予感めいた嬉しさの中で(アオイ)

 時の流れは早く気づけばアオイは大学三年生になった。

彼自身、特出したルックスがあるわけではない。ファッションはモノトーンを基調としたシンプルさを好み、髪型は二十代を経てミディアムにした。幼さと大人への変革の途上が功を奏したのか女性にあまり困らなかった。

 

というのも、理系には女子が少ないせいか、または興味本意からかしれないが、比較的交際に至るまでの過程に悩み苦しんだ経験がない。ある者は、「お前を合コンに誘うと、お前しか女子は見ていないし、お前にしか質問しない」と、半年分の、お前、三連打を披露され、ある者は、「解せないんですよ。ええ」と前後の脈絡なく批判され、「服の素材は、ぼ、ぼ、ぼくのがいいですね」と、どもり、と妙なところで対抗される始末だ。全てはアオイに対する嫉妬なのだろう。なにはともあれ人生は学びの連続だ。女性の嫉妬より男の嫉妬のが何倍も恐ろしい。ネチネチとあからさまに対抗してくる。なので、人との距離感に疲れ果てる。それでいて勉強もそれなりにこなしてしまうために、たまには教授の前に怒られるというピエロめいたものを演出しなければならない。

 やれやれ、世の中を渡るのは難しい。


「よっ、色男」

 春風が肌をかすめキャンパス内の噴水広場で腰を下ろしていたアオイは肩を叩かれた。見上げた先には、中村トオルと大学のマドンナ的存在である鈴木アヤカがいた。

「色はつけなくていい。男で」

「相変わらずの切り返しね」と鈴木。

一度も染髪はしていないだろう、漆黒の黒髪。理知的で理性的。父親は、大企業の重役であり、母親はファッションデザイナーという才色兼備。プライドの高さを感じさせる大きい黒目はあらゆるものを見抜きそうだ。


「失態を演じるというのが小沢アオイ君の使命ならば、昼寝と昼飯は同時進行はできないな。この世に小沢アオイが二人存在しない限り」


 中村は頬を膨らませ佐藤教授の真似をしながらいった。中村は鈴木の召使いという呼称がぴったりであり彼女に惚れていることは明白だ。残念ながら恰幅が良く彼女と並んでいる絵柄はどう見ても美女と野獣だ。大局を見るのが得意で大胆な発想を構築できるものにありがちな柔和な目元は人に安心感を与える。ファッションはサスペンダーが好きらしく七色保持しているらしい。一度、サスペンダーの魅力について熱弁されたが、アオイは。「そっか」とドライに返した。そこから中村は一週間拗ねて口を聞いてくれなかった。比較的めんどくさい人種でもある。



「佐藤教授に似てるわね中村」


 鈴木は当然のように中村を呼び褒め称えた。声がクールなため、聞いただけでは、馬鹿にしているのではないかと思われるところだが、彼女にとっての最大の表現ということに年月を共にすればわかるだろう。


「ありがとう。鈴木さん」


「中村、僕とは対応が違うな」

 アオイは皮肉を込めた。


 少し赤面した中村は、「そんなことはない」と強く否定し、「そんなことないんだ」と鈴木がクールに応戦し、「多少の誤差はあります」と中村は訂正した。


 三人は白い歯をこぼし、噴水の水しぶきが、ぴしゃ、と舞った。水しぶきに触れた空気が清涼な風を運び、心と脳に最大の栄養と癒しがその場に鎮座した。


「そういえばアオイ君」と鈴木が口火を切った。「研究してんの?」

 どうしたものか、とアオイは困った。佐藤教授に悪気はないのだろうか、あまり公にはしたくない事項だ。


「うーん。どうしたものか」

 アオイは首を捻った。


「いえないんだ」

 と鈴木。


「仲間に対して隠し事は良くないぞ。酒の席で吐かせてやる」

 中村はポンとお腹を叩いた。


「大した研究ではないんだよ。時期が来たらいうさ」


「その時期はすでに来てるから研究してるんじゃないの?」

 鈴木は鋭い眼光を放ち、鋭い指摘をした。


「何事も捉え方次第だよ」


「曇りなき空が頭上に広がっているのに、アオイの心は曇ってるな。相変わらず何を考えているのかよくわからない」


「だから友達がいない」


 とアオイは苦笑した。ここで気まずい雰囲気になるのが一般的だろうが、なぜか二人はアオイに対して好意的であり、「一応、友達になっているつもり」と中村と鈴木は口を揃えていった。


「泣けるね」

 アオイは目元を押さえた。


「ここで本当に泣いたら、いいところに連れてってやろうと思ったのに」

 中村は口角を効果的に上げた。


「いいところ?いいところというのは捉え方次第だろ。他者と自分の感じ方は違う」


「その通りでもあり、違う場合もある」と鈴木はいった。「例えばコンサートや楽団やバンドの演奏者は少なからず感じ方は一緒かもしれないわ。呼吸が合わなければ観衆を魅了できない。それでいて聴衆者は違う。人それぞれの感じ方がある。それは演奏者も一緒。だからアオイ君の答えに断定はできないし、肯定もできない」


「つまりは、コンサートに僕を連れて行くということか」

 アオイは話の流れで推察した。


「ご明察だよ、アオイ」


 中村は嬉しそうだった。口元から涎が垂れそうなほどに。その証拠にシャツの胸ポケットに溶けたチョコが付着していた。講義中に食べたのだろう。汚れが目立っていたが、一つの模様として違和感なく溶け込んでいた。意匠登録すれば、権利収入が得られるかもしれない。


「へえ、誰の?」

 アオイは身を乗り出した。


「ジャズピアニスト井上ユミのシークレットライブよ」

 鈴木が応えた。おそらく鈴木のコネだろう。


「井上ユミのピアノが聞けるのか」

 アオイは空を見上げた。やはり雲は一つもなかった。


「だから、アオイ。泣け」

 中村はいった。


「仕方ねえなあ」とアオイはポケットから目薬を取り出し、一滴、二滴と滴を目元に垂らした。


「幼稚園児かよ」

 と中村は大きい口と大きな声でいった。


「せめて小学生にしましょう」

 なんの慰めにもならない言葉を鈴木は放った。


 じゃあ、夜の八時な、と中村がその場を仕切り、お開きになった。美女と野獣の後ろ姿を撮ろうと、コンパクトミラーレフ一眼を、アオイはバックから取り出した。端から見るといいコンビだな、と美女と野獣のツーショットにピントを合わせ、倍率を調整した。パシャ、と小気味良い音を響かせ、一枚の画が収まった。美女と野獣の横顔は太陽に照らされ二人の間に光の筋が通っていた。その筋がある種の踏み越えられない境界線に見え、アオイは頬を綻ばせた。

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