僕だけが知りすぎたエレベーター
「何かを得るには何かを犠牲にしなければいけないの」
僕は、最低、の、二文字を突きつけられたシルエット女性に言葉を投げかけられた。僕は彼女を知っているような気もするが、顔がモザイクがかっているため、表情がはっきりしない。
「僕は君の顔が見たいんだ」
「でしょうね。でも、心が曇っている人には真実は見えないものよ」
「君のいう等価交換の話だろうか?」
僕は訊いた。が、僕の質問に対して彼女は何も答えなかった。むしろ、答える気すらなかったのかもしれない。
エレベーターを十三階で下りた僕は、絨毯の上を歩いていた。赤と紫が交互に染められた絨毯だった。どこかのホテルのような建物の中にいることが推察できたが、全くもって要領を得ない。たくさんの部屋があり、もちろんたくさんの扉があった。扉にはルームナンバーが印字されていた。数字の場合もあり判別できない文字が印字されているのもあった。僕は無限めいた先の見えない絨毯の上をシルエット女性と歩き、これからどうなるのだろう、と思案した。考えるのは好きだった。
「考え事をしてるときの男の人の横顔が好きなの」
昔、好きだった人に言われた気がする。
「なんで?」
「知的に見えるからよ」
「じゃあ、どうかな」
僕は横顔を向けた。
好きだった人は見ていなかった。見ていたのはもっと先、はるか先だった。僕は眼中に入ってなかった。僕は自宅でいつものようにパソコンを開き、ネットサーフィンをし、思考を研磨し、自分のやるべき勉学に勤しんだ。学ぶことは好きだった。何もかもを忘れることができ、没頭することにより、時間を凌駕することができた。無味に毎日を惰性的に過ごすより、なにかしら一つをやり遂げることに念頭を置いた。先は長く、果てしない旅のようだが、人生とはつまりは道中を楽しむもの、その過程を楽しむものなのではないか、と漠然と僕は思っていた。
思考を妨げるものは常に女性だった。
誘惑に勝てない自分の弱さだろうか。単純に女性と接するのが好きだったのかもしれない。まあ、男は大抵、女性が好きだ。例外はあるかもしれないが、欲求に従うのも下心がないという点では、いいかもしれない。
僕は表情には出さないが、女性と接するのが苦手だ。苦手意識が女性との距離を掴み損ねている要因かもしれないが、それでも交際経験はそれなりにある。一種の矛盾めいた者が僕を構築し僕を存在し得る要因だ。僕の何に惹かれるかはわからない。愛嬌か話し方かポテンシャルか。何度か聞いたことがあるが微妙にはぐらかされた。大抵、女性は何か照れているときや後ろめたいことがあると笑顔ではぐらかすバリアめいたものがあり、見事に男は踏み込めない、僕にも踏み込む勇気はなく、それ以上追求することはなかった。女性を研究対象にするのもいいかもしれないが、研究したところで何もわからないだろう。それだけ男から見れば女性は複雑怪奇であり、女性から見えれば男に対して同じことを思っているのかもしれない。男女間の体と体は交わるが、精神性まで交わるかというと甚だ疑問である。こんなことを考えていて僕にメリットはあるのだろうか、いや、ないだろう。思考は疲労を蓄積し、睡眠までの過程を大幅に短縮させるから厄介だ。数学者に頭髪が少ない者が多い理由も納得せざるを得ない。前頭葉付近はぴりぴりと痛み、頭は重くなる。
思考をリラックスさせるには湯船に浸かり、音楽を聴く。音楽は主にジャズ、クラシック、ロック、まあ、ジャンルは幅広い。ジャンルを限定することは得策ではない。限定的であろうとすればするほど、何事においても可能性の幅を狭める要因となるから。
ん?
それは自分自身に言っているのか。僕は時折、わからなくなる。踏みしめる乾いた大地は靴の音を交差させ、いつも乗る列車には表情のないモンスターが住みつく。人生のレールにはルールがあり、ルールを逸脱すると、余程、運がよくなければ帰ってはこれない。
僕は恐れているのか?
何に?
「僕はここから出られるのだろうか?」
僕は別の質問をシルエット女性に投げかけた。
「形は変わるけど、ここからは出られないわ」
シルエット女性は意味深なことをいった。
「形は変わる」
僕は声に出していった。確認の意味を込めて、言葉の重みを受け止めて。
「地層は何層も折り重なってるわ。深海は未だに不明。アマゾンなんて入りたくもない。でも、同じ見方はできないわ」
「変化しているから」
僕はいった。
「形は変わる=形態は変わる、ともいえるかもしれない。視野が狭くなるのは悲しいことよ。人の大罪は七つに分類されるわね」
シルエット女性は粘っこい声で、さあ、あなた七つの大罪を言ってみなさい、という響きを伴っていた。粘っこい声からは僕は逃れられないだろう、と思った。だから、
「暴食、色欲、強欲、憤怒、怠惰、傲慢、妬み」
すらりと僕はいった。シルエット女性はぴくっと反応したが、その反応に何の意味があったのかはわらかない。が、次の言葉で解決できた。
「よくいえたわね」
「暗記だけは得意なんだ」
「褒めたくもない特技ね」
シルエット女性の言葉は辛辣だった。ドライという過激。
「言い方を間違えたよ。暗記ではなく記憶力かな」
「言い方を変えても褒めないわ。私、心が狭いから」
「別に褒められたいとは思わないな」
「そう?本当に?本当にそう思ってるの」
シルエットの少女は立ち止まり、僕の顔を覗き込んできた。僕も彼女のペースに合わせなければならなかった。拭えない既視感はなんだろう。
本当にそう思ってるの?
いや、認められたい。認知して欲しい。そうだ。僕はそう思っていた。でも、認められるというのは一体どういうことだろう。誰に対して?何を?それはいつ?疑問だけの世界が頭の中で広がり、頭がズキズキと痛んだ。
「褒められるということは認められるということでもある」
僕はか細い声でいった。
「そうね。それでいいと思うの。素直さは最大の栄養なの。無理に押し込めることはない。押し込めると心に闇が生じる。何かをした代価は認めらられることで返ってくる場合もあるわ」
「そうじゃない場合もあるということだね」
「この世は聖人君子の集まりじゃないわ」
「考えたくないことだね」
「そう?体系的に理解しているからあなたはここにいると思ってるんだけど」
シルエット女性は僕の腕に触れた。温かみがあり、そこには久しく触れていなかった。優しさ、めいたものがあった。触れていると気分が落ち着き、頭痛は終息に向かった。
「君は僕の知っている人?」
「さあね。捉え方次第じゃない。でも、あなたが生み出している部分もあるなら、あなたの言っていることは間違っていないかもしれない」
「生み出した?」
「ねえ。考えてみて。あなたは考えることが好き。でもね。考えてばかりでは前には進まないの。向き合う姿勢が大事」
「向き合う姿勢」
僕は反復した。
「ほら、また考えてる。前に進みましょう」
シルエット女性はカスタネットような歯切れの良い声音を響かせた。進め、という合図は明確であった。ナチスドイツの独裁国家は一人の独裁者によって繁栄し衰退し滅亡した。軍歌と軍靴の音は人を鼓舞するものがあった。が、滅亡した。なら、この場シルエット女性の声もそうであって欲しいと僕は願う。歩くのに疲れた。
疲れても、僕は前に進むことを選んだ。
それしか選択肢がなかったからであり、シルエット女性はすいすいとテンポを緩めず歩みを進めた。シルエット女性を見ていて僕は気づいた。足腰が意外にしっかりとしている。ウォーキングだけでは、しっかりとした肉付きにはならない。ある程度の距離をランニングしていることは明白だった。下半身を鍛えるのは容易ではない。特に女性なら尚更だろう。明日からダイエットする、という女性に限って、ダイエット期間は三日坊主であり、気づけばスナック菓子と三日間食事制限した反動はカロリー増の悪循環を迎えるという事実は共通言語に等しい。欲求が満たされなければ人はストレスが溜まり、温厚な人間も、性格が歪む。優しいですね、は、その人の本性はサバイバルでもしない限りわかりませんよ、と伝えてあげるのが正しい解答だ。でなければ、世界統計で明らかな離婚再婚、浮気不倫の増加は歯止めがきかない。人を知るというのは難しいことであり、人の心はコントローラーで操作はできない。操作はできる、と断言するのは人を崇拝させる何かしらの特殊技能者か神ぐらいだろう。無論、神がいればの話だが。
シルエット女性は一つの扉の前で立ち止まった。
ルームナンバーは301と印字されていた。となるとここは三階ということになるが、僕がエレベーターを降りたのは十三階であり整合性が取れない。僕は絨毯の上を歩いて長い廊下に飽きていて思考が朦朧としていたのだろうか。方向感覚を見失い今を失いかけている。砂漠に迷う旅人のように。
「もしかして疲れてるの?」
シルエット女性は一瞬で物を錆びつかせるような声でいった。
僕は背筋を伸ばし、「そんなことはない」といった。
「嘘ね」
「砂漠で遭難した旅人の気分だね」
「不安?」
「まあ、そうともいう」
「ラクダがいればいいわね」
「それはいい。キリンでじゃなくてよかった」
「ねえ。なんでキリンが出てくるの?」
本当に不思議そうな声をシルエット女性は響かせルームナンバーをなぞった。それが何かのおまじないのように人差し指でマーカーを引くみたいに。しかし、僕の予想に反して何も起こらなかった。逆に、何かが起こっても困るが。
「砂漠にキリンは不要だからだよ。キリンは首が長い。だから先が見通せてしまう。オアシスなんて先にはないことが長い首のせいで悟ってしまってやる気が起きなくなる」
「ラクダは首が短いし、コブしかないわね」
コブしか、という点に僕は異論を挟みたかったが、やめといた。時に正論は火種を起こす。
「ラクダがベストだ」
「いい切るのは良くないんじゃない」
「というと?」
「全てのキリンが、やる気をなくすって考えづらいわね。生物学的にみても」
「君は生物学に詳しいのかい」
「全然」
僕は唖然とし何も言えなくなった。生唾を飲み込んだ。そう、飲み込まなければ渇きが得られない。
「なら生物学という単語は、いささか無理があるよね」
「ねえ。男の人の最大の難点って何かわかる?」
「わからない」
「結論を求めすぎなの」
シルエット女性は扉のドアノブを握りしめた。扉は音も立てず開き、音も立てずシルエット女性は中に吸い込まれるように入った。僕もシルエット女性の後に続いた。恐らく、僕も音を発しいなかったと思う。なぜ、301の部屋なんだろう、僕の疑問は拭えない。シルエット女性に聞くのはためらわれた。いや、なぜって、結論云々言われたらたまらない。でも、疑問だらけの世の中に、質問する以外、解決策はあるだろうか。部屋の中に入った瞬間、シルエット女性は消えた。疑問は砕けた隕石のように僕の頭に落ち、落ちた隕石の欠片を集めても、解決はできないだろう。解決できるのはこの人しかいないのかもしれない。
目の前に太った女が部屋の内装に不釣り合いなパイプ椅子に座っていた。天井にはシャンデリアがあった。チェス盤しか置けなそうな華奢な丸テーブルにはワインとワイングラスが二つ置いてあった。チーズはなくサラミはなかった。チーズたっぷりのピザもない。壁は触れれば指紋が浮き出るような純白だった。カーテンはなく窓もなかった。ベッドは大きく五人は寝れそうだった。団体には好都合であり、一人二人の世界では身に余るサイズだった。オーディオセットがベッド脇にあったが、そこから音が流れた形跡はなかった。なぜなら梱包材に包まれたままだったから。さらには本が数冊積まれていた。中にはページが開いたままのもあった。
太い女と僕の視線が絡み合った。ニッと笑みをこぼした女は、
「待ってたわ」
これまた野太い声で言われた。僕は女の容姿に嫌悪は覚えなかった。DNA配列が無限なように人の容姿も無限なはずだ。科学的には。
「僕は待ってない」
「いえ。待っていたはずよ。あなたは私で私はあなた」
「よく分からないな。すらりとした表情の見えない黒髪の女性はどこに?」
太った女は親指を飴玉のようにしゃぶり、「あなたは今、混濁しているのね」と指を口元から離した。
「なんだかいろいろと手に負えなくなってきた」
「解釈の違いね」
太った女は唇を舌先で湿らせた。
「解釈?」
「内と内、外と外。これらは反発し合い、折り合いをつけていかなければならない。いわば交易作業ね。でも、あなたは、こもっててしまった。内へ内へと。外は解放することでリセットはできるけど。これまた内は複雑なの」
「心の問題?」
「そうね。そうともいうわ。私の最大の欠点って何かわかる?」
「話が回りくどい」
「そうね」
「でも、女性ってそういう生き物だと思うから」
「そうね」
太った女性は僕に手招きをした。
僕は素直に従った。いささかストレートに言いすぎただろうか。ビンタを食らうのだろうか。僕の足取りは素直に従ったとはいいつつも重かった。
太った女性からはマスクメロンのような甘い匂いが発せられていた。ポイントを押さえてコロンを噴射しているというよりは、全身から漂っていた。
「宝石石鹸を使ってるの」
僕の考えを察したかのように太い女はいった。彼女はベッド下から小箱を取り出した。そこから煌びやかな石のようなものを取り出した。砕けた大理石のようだった。
「それは?」
「宝石石鹸よ。ラピスラズリ似のね。宝石石鹸ってフランス原産なのよ。フランスって香水の発祥の地でもあるから。宝石石鹸って作業工程が180もあるのよ。びっくりじゃない。この世に生まれてくるまで180回転生するようなものよ」
僕は太った女の解説を聞きいった。太った女は僕に宝石石鹸を手渡した。僕は手にとってみた。押しつけがましくないほのかなマスクメロンの匂いが鼻腔をくすぐった。
「高そうですね」
「質が良ければそれなりにするわよね。インテリアとしても見栄えするし」
と太った女はいったがベット下から宝石石鹸が出現した時点で、インテリアの概念から外れているらしい。当人がそれに気づかないでいっていることは明らかだろう。
僕は宝石石鹸を太った女に返した。
「読書が好きなんですか?」
「知識が詰まってるからね。どれも過去よ」
「過去?」
「知識は過去。知恵は未来。そう思わない」
「知識はインプット、知恵はアウトプット。ということですかね」
太った女は、はっ、とだらしなく口を半開きにした。
「あなた人から反感を買うわよ」
「友達がいる方ではないですから」
「でしょうね。改善した方がいいとは思うけど、人って二十代前半で性格的な面って凝り固まっちゃうのよね。素直に生きろ、て無理があるのよ。人間ってわがままだし、生意気だし、ないものねだり、だし。欲求不満を大型冷蔵庫に内包してるのね」
「言いたいことはわかりますね」
「わかってもらわなきゃ困るのよ」
太った女性は宝石石鹸をようやく小箱に入れ、再度、ベッド下に入れた。乱れたベッドのシーツを手際よく直した。埃が目についたのか彼女は、ふっ、と息を吹きかけ払った。
「僕はここから出してもらえるのですか」
太った女性は、いい質問ね、とばかりにニッと笑みをこぼした。僕にはその笑みが悪巧みを企んでいるようにしか見えなかった。
「今から私と寝ない?溜まってるんでしょ?」
女性からここまでストレートにベッドに誘われたことはない。どぎまぎとし慌てふためくのだろうが、僕の心は冷静であり、唖然としていた。太った女性の容姿は、太っていることもあり、優れているとはいえない。だが、人を惹きつけるものはあった。容姿というより、あけすけな性格が容姿にマッチしているのも一つの要因でもあるだろう。いまさら気づいたのだが、彼女の歯並びは芸術の域に達している。緻密に計算された設計士のようにパネルが嵌められているかのように白い歯は整然としていた。彼女自身も歯並びに対して自負があるのか、自信めいた余裕すら感じさせる笑みがそこにはあった。
「寝るというのは、裸と裸で?」
「ねえ、レイディーにそんなこと聞いちゃダメよ。ただでさえレイディーって恥ずかしがり屋なんだから。レイディーから言うときって、まああまりないけど、本気なんだからね」
「ごめん」
「いや、いいのよ。わかれば。私も少しグロスを塗りすぎたしね」
太った女性は聞いてもいないことを応えた。
彼女はパイプ椅子から、よいしょ、と神輿を担ぐように声掛けをし、ベッドに向かった。さりげなく読みかけの本を閉じた。本の表紙には、『罪と罰』と印字されていた。ドストエフスキーかもしれない。僕は深くまで突っ込まなかった。この流れは、いささか危険な流れであり、ベッドインの兆候が濃厚だからである。
さて、どうしたものか。
「君と寝ることで僕は何かしらのメリットが得られるのだろうか?」
「その問いかけってひどい言葉よ」
「どうして?」
「損得勘定で女を抱くなんて。いいから、早く来なさい」
僕は太った女の勢いに負け、ベッドに向かった。ベッドは新品同様の張りと弾力があった。失礼します、と太った女性の隣に僕は潜り込んだ。すでに布団内は生暖かく、危険な雰囲気が辺りに立ち込めていた。
太った女性の吐息が僕の耳元にかかり、それがリズミカルでもあり六連符を彷彿とさせた。リズムは正確で、僕は次第にハニカミ、「くすぐったい」と声を漏らした。
「嫌いじゃないでしょ。こういうの」
「女性に耳元で息を吹きかけられるのが嫌いな男っているかな」
「もし仮によ。そういう男がいたらこういってやりたいのよ」
「何を言うの?」
「来世で会いましょう、て」
「来世なんだ」
「現世は無理でしょ。息を吹きかけられるのが嫌いなんだから」
「来世で嫌いな人と遭遇しなきゃいけないし、ある程度、自分の記憶を留めとかないといけないんだよね」
「あなた、深く考えすぎなのよ」
「シルエット女性にも言われたな。僕は、考えすぎ、の星の元に生まれたのかもしれない」
「あなたって少しナルシストね」
「いけない?」
「いけない、いい、じゃないのよ。不釣り合いなのよ」
「それって自己満足の世界だからいいと思うんだけど」
僕は反論した。生き方自由だ。
「迷惑をかけなければね」
「僕は誰かに迷惑を掛けていたということかな」
「多かれ少なかれ人は誰かしらに迷惑を掛けているものよ。世界は広いし人は多い」
「少子化だけどね」
「セックスは気持ちいいのに」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「平凡な生活が好きな人だけじゃないのよ。平凡な生活の中に刺激と快楽を求めるのが人間よ。じゃないと、人間壊れちゃう。必ず、平凡な中にも刺激を求めているはずよ。内に秘めてるのよ。悟られないようにね」
「僕もその一人かもしれない」
僕は太った女の方を向いた。彼女は、うんうん、と二度頷いた。甘ったるい匂いとは不思議なもので、目の前にいる女性を、抱きたい、と思わせる効能があった。僕は欲求に応じてしまおうという悪魔と、欲求に抗おうとする天使との狭間で揺れ動いていた。視点の定まらない眼球に優柔不断な一面が表出していたかもしれない。
事実、僕の下半身は硬直しつつあり、欲求の黄色信号が止まり、いつなんどき青信号に変わるかわかったものではない。欲求の鎮火を待つか、そのまま突き進めかのせめぎ合いは苦痛で仕方ない。
太った女性は僕の下半身をさすってきた。それも湾曲した部分を撫で、適度に強弱を加えている。男を楽しませる術を彼女は持っていた。僕は目をつむり、歯を食いしばった。考えてみれば、なぜ僕は欲求に抗おうとしているのだろう。別に、太った女性と一夜を共にしたところで問題はない。なるのは欲求の解消だけだ。
「ギンギンね」
太った女性は僕は耳元で囁いた。僕の下半身の硬直度具合は永久凍土クラスだろう。
「やはり、君と交わることはできない」
太った女性は撫で回していた僕の下半身の手を止めた。オニヤンマが空中でピタリと止まるみたいに。ブレもなく揺れもなく。
「どうして?
「直感かな」
「その直感は正しいの?」
「君たちがいったんじゃないか。あなたは考えすぎ、て」
僕の言葉に、ふっと太った女性は鼻で笑った。「そうね」
「納得してもらえるかい?」
「それは私が納得するものなの?あなたが決めた決断に泣き言をいうのは柔な女ぐらいよ。私を一緒にしないで。でも、忘れないで、あなたは私、私はあなた」
「否が応でも忘れないよ。聖書の一節みたいに」
「冗談もいえるようになったんだ」
「人は短時間に成長するんだよ」
「これから、どうするつもり」
「部屋を出て、前に進むよ」
「それがいいとは思うけど、一眠りした方がいいんじゃない」
「起きたら、お休みのキスをしてくれるのかい」
「あなたが起きたら私はいないと思うけど」
「そういうものなのかい?」
「そういうものよ。必要と不必要だったら、必要なものが残るようにできている。不必要なものは消えてしまうでしょ」
「時代のサイクル」
「悲しいけど、そうね」
「おやすみ」
「おやすみ」
太った女性はロウソクを吹き消すようなか細い声でいった。僕の頬に彼女の唇が当たるのを感じた。頬に彼女の感触が残っている。残っている実感を意識しつつも、僕は暗い底に沈んだ。さらに深く、より深く。
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