交わす言葉もなく結ぶ約束もなく(アオイ)

歩く速度も、街を観察する彩りも、行き交う人々の表情も、一人でいるときに感じ得ない景色なんだな、とアオイは試着室で待つ。女というのは何着試着すれば気がすむのだろう。井上ユミが試着を開始して既に一時間は経過しようとしていた。これも違う、あれも違う、さらに違う、と小言を繰り返し、店内を右往左往し、店員を困らせる無理難題を押しつけ、自分勝手な振る舞いが目に付いたが、アオイには天真爛漫で新鮮なものだった。

「ファンキーな彼女ですね」

 女性店員は言葉をオブラートに包みながらいってるというのが表情から伝わってきた。眉がピクピクし、口元はこわばっていた。

「彼女じゃないんです。知り合いです」

 アオイはいった。

「はたから見ると知り合いには見えないですよ。美男美女でお似合いです。ファンキーですよね彼女さん」

 店員はファンキーを言いたいだけではないかと思ったが、彼女の口癖だということに気づいた。他のお客さんにも、「ファンキーですね」と言っているのが聞こえたからだ。お決まりのセールストークということだろう。

「ねえ、アオイ」

 試着室のカーテンの隙間から顔を出した井上ユミはアオイにいった。

「どうした?」

「めんどくさくなったから、全部買うわ」

 なるほど、そう結論たか。なら最初から購入すればいいものを。

「もしかして、今」

「あっ、まさか想像してたでしょ」

 井上ユミは顔を赤らめた。

 試着室のカーテンはシルエット化していたが、どうにもこうにも胸の膨らみと突起部分が写っていた。下半身が微妙に反応してしまったことをアオイはひた隠す。閉じていた両足をより強く閉める。

 考えるな、考えるな、想像するな、想像するな、と思っても、下半身が膨張しただすから脳内の反応というのは恐ろしい。

「想像はしていないから、早く着替えてくれ」

「想像してたんでしょ。想像してた、と返答したら着替えよう」

 ああ、なんて女というのはめんどくさく儚い生き物なのだろう、「想像してた」とアオイはいった。

「この変態」

 試着室に備え付けてあったボックスが飛んできた。いたっ、と彼は声をあげた。

 アオイは想像を停止しようと、心に決めた。

 


 井上ユミは購入したものを郵送というテクニックにを使いショップに入る前に着ていた服も含めアオイの自宅に送った。井上ユミはグレーのワンピースを着ていた。「動きやすいから」という理由らしいが、スタイルが強調され逆にアオイの方が動きづらい。

「公園に行こう」

「公園?なんでまた」

 アオイは言った。

 信号が赤に変わる。

「だってお花見シーズンでしょ」

 ああ、とアオイは納得した。

「オフの日ってピアノに触れないの?」

「触れる日もあれば触れない日もある」

「曖昧だね」

「あくせく働くのって好きじゃないのよ。一瞬なの、私って」

「一瞬?」

 アオイは訊いた。

 信号が青に変わった。

「その場、その場を楽しみたいのよ。一撃必殺って感じで」

「今時、そんな必殺仕事人みたいな人はいないでしょ」

「いるよ、ここに」

 井上ユミは信号が赤でもないのに立ち止まった。

 まただ、この表情。

 アオイは井上ユミを観察した。

 朝もそう昨日もそう。なにかを訴えかける表情がそこにはあった。それは井上ユミの内なる内に入り込まなければわからないことだし、有名人たるものの宿命なのかもしれない。

 横断歩道では、なんであいつら見つめ合ってんだ、という声が聞こえ、さらには、あの女の人見たことあるんだけど、という声まで響いた。さすがのアオイも、さあ行こうと井上ユミの手を取り横断歩道を渡った。

「なんでいきなり横断歩道の真ん中で止まるかな」

「手を握られたのって久しぶり」

 井上ユミの表情はタンポポの綿毛のように柔らかかった。着ているワンピースと統制がとれていて晴れやかな景色に溶け込んでいた。

 なので、横断歩道で止まろうが、たとえ車が往来しようがどうでもよくなった。アオイは仕方なく、井上ユミの手を握るではなく、繋いだ。

 そして、二人は走った。

 ああ、焼き鳥食べたい、という井上ユミの声を無視して走った。

 他の通行人も、なんで走ってるんだ、とか、さっき横断歩道で止まってなかったか、とか、瞬間移動カップル、というなんとも興味深い言葉がアオイの耳に届いた。

「ねえ、走るって気持ちいいね」

 井上ユミは息を切らせながらいった。

「気候のせいもあるだろう」

 今日の気温は二十度届くか届かないかの絶妙な位置取りだった。走れば当然ながら汗ばむし、歩けば喉が乾く。なので、飲料水のCMのように二人同時のタイミングでペットボトルに口をつけた。ふふあーと同時に息を吐き、口元を拭った。

 アオイは走った甲斐があった。井上ユミの肩を叩き、

「目の前を見てよ」

 といった。

 うわお、と井上ユミは驚嘆の声をあげた。

 目の前には満開の桜が咲いていた。

「桜のドームだね」

「適切な表現だね」

「一応、アーティストだからね」

「一応、はいらなくないか」

「アオイ、細かい男は嫌われるぞ」

「嫌われて生きてきたからね、今更、そんなことを俺に言われても屁でもない」

「嫌われて生きてきて楽しいの?」

「それは自分の思い込みであり、案外、他人は人をあまり気にしない。そういうものだろう」

「アオイは冷めてるな」

 それは一瞬だった。

 アオイの左頬に井上ユミは左手を添えて唇を重ね合わせた。唇が離れ二人は見つめ合う。井上ユミの顔が目の前にあり彼女の顔は小さかった。二人の間に、桜の花びらが落ちたが、感慨に耽る間もなく、沈黙する間もなく、アオイはこう言っていた。

「これこそ久しぶりだ」

「愛情は栄養。アオイに足りないものかもしれないね」

 井上ユミは効果的に首を傾け、にこりとした。今度は井上ユミがアオイの手をとり、つなぎ合わせ、「さあ、行こう」と促した。

 アオイは頭の中に空白が生じた。

 あれはキスだよな、と。

 再確認。 

 検証。

 仮設段階と準備。

 検証。

 反芻。

 頭に流れてくる言葉に一貫性がなかった。

 現状を受け入れろ、と自分を鼓舞する。

 どんな女と唇を重ね合わせるよりも、満たされた気持ちになるのはなぜだろう。やはり井上ユミだからだろうか。昨日まで遠い存在であり、雲の上の存在だった人物が、アオイの家に泊まり、アオイの横にいて手を繋ぎ、アオイの唇に触れた。

 これは夢だろうか。

 頬をつねり、捻った。

 目の前に桜が広がり、光景は一緒だ。

 夢ではなく現実。

 隣を見た。井上ユミがいた。

「屋台があるね。お酒も買って、お花見だね」

 井上ユミは屋台を指差した。

 屋台の種類は多かった。お好み焼き、たこ焼き、焼きそば、あんず飴等。種類は雑多にあり周囲は賑わっていた。桜の花びらがそよ風にのって風景に彩りを与えていた。

 人の笑い声、手を繋ぐカップル、家族の団欒、友人や仕事仲間の微笑み、久しく滅多に触れることのない光景が目の前に広がっていた。空は澄み渡り、小鳥が三羽飛んでいた。円を描いて。家族かもしれない。

 アオイにも家族はいた。父親は研究者でありドラム演奏者だった。母親はサックス奏者だった。父親は研究者然としていなく常にシャツとジーンズというラフないでたちだった。

「白衣?俺は科学者じゃない。ドラマーだ」

 父親の口癖だった。

 母親は豪快な父親とは対照的で清楚で凛とした佇まいが印象的な人だった。白いシャツがよく似合いタイトなネイビーのスカートでサックス演奏する姿にはいつもの母親とは違う情熱が宿っていた。

 父親はドラマーとしての夢は叶わず、母親は無名であったがサックス奏者として活動していた。両親の出会いは大学時代のジャズクラブで意気投合し、「二人の波長は目が合った瞬間にわかった」と父親はいっていた。それに対して母親は、「ドラムとサックスは相性がいいの。ただそれだけよ」と冷静かつ穏やかに切り返し。なぜか父親は顔を赤らめ照れていた。父親はアオイの耳元で、「お前も思春期なら何わかる。波長=体=音楽 この方程式は崩すな」といった。アオイにもなんとなくわかる。だけど、女性経験はなかった。悶々とした日々を過ごしていた気がする。

 平和な日常と平和な家族の風景は、ずっと続くとおもっていた。今でも思い出すと、頭が痛い。そう、あの日だ。深く封じ込めた戒めの記憶は浮上する度に痛みを伴う。

 大雨だった。傘は役に立たず、靴は機能しないぐらいびしょ濡れだった。風も数時間後には猛威をふるい、この世界や時間すら超越するのではないか、と当時のアオイは思った。 

 アオイは玄関を開けた。すぐに靴下を脱ぎ、靴は散乱していた。異変はあった。普段はアオイが帰宅する際に両親はいない。しかし、両親の靴はあった。散乱していた。リビングからはテレビの音がし、父親の部屋からはメトロノームの音がした。

 テンポ100

 アオイの鼓動の音とテンポがリンクしていた。胸騒ぎだ。彼は両親を呼んだ。反応がなかった。

 テレビの音。

 テンポ100

 二つの奇妙な音と音が混ざり合い、奇妙な雰囲気が家の中にあった。リビング外にはルームスリッパが片方だけ置いてあった。几帳面な母親の性格では到底考えられない。彼はスリッパを拾い、明かりが漏れるリビングを覗いた。そして、彼はリビングを覗き、それ以上入ることを拒んだ。意図的ではなく無意識的に。体が硬直しているのかもしれない。体は硬直し鼓動は早鐘を打っていた。

 彼はかっと目を見開いた母親と目が合った。口はぽっかりと開き、ソファーに背もたれに顔をのせてうつ伏せの状態に合っている。

「お母さん・・・・・・」

 アオイは微かな声でいった気がする。正確には声にならない声で。母親からの応答はなかった。彼は後ずさりスリッパを落とした。ピタンという音にも母親の瞼は下りなかった。

 彼は足に力が入らず壁伝いに手を這わせ、メトロノームの音が聞こえる父親の部屋に向かった。目の前の視界がぼやけ、足は雨の水分を含み床にピチャピチャと音を立てた。メトロノームはテンポ100を崩さず、世界観が構築されていた。父親の部屋に行きさえすれば何もかも夢で全てが解決するのではないかと思った。一歩、一歩と踏みしめる足は冷たく、家全体を物語っているようだった。

 父親の部屋は閉まっていた。固く閉ざされていた。メトロノームは寸分迷いもなく漏れ聞こえた。

 アオイはドアノブを捻った。いつもならドアには鍵がかかっているのだが簡単に開いた。

 父親は椅子に座り、ぐったりと首を垂れて彼の方を向いていた。パソコンのブルーライトの光が明滅した。メトロノームは針をテンポ100を維持しつつ左右に振っていた。からくり屋敷みたいな光景にアオイは言葉を失った。全てが作り物めいて見えた。が、見えているものは現実であり純然たる事実がその場にはあった。

「父さん。どうしたんだよ。何があったんだよ」

 アオイの言葉に父親は反応を示さなかった。

 いつ警察が来たのかはわからない。たくさんの腕章を巻いた大人がアオイの部屋に上がりこんだ。ある者は大声で、ある者は事務的に、ある者は感情的に指示を飛ばしていた。

「大丈夫だから」

 女性警察官はいった。慌てていたのだろう。ほぼすっぴんの状態だった。病的であり、寝不足が表情に出ていた。そんな人に、大丈夫、といわれて説得力はないと思ったがアオイは、ただ頷いた。

「殺人だな」

 警察官の一人がいった。

 薬物と絞殺、この二つの単語がアオイの頭の中にこだました。

 結局、未だに犯人は捕まっっていない。

 事件の全貌は明らかにはされてはいない。

 が、父親には多額の資金が口座に振り込まれていた。

 それは、父親の研究していた分野が評価された証拠といっていたが、その研究データは盗まれていた。

 事件の動機の一種とされているが、犯人が捕まっていない以上、曖昧なままだった。

 悲しいかな、事件の起こった次の日は、雲ひとつない晴天だった。眩しさに目をつむってしまうほどに。

 そう、今日のように。

「アオイ!アオイ!アオイ!」

 肩を揺すられ髪をひっぱられ臀部に衝撃が走ったアオイは右を見た。

 ああ、そうだ。今は井上ユミといるんだっけ、と首を傾げた。

「そういえば呼んだ?」

 アオイはいった。

「呼んだもなにも涙を流してうわ言いってたんだから。本当に心配したのよ」

 井上ユミはビニール袋を手に持っていた。今にも、食べよ、と言いそうだ。

「記憶が浮上してきたんだ」

 アオイの言葉には、井上ユミはキョトンとし、どこか寂しげな表情を見せた。が、次の行動は彼にとって予想外だった。

「そっか。ごめんなさい。私のせいで」

 井上ユミはアオイを抱きしめた。適度な力と適度な抱擁で。

「い、いや、違うんだ。別にユミのせいではない」

「いいの。気にしないで。抱きしめたいときがあるのよ女って」

 真昼間からの抱擁は周囲の視線を占領した。「いっちまえ」「どうするんだ」「やるのか」という外野の声が聞こえるがアオイは井上ユミの豊満なバストの感触に夢見心地な気分だった。

「心が落ち着く」

 アオイはいった。

「何せ私が抱いてるからね。あわよくばここでキスまで持っていこうと企んでるんじゃないわよね。お節介なことをいうようだけど、まあ、つまりは忠告なんだけど、私の唇は高いわよ」

「そこまで言われてキスをしたいと思わなくなったよ。たとえ思ってたとしても」

「数パーセントは思った?」

「パーセンテージじゃ表せないよ」

「回答になってないわね」

「言葉ではなく頭で考える人間だからね」

「理屈より感情を大事にした方がいいんじゃない」

「人間性はそう変わらないよ」

「気づいたことがあるの」

「なにを?」

「たこ焼きが冷めちゃう」

 井上ユミはいった。とても澄み切った声だった。寝起きに飲む冷たい水のように。


 運良くベンチが空いていた。奇跡ね、と井上ユミはいったが、鳥のフンがあったがために座ることが拒否されたんだ、とアオイは説明した。

「それでも奇跡には変わりない」

 と井上ユミはいって聞かない。

 鳥のフンという災厄と大厄を任せられたのはアオイであった。鳥のフンは乾いていたが、その上に座るというのは貴重な体験であり、体験したくないという思いが交錯した。

「楽しんでお花見できそうにないな」

「慣れれば大丈夫よ。尻元過ぎればフン忘れる、て感じで」

「全然笑えない」

「笑わそうとしていないもん。事実をいっただけ。事実は変わらないわ」

「真実は複数ある。だけど事実は一つだけ」

「ここで名言でました」

 ベンチの目の前は湖だった。湖から白鳥が飛びだし水面が波打った。波紋が広がり、そして収束した。

「父親の言葉だけどね」

「思い出す?」

「ふとした瞬間に、点と点が合わさるとね」

「それが記憶。記憶は簡単には失われないわ」

「深いね」

 井上ユミはたこ焼きを一つ食べた。満足そうだった。さらに一つ。むせたようだ。アオイにも勧めてきたが食欲はなかった。

「ドラムは叩かないの?」

「考えに息詰まったら叩くよ」

「演奏を聴きたいわ」

「プロの前ではアマチュア以下だよ」

「アマチュアより下があるんだ」

「乳牛にランク付けがあるように。上下の優劣はつけなければいけないからね」

「難しい世の中ね」

 井上ユミは缶ビールのプルタブを捻った。プシューと泡が漏れた。アオイもビールは飲みたかった。察したように井上ユミはアオイに一缶手渡した。

 ビールは青空で飲むのが一番、アオイは空を見上げ思った。酔いも早く、太陽の下は心地よかった。心地よさに目を閉じ、空気の音を聞いた。風が鳴り、湖の息吹が聞こえた。

 ドラムの音も。

 どこかで演奏しているのだろうか。

 アオイは耳を澄ました。

 井上ユミの声が聞こえた。

「あ、ジャズじゃん。それもスタンダード中のスタンダードナンバー」

「『枯葉』か」

「知ってるねえ」

 井上ユミは破顔した。

「夜に聞くよ」

「ジャズは夜に聞くのがいいわ。気分に浸れる」

「だね。この場には合ってないね」

 アオイは音の聞こえる方に振り向いた。たしかに人だかりができていた。

「この曲を演奏したい気持ちもわかる」

「なんで?」

「心が枯れてるからよ。枯れてるからこそ咲かせようと思って集まり耳を傾ける」

 その時の井上ユミの表情は物憂げで壊れそうなぐらい寂しげな表情を一瞬だけ見せた。

 そう、一瞬、

 すぐさま立ち上がり井上ユミはアオイの手を取った。ゴミはしっかりとゴミ箱に投げ捨てて。

「おい、どこに行くんだよ」

「決まってるでしょ。演奏するのよ」

 先導する井上ユミは満開の笑みを見せた。

「君はプロなんだよ。そんなことしたら駄目だろ」

「演奏したいのよ。体が疼くの。アオイは演奏したくないの」

 彼は何もいわず時に身を任せた。

 人だかりの中心には、ドラム、サックス、キーボード、ベースというシンプルな編成だった。テクニックはあるがグルーヴがない。いささかまとまりに欠けるバンドだった。

 が、「キーボードとドラムの演奏が悪すぎる。ドラムの音が走ってるし、キーボードはテクがなさすぎるのよ。だからついていけない。サックスとベースは、ぼちぼちね」と井上ユミがいった。

 周囲はざわつき出し、バンドのメンバーはあからさまに敵意むき出しであり不快な表情が滲み出ていた。

「もしかして井上ユミ?」

 キーボードを弾いているこれまた井上ユミと同じ場所にホクロがある女性がいった。

「違うわ。よく似ているとは言われるけど。まあ、指摘は有難いから演奏変わってくれない。井上ユミに似ているだけあって、模倣が得意なの。あと、このメンズをドラムとして起用したいの。いいでしょ」

 井上ユミは堂々といった。アオイは、ふざけんなよ、と毒吐いたが彼女は耳を貸さない。

「大丈夫。怖くないから。今を変えられるのは今よ。体験が基調となる日が来る。忘れてはだめ。感覚を楽しんで。アオイと演奏したい」

 井上ユミの目は真剣だった。なぜそこまで真剣になるかわからないほどに。

 バンドメンバーは、なんなんだよ本当に、と文句を垂れつつも、場の変化を楽しんでいるようだった。場の空気は確かに変わった。好奇心が勝っていた。空気の色は白。何色でも染まりそうなほどに無限の好奇心と可能性が広がっていた。周囲も、ざわついた空気に呼応し、わんさかと人だかりができた。ミニコンサートの様相を呈していた。

 アオイは緊張していた。

 人前で演奏したことないからだ。

 なのでカウントの取り方もイマイチわからないし即席バンドがうまくいくとも思ってはいない。

「曲は『テイクファイブ』がいいわ」

「おお、姉ちゃん知ってるね。にしても井上ユミにそっくりだね」

 サックスを担当している四十代ぐらいの男がいった。ポロシャツはグリーンだった。ところどころゴルフ焼けをしていた。

「即席ほど面白いものはない。ケミストリーは大事。経営に大事なことです」

 自称経営者であり五十代と思しき男がいった。ベース担当。白髪に威厳めいたものを感じさせるものがあった。

「やはりやめませんか」

 アオイはいった。

 ドラムを叩きたくない、叩く、の以前に周囲に見られているのがやりづらい。

「男なら引き受けろ」

 と四十代。

「その通り」

 と五十代。

「大丈夫。怖くないから」

 と井上ユミの励まし。

 各々が持ち場につき後はドラム待ちという雰囲気があった。

 アオイは渋々ドラムスティっくを握り、全体を見渡した。不思議な気分だった。メンバー、周囲を含め、何かを期待している表情だった。

 やってみようか、逃げようか、アオイの脳裏には様々な葛藤が湧きおごったが、井上ユミからの声に、ハッとなった。

「音楽は自由よ。一人ではない。自由」

 アオイは頷いた。昨日出会ったとは思えないぐらい彼女との距離が縮まっている気がした。

 一人ではない。 

 一人だと思っていた。

 一人でいいと思っていた。

 人付き合いは最小限に留めた。

 だけど、

 チッチッチッ

 アオイはカウントをとった。

 ウォーミングアップ忘れたな、と彼は意識的に負の感情が押し寄せたが、一打、二打、叩くごとに歓声が上がった。

 他の音が聞こえない。

 かろうじて井上ユミのキーボード音が聞こえた。キーボードでここまで哀愁的な雰囲気を出す彼女の演奏技術は素晴らしい。音が彼女の技術に応えているのか、技術が音に応えているのか、定かではない。だけど、これだけはいえる。彼女は、やはりプロだ。ベースもサックスも目を見開いていた。サックス奏者が時折、アオイにウインクした。意味はわからなかったが、オーケー、という合図だろう、と彼は勝手に解釈した。

 聴衆は満足いっているのだろうか、むしろ前任者的位置のドラマーはアオイの演奏に満足しているのだろうか。

 考えても仕方ないことを考えているうちに、ドラムソロに突入した。ジャズにはソロパートが設けられているのが常だ。まずは、ドラム。基本ストロークを手早くこなす。シンバル、スネア、タム。ジグザグに叩き、小刻みにストローク回数を増やす。ドラムが安定的というよりは、キーボード音が乱れないから、かとアオイは得心した。

 アオイは井上ユミを見た。グレイト、と彼を見た彼女はいった。自然とアオイの口角は上がり、拍手が湧き起こった。

 汗が流れる。緊張からか張り詰める空気感がそうさせたのか。

 キーボードはピアノを奏でているかのように音に歯切れがあった。全パート音のボリュームを徐々に絞り、演奏は終わり、拍手の轟音が鳴り響いた。

 アオイは気づけばスティックを高く掲げていた。

 青空に掲げたドラムスティっくは天まで届きそうな程、近かった。



「演奏よかったよ」

 井上ユミは夕日に反映されたブラウンの髪を掻き上げた。

 演奏は思いの外、大盛況で、拍手が鳴りやまなかった。バンドメンバーからは、「またやろうな」「デビューできるぞこれは」という賛辞をもらったが、また、はいつくるだろう、と彼は思った。井上ユミはプロであり、今日という日はたまたまオフだ。もう、また、はこないだろう。

 夕日は地平線に沈みかけていた。オレンジから暗色に変わる空の色が、アオイの心情に移り変わると共に、いつまでもオレンジのコントラストを眺めていたいと視線を彼女に向けた。

「あんまり演奏のことは覚えてないんだ。無我夢中だったし、手は震えるし、バスドラが不安定だった印象しか残っていない」

「あのさ。完璧な演奏なんてなりえないよ」

「え?」

 アオイは耳を疑った。プロというのは完璧なものを求めているのではないのか。

「アオイは完璧なものが優れていると思っているでしょ」と井上ユミはアオイを見た。「正解であり不正階。不安定だから面白いの。この先どうなるんだろう、もしかしたら大失敗しちゃうかも。でも、必ず何かが終わる。終わるってことは一つ完成するってことでしょ。それがいい。不安定を楽しむのも勇気なんだよ」

 ミスしてはいけない、という思いは強かった。アオイの中では間違いと失敗は恥であり辱めの一種と心の中で強く感じていた。

 が、井上ユミの考えは違うようだ。どこか力の抜けた音域の幅、弾く姿勢、余裕のある笑み。

 アオイは前を見た。空を見上げた。左を見た。

 井上ユミの微笑みがあった。

「不安定こそ勇気」

「研究だって完璧なものが重要空もしれない。少しだけ余剰があれば、隙間が生まれ、新しい発想が生まれる」

「面白い発想だね」

「だって、音楽は自由よ」

 彼女の口角をくいっと上げる仕草が好きだ。

 アオイの心は洗われた。

 マンション前には宅配業者の車が止まっていた。

「もしかし、もしかして」

 昼間に購入したものが届いたようだ。

「速達かよ」

 アオイはいった。

「迅速な行動も重要よ」

 宅配業者はアオイたちを見て会釈した。宅配業者は二人いた。男二人組。一人はサングラスをかけていた。

 井上ユミの端末が鳴り響いた。

 ちょっとごめん、と彼女は道脇に移動した。

 井上ユミの声が聞こえた。

 わかってます。はい・・・・・・・今日中には。来てます。

 先ほどまでとは違う単調的な井上ユミの声にアオイは胸騒ぎがした。彼女は時折、アオイを見て何かを探るような目つきになり口角だけを上げた。心配ない、そういう表情にも見えたが目元は笑ってはいなかった。どこか影のある陰鬱な目元だった。ブラウンの髪が闇に覆われた空の影響で彼女のシルエットが黒に染まっていった。

「もしかして小沢さん?」

 サングラスを掛けた宅配業者が訊いた。

「そうですが」

「今しがたお荷物をお届けにお伺いしたのですが、お留守のようでしたが、出会えてよかったです」

 出会えて?不思議なことをいう。

「そうですか。じゃあ、引き取ります」

 サングラスをした宅配業者の男が伝票をアオイに手渡した。

 アオイはサインをしサングラスの男に伝票を渡した。

 その後、宅配業者は車に乗り、立ち去った。灰色の煙が消え、もう一度、アオイが車の行った方向を見たときには煙は消えていた。


 井上ユミの荷物は多かった。どこで買ったのか知らないがビール一ダースのケースまであった。井上ユミは、こっち見ないでよ、と言いながら洋服などを整理し、新品のキャリーバッグに詰めていった。一通りに終えると、彼女はシャワーを浴びたい、とバスタブに行き、さっぱりし、バスタオルを髪の毛に巻き、下着の格好のまま早速ビールを一缶飲んだ。

 アオイは下着という格好に目のやり場に困った。

 時刻は午後九時。

 なにかが起こる九時。

 勢いでアオイもビールを一缶飲んだ。その間にも井上ユミはビール缶をどんどん開けていく。彼女の癖でビールを飲み干した後、ビール缶を潰す癖がある。潰した後に言う言葉が、「気持ちいい」だ。この場の状況でその単語を言われると、アオイはなにもいえない。

 考えすぎか、考えすぎだろう。

 下半身の居所が右往左往している。

「ねえ」とソファーにもたれていた井上ユミがアオイの肩にもたれかかってきた。

「なに?」

 アオイはいった。

「こっちを向いて」とアオイの頬に手を添えくいっと彼女に向けた。彼女の顔はナチュラルだった。メイクなし。下着のみ。服を着ろ、とは彼は言わなかった。なぜだろう、言わない方がこの場の雰囲気にはいいと判断した。

「経験に乏しいんだ」

「最後にやったのはいつ?」

「街頭でビラ配りをしていた女性とかな」

 彼女はふっと笑った。

「コスチュームとか着ている女性でしょ」

「そうだね。会社支給のコスチュームを着て、キャンペーン中です。お願いします。てやつだね」

「よく最後までいったわね」

「ほら、容姿はそこそこ優れているから」

「それだけで女性はついていかないわ」

「褒めて、美味しい食事に連れてって、見つめて微笑む。最後に、コーヒーを一緒に飲む。ただそれだけだよ」

「なら十分ね」

 彼女の言葉は合図だった。

 唇と唇は重なり合い、触れ合い、溶け合い、音の共鳴を確認するように絡み合った。目を開け、目を閉じ、互いの頬に触れ合い、身体をを弄り、彼女の胸を荒々しく揉みしだいた。はっと彼女の声は漏れ、漏れた声を聞く度に彼は欲情し、ビールを口移しで飲ませ。彼女の頬は少し赤らんだ。

「いいじゃない」

 彼女は口角を上げた。

 アオイは井上ユミの首筋を攻め、抱きかかえ、ベッドまで連れていった。互いが互いに類人猿だということを思い出すように、獣ように荒々しく野性的に奏で合った。落ち葉のように揺らめく彼女の息遣いを拾うように彼は唇を閉じ舌先で息吹を注ぎ込んだ。

 彼女の内部に侵入したとき無限に広がる雪原の中に差し込む一筋の光のように温かく、熱を一点に凝縮された。

 シーツは乱れ、絡み、肉体は一筋、二筋の汗を滴らせ、息遣いは断続的かつハイテンポになり、すべての欲がこの空間に集まっていた。

 互いの人生の空白を埋めるように時間をかけて愛でた肉体は最後の時を迎え花のような笑顔に変わった。

「ごめんね、アオイ」

 果てたアオイに彼女はこういった。意識は朦朧とし、アオイは頭の機能が働かなかった。わずかな記憶では、井上ユミが紐のようなものを持っていた。いや、電線?いや、ナイロンの束?いや、これはピアノ線?

 と記憶と記憶が合致した刹那、

 アオイの首になにかがまとわりついた。まとわりついたものにアオイは指を這わせた。

 ピアノ線。

 やはり。

 丈夫で頑丈。

 シンプルな説明と解説を昔、母親がしていた。

「こんな形で出会いたくなかった」

 井上ユミは泣いていた。彼女の裸身は仄かに光に照らされ芸術的でもあった。一つの絵画になっていても遜色はない。

「君は一体誰なんだ」

 首にまとわりつくピアノ線に彼女の力が伝わり、アオイは声は出せなかった。アオイは声に出せない声で、口の動きだけで、好きだ、と伝えた。一瞬、ピアノ線が緩んだ気がした。気がしただけだった。意識は無に近しい状態になり、身体の感覚はなくなり、視線だけを井上ユミに合わせた。合わさった目から、彼女の涙が彼の顔に落ちた。落涙は終わることはなかった。いや、終わったかもしれない。

 それすら、わからない。記憶は歪み、ねじ曲げられ、誤訳され、良い記憶しか止めようとしないものだ。

「ごめんなさい」

 アオイは彼女の言葉を聞き、ゆっくりと目を閉じた。

 交わす言葉もなく、結ぶ約束もなく。

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