ボーカルはあの子⑦

「なあ、水樹。ロックって氷を使って演奏したりするのか?」

 水樹は苦笑し、「父さん氷は使わないよ。ボーカルがいて、ギター、ベース、ドラムという楽器を使った激しい音楽だよ。父さんが好きな歌謡曲とは違うかもね。ねえ。父さん、ちょっと来て」

 水樹は父をパソコンの前に座らせた。目的のサイトにアクセスし、音楽と動画が流れた。

「もしかして、歌ってるの聡か」

 父は目を丸くし前のめりになって画面を覗き込んだ。

「結構、人気あるみたいよ。小さい事務所にも所属しているみたい」

 水樹の言葉を聞いて、父はしばし無言になった。

 が、数秒後。「いい歌声じゃねえか」とつぶやくように言った。

 それから父は、毎日のように聡の歌声を聞き、目を輝かせている光景を水樹は遠目から見た。

 ある日、父は珍しく出かけるようだった。

「どこへ行くの?」

 水樹は訊いた。

「ちょっと、知り合いのところへ」と父は逃げるように家を出た。

 数時間後に戻ってきた帰宅した父は、疲れたのか炬燵の中で眠っていた。その寝顔は笑っているように見えた。水樹は父が眠りながら抱いているものが気になった。それをゆっくり父の胸元から引き抜いた。それは聡のバンドのパンフレットやレイヤーだった。

 そう、父は聡のライブを観にいったのだ。高齢の彼がライブ会場で騒ぐのはさぞ疲れたことだろう、と水樹は思う。

 父が入院する少し前に「水樹、アトリエ少し使ってもいいか」と言った。水樹は頷いた。父は時計を制作するのは上手だが、絵はお世辞にも上手くない。しかし、一生懸命描いていた。ときには水樹にアドバイスを求めてくる日もあり、手伝うときもあった。

「水樹。ロックっていいな」

 父は絵を描きながら言った。

「聡はどうだった?父さん行ったんでしょライブ?」水樹は訊いた。少し父はバツの悪意表情をし、照れながら、「いい面してたよ」と言った。

 絵が完成し、「あいつには小さい頃から時計作らせてばっかで、他のこと一切やらせてやれなくて申し訳ないことしたなあ。俺が間違ってたのかな」とぼそっと言った。既に体調を崩していた父は頬がやつれていた。

「そんなことないんじゃない。時計を作る過程も音楽を作る過程も一緒よ」水樹は言い、「だって刻むじゃない、音を。そしてそれが人々に届く。聡は父さんの影響を受けてると思うよ」

「そうか」と父は半信半疑なのかどこか煮え切らない表情をした。

 病室のベッドで横たわる父から水樹は小箱をプレゼントされた。

 それを今、水樹は個展会場で身につけている。


 聡は水樹の言葉に、いや父の言葉を代弁している言葉に溢れる涙が止められなかった。ライブ会場に来ていたのか、言ってくれればいいのに、顔を見せてくれればいいのに、もどかしい気持ちが彼の身体を駆け巡る。

「亡くなる直前に父は言いました。〝挑戦することに意義がある。真剣に挑戦することに意義がある。失敗してもいい。限界を知るのも挑戦したからだ〟と言いました。その男性に刺激され、父は絵を描いたのだと思います。自分が知らない分野、新しい価値観に触れることで、その男性を理解しようとしたのだと思います」

 水樹の発する言葉に前方の赤いドレスを着た母の肩が上下に揺れ、すすり泣きが聡にも聞こえた。さらにはアリの軍勢と化していた人々もハンカチを取出し、涙を拭う場面が見受けられた。

「ここで今日は私にとっても特別な日であり、その男性にとっても特別な日でもあります。ここで一曲歌ってもらいましょう。ではお願いします」

 その水樹の言葉にアコースティックギターを持ち、スーツを着た一人の男性が立ち上がった。水樹が今まさに喋っていた場所まで行き、いつ用意されたのかわからない椅子に座った。

 聡は震えた。身震いと言っていいかもしれない。そえは紛れもなく洋一だった。トレードマークの長髪はバッサリとカットされ、爽やかな短髪で成功者の雰囲気を醸し出している。そして、聞き覚えのあるイントロが流れた。

 ビートルズの『ヒア・カムズ・ザ・サン』、だ。

「聡、ボーカルは、あなたよ」

 と左手を前に出し水樹は聡に指を突きつけた。さらに驚いたことに彼女の左手首に、聡が高校の時に制作した小ぶりな腕時計が嵌められていた。

 聡は、柔らかい拍手に後押しされるかのように前方に歩みを進めた。

 長かった冬に別れ告げ、春を歓迎する心境だった。

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