第92話「井澤④」

 井澤に平野という親戚はいない。親戚で『恵』と名前のつく女性もいなかった。ただ、どこかで見た名前だ。『平野・・・・?恵・・・・?』誰だろう。包みを開けながら思い出そうとする。最近、年を取ったせいか人の名前が思い出せなくなっている。


 包みを開けた中からは、フランスの万年筆メーカーのウォーターマンのパッケージと封筒が出てきた。封筒は満水ハウスの印字がされている。


『平野恵って、まさか新会長か!』井澤は一瞬動きが止まったが、焦りが沸き上がってきた。


『何で?何だ?』近くにペーパーナイフのようなものもなく、手でちぎるように封筒を開けるとA4の紙が一枚出てきた。


『井澤様』そう始まる文書がそこにあった。


 井澤は急いで老眼鏡をかけた。四十代半ばで老眼が始まり、今は老眼鏡を使わなければ文字が読みにくい。


 そこに書かれていたのは平野からのメッセージだ。


『この度は本当に大変だったと思います。悔しい思いも、辛い思いもしたことでしょう。』そう最初に書かれていた。


『真中常務がお辞めになられたことは、私に力が足りず申し訳なかったと思います。貴殿におかれても自分の処遇がどのようになっていくのか不安に思っていることでしょう。私は会社のトップであるのみならず個人でもあります。この文書は平野という個人として井澤さん個人に送るものです。』自然と読んでいる井澤の手が震えていた。これは平野個人の手紙だ。一介の担当部長に向けた文書なのだ。


『会社のトップとして、今回の詐欺事件における処分はなされなければなりません。それは組織である以上、仕方のないことです。しかし、この処分によって、あなたのような優秀な人材が満水ハウスから去ってしまうようなことを私は避けたいと考えています。』文字がにじんできた。井澤は自分が涙ぐんでいることに気づいた。


『井澤さん。申し訳ないのですが、しばらく地方に転勤してください。しかし、必ずあなたを東京に呼び戻します。この文書は恐らく何の足しにもならないでしょう。会社として正式に決定している訳ではありません。これは単なる個人と個人の約束だと思ってください。あなたの活躍は真中さんから聞いていました。何とか今回は我慢してください。』平野の素直な気持ちがここには綴られている。


『井澤さんは責任を取って満水ハウスをお辞めになろうとしているかもしれません。また、もしかしたら不動産業界から遠ざかろうとしているかもしれません。もう契約をすることが嫌になっているかもしれません。』井澤の心の中を見通したような言葉だった。


『心ばかりですが、貴殿がもう一度、契約に臨めることを願ってボールペンを送ります。いつもウォーターマンを愛用していると聞きました。どうか宜しければお使いください。個人としての気持ちです。平野恵』


 暫く井澤は呆然と手紙を握りしめていた。自分に平野が手紙を送ってきたのだ。あり得ないことだった。平野とは個人的な付き合いはない。仕事上でも口をきいたのは数回だろう。それでも見ていてくれたのだ。


 涙で視界が効かない中で、井澤はウォーターマンの包みを開けた。


 そこにはシルバーに輝くボールペンがあった。


 自分は間違いなく定年を迎えるまで満水ハウスにいるのだろう。そう、井澤は実感した。満水ハウスこそが我が家だ。「家に帰れば満水ハウス。」テレビCMの歌を口ずさみながら、井澤は静かに泣いた。妻や娘に聞かれないように。


(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る