目から見て、なんだか息子の部屋を出入りする看護師の様子が慌ただしかった。何かが息子の身に起きたのだろうか? 思わず足早になる。

「あ、お母さん! 意識戻りましたよ!」

「ええっ!」

 離れた場所から看護師が加奈子の姿を見て声をかけてくれた。小走りで病室へ向かう。

「翔! 翔!」

 荷物も放り出して駆け寄った。確かに彼はうっすら左目を開けていた。まだ呼吸器は外せないようだったが、確かに2度ほど瞬きした。

 一気に体の力が抜け、言葉にならない声で嬉しさのあまり泣きわめく。知らせを受けて、会社や学校が終わるとすぐ義勝や大地が駆けつけた。ベッド脇に立って手を握り、口々に良かった、良かったと涙を流した。

 意識が戻っても何も話せないし動けないのは同じだった。でもこちらを見てくれる。それだけで救われたような気持ちになった。


 夜になって、兄の大地が泊の家に電話して意識が戻ったことを伝えてくれた。泊は1人ガッツポーズをし、まず仲間内に吉報を入れた。そして風の子園に電話し、真一に事態を伝えた。

「ほんとに!? 意識戻ったの!?」

「ホントホント! 今お兄さんが電話くれたんだよ直接。だから絶対間違いない。でもまだ喋れないって。目を開けただけだって。それでも良かったよ、ほんと良かったよ」

 真一も大きく安堵した。生きていてくれていただけで嬉しかった。優二や美穂にも真っ先に伝えた。

 電話している最中も、泊のスマートフォンには友達から次々と回復を喜ぶメッセージが入ってきていた。その日のうちに学年の半分はこのことを知ることになった。

 浜口にも時間をおいて伝わった。聞いたときは大泣きしたという。彼の回復はもちろんだが、殺人犯にならずに済んだ、という安堵もあった。

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