第12話 思いの壁を壊したい

 住宅地の中でひときわ目立つ茂みに隠れ、個人宅としては桁違いに広い敷地にある離れ。

 今となっては古びた様式の家屋であるその離れの一階では、多駆郎がとある実験、開発を行っていた。

 パーテーションで隠されたスペースに、いささか化学実験室のような小ぶりの試験台と、箱型のカバーが取り付けられている特殊な機械が設置されている。

 多駆郎は試験台に向かって座っている。

 眉間にシワを寄せて何やら計算式を書いてみたり、見慣れないサンプルを眺めていたりしていた。

 そんな中、携帯電話が電波をキャッチする。


「はい、瀬田です。ああ、それなら今やっているところですよ。気持ちはわかりますけど、一学生に過ぎないオレにあんまり頼られても困るんですけど。ビジョンはあってもそれを実現しようというのは簡単ではないことぐらい、そちらの方がよくわかってらっしゃるでしょう。とにかく、まだ時間をいただかないと。こちらも遊んでいるわけではないので。学生の本分というものもあることを忘れないでください。では」


 多駆郎は大きくため息をついて座っているイスの背もたれに身を預け、両腕を伸ばしながら伸びをした。


「ほんと、頼む相手を考えて欲しいよな。自分ができないこと頼んでいるんだろ? ったく」


 珍しく怒りを露わにしながら席を立ち、コーヒーを入れに台所へと向かった。

 台所には一階用のマグカップとインスタントコーヒーの瓶、スプーン、たまに入れるスティックシュガーが置いてある。

 マグカップを取り出し、インスタントコーヒーをスプーン一杯分入れてお湯を注ごうとしたが、ポットの中身が空だ。


「ちっ、沸かすか」


 多駆郎は左右をキョロキョロしてポットで沸かすかやかんで沸かすか迷っていたようだが、やかんを選んだ。

 やかんを火にかけそのまま立ち尽くす。

 湯が入るのを待っているマグカップに目をやり、一人呟く。


「最近、忙しいのかな。三年になったばかりだし、もしかしたら部活も再開したのかもしれないな」


 ここ丸一か月姿を見せていない幼馴染のことであろう。

 多駆郎は天文台を建てるために知り合いの工務店に頼んだわけだが、当然工務店関係者は父親を知っているから多駆郎の話を聞いてくれたのだ。

 となると父親にも連絡されてしまうわけで、電話で散々なぜそんなものを建てる必要があるのか、まだそんな遊びをしているのか等々小言を言われていた。

 そんなことと早貴に会わない時間が今回程長かったこともほぼ無かったことが重なり、多駆郎はここ数日苛立ったまま日々を過ごしていた。

 さらに父親の仕切る研究所から新しいゴム製品もしくはまったく新しい素材を開発しろと、依頼という名の指令が出されていたことも苛立ちの原因となっている。

 やかんの笛が鳴りかけたところで多駆郎はガスレンジの火を消した。

 頼りない笛の音がフェードアウトする。

 ようやく出番がきたマグカップにお湯を注ぎ入れる。

 香ばしい匂いが多駆郎を包みこむが、これまでに嗅ぎ過ぎて芳香を楽しむような感覚は消え去り、ただコーヒーだとわかる合図にしかならなくなっていた。


「最近飲み過ぎているのかな。胃が痛いや」


 胃の痛みをコーヒーの所為にしつつ、懲りずにそのコーヒーを口に含む。


「何か食べたほうがいいのか。まだ残ってたっけ」


 自分で買ってきていたものがまだ冷蔵庫にあるかどうかを確かめてみる。

 冷蔵庫のドアが軽いことで何もないことを一瞬で察知したようだが、体はすぐに止まってくれない。

 普通に開けてしまったついでにまだ何かあるのではと期待をしたのか覗き込んでいる。


「さすがにもう無くなったか。買っておいたんだけどな」


 約束を守っていたことに反応してもらいたかったのだろうか。

 最近独り言が多くなっていることに多駆郎は気が付いていない。



 ◇



 早貴と千代は下校途中である。

 奏と三人で部室へ立ち寄った後、二人は奏に綾を待つから先に帰ってくださいと言われた。

 そのために二人で帰ることになった。

 バスではいつも通りに和やかに会話をして二人の時間を楽しむ。

 二人の時間が楽しいおかげで日向駅前バス停には毎度四十五分という時間を感じる前に到着する。

 バスを降りて日向町交差点に差し掛かった時、千代が思いついたことを早貴に提案してみた。


「お早貴さあ、久しぶりに川へ行ってみない? どうかな」


 両腕をハの字にして袖口をつかんだ恰好で歩いていた早貴。

 千代の企画に反応してそのままのペンギンスタイルで千代に振り向く。


「川かあ。そういえば夏以来行ってないね。それいいかも」


 快諾してくれた早貴に微笑みを返す。

 千代は川まで繋いでいこうと言葉の代わりにペンギンの片翼を握る。

 握られた早貴も千代と手を繋いで歩くのは幼少の頃から好きだった。

 同じく微笑みを返して熟知している絶妙な力加減で握り返し、二人は川へ向かって歩き出した。


 日向町交差点から帰る方向とは逆へ向かうと駅横に踏切がある。

 その先には一級河川の宮乃川を渡る日向橋が見える。

 日向橋の両端には河原に降りる階段があって、ジョギングや犬の散歩などをする人たちがよく利用している。

 まだ犬の散歩ラッシュ時間ではないが、ちらほらと利用者が確認できる河原。

 土手と河原の間に遊歩道が敷かれており、川に降りている人影は主に遊歩道上だ。

 遊歩道の所々にベンチが設置されていて、そのうちの一つに二人はとりあえず座った。


「家の近くにこういう場所があるんだから、今までももっと来ればよかったね」


 早貴は座ったまま両足をピンと肩幅に開いて、踵を軸に両足首を左右対称に動かしている。


「小さい頃は踏切を渡るってことがちょっとした冒険だったし、大人にも止められていたから渡ったら何かわからないけど凄いことが見られるか起こるんじゃないか、な~んて思ってたな~」


 内股で両足を手前に引きハの字を作っていた千代は、早貴が動かす足を見て真似をし始めた。


「神社へ行くときは大人が一緒だったしね」

「そういえば大人抜きで神社へ行ったことって無いのか」


 随分前になるが踏切では自動車の接触事故があった。

 それから大人達は踏切に対して相当に気を使ってきていた。

 そのため神社へ行くということは家族で行くもの、もしくは保護者が一人は付いて行くというのが定着している。


「ちょっと冷たいだろうけど、川に入ってみる?」

「あは、やってみようか」


 二人は同時に立ち上がって真っすぐ川へ歩き出した。

 遊歩道を渡ると足元は石になって二人からそれぞれの歩幅に合わせた石の擦れる音が聞こえている。

 それと共に川の流れる音がはっきりと耳に入り出す。

 町の音が遮断されて自分たちだけの世界が形成される。


「ここなら砂もあるし、足を入れやすそうだよ」


 早貴はその場でローファーとハイソックスを脱ぎ出す。

 隠されていた綺麗な肌色が千代の目を釘付けにしていた。

 足を漬けようと砂地の多い場所へ歩いて行く早貴を追いかけようとする。

 慌ててローファーとソックスを脱いで早貴に続いた。

 早貴がそうっとつま先を水に漬けてみる。


「ひゃっ! 冷たい。やっぱり冷たかったな~。これはちょっとキツイかな」


 そう言いつつも足の裏全体を漬けて様子を見ながらドボンと川底まで足を入れた。


「さあ綿志賀選手、どこまで耐えられるでしょうか! 随分と苦しそうな顔をしております。今回は流石に厳しいか」


 一人で実況遊びを始め出した早貴の横へ足が痛くない石を選びながら到着した千代が早貴の表情を見る。

 楽しそうに水に浸かる足を見ている早貴の横顔に昼下がりの日差しが当たり、冷たい水に触れているからか頬の頂きに浮かび上がるうぶ毛がキラキラして見えた。

 千代はその光景を目の当たりにして気持ちが抑えられなくなったのか、早貴の頬へ顔を近づけていく。

 そして早貴の袖を右手で摘んで背伸びをし、自分と早貴をさらに近づけて頬にキスをした。


「お千代?」


 袖を掴んだまま真顔になっている千代を見て早貴が名前を呼んだ。


「あ、ごめん。」


 袖を離して俯く千代。


「どうしたの? お千代何かあった?」


 早貴は何事も無かったかのような反応を示すどころか、千代の心配をしてきた。

 衝動的にしてしまったキスについて問われると思っていたのであろう千代。

 少しホッとしたような表情になりつつも、顔は若干赤くなっている。

 珍しく答えをすぐに返さない千代を不思議そうに見ている早貴。

 千代は何か言わなきゃというのが伝わるような仕草で言葉を絞り出す。


「突然ごめんね。」

「何を謝っているのよ。お千代はアタシに何も悪いことしていないじゃない。もしかしてアタシが気づいていないだけで何かした?」


 言いにくそうにしていた千代だがこれだけの無反応が確認された今は、キスのことを言える気がしてきた。


「そのキス、してしまったから、引いたかなと思って」

「あん。お千代今更そんなこと言いますか? アタシらどれだけの付き合いよ。正直そんな壁は一切ないと思っていたけど」


 千代に微笑みながら早貴は言う。


「アタシはお千代ならそれぐらいは平気だよ。そりゃね、それ以上進むとかはちょっと考えちゃうけど、キスぐらいなら有りな仲だと思っているよ。――アタシ変かな」


 いつもの調子が取り戻せない千代を相手にさらに畳みかける。


「それもほっぺでしょ。アタシだってお千代のほっぺただったらキスしたくなるぞ。キレイだもん」


 いつも上位に居たはずの千代が完全に早貴に飲まれてしまっていた。

 千代は気持ちをリセットしようと早貴に抱き着く。


「ほんとにどうしちゃったの~、今日はやたら可愛いじゃない。そんなお千代はレア過ぎてアタシ楽し過ぎるんですけど」


 早貴も千代をギュッと抱きしめて頭を撫でながら話を続ける。


「今までこういうの無かったお千代が凄かっただけだよ。甘えたい時は甘えてね。いっつもアタシばっかり甘えさせてもらってたからさ」


 本心とはズレているものの、千代のことを特別に思っていることがはっきりとわかって、涙がこぼれる。


「ありがとう早貴。うれしいよ」

が抜けるぐらい喜んでくれて良かったよ。お千代は可愛い。いつもありがとうね」


 コクコクと泣きながら千代は頷いた。


「ところでさお千代。アタシ、そろそろ足が限界――」

「ご、ごめん!」


 慌てて千代は早貴から離れ手を軽く引いて水から足を出す手伝いをする。


「いや~すっかり冷えちゃった。はは。お千代に何かあったと思ったから感じなかったけど、ホッとしたら急に冷たく感じちゃって。ありゃりゃ、感覚無くて笑える」

「ああああ、ごめん、お早貴そこに座って。あたしが温めてあげる」


 サポートをしてもらいながらその場に早貴が座る。

 千代は早貴の前にしゃがんで冷えている右脚を手に取って手のひらでさすりだした。


「ほんとだ、凄く冷えちゃってる。ごめん、ごめんね」

「もう、お千代。そういうの無し! そんなに気を使わなくちゃいけない仲だっけ? いっつもリードしてくれてたお千代がいないから寂しいぞ~」

「ごめん」

「ほら、そ~れ。次言ったら一週間会わないぞ。そうなるとアタシも辛くなるんだからね」


 俯いてばかりだった千代は思わず目を丸くして早貴を正面に見た。


「それは嫌だ。気を付ける」

「やっと目を合わせてくれた。お千代が戻ってきてくれたかな~。さ、姫の脚をさするのじゃ」


 そう言いながら両手を横について冷えた脚を揺さぶり、千代に催促する。


「姫様、お任せください」

「うわ~、なんかこれクセになるかも。お千代をアタシの思い通りにできるって感じが新鮮だ」

「それじゃああたしがいつも命令していたみたいじゃない、酷い~」

「命令とかじゃないけどさ、アタシにとってお千代は憧れだからずっとヒロインなのよ。いや、アイドルかな」

「なんか改まって言われると照れる」

「マジで今日のお千代可愛いなあ。カッコいいのはお休みですか?」


 ふふっと笑いながら千代は脚を温め続けている。


「お早貴の脚……綺麗だなあ。もしかしてこれあたしが得してる?」

「アタシの脚なんかで良ければいくらでもどうぞ。まだ冷たいし。ほれ、姫が凍えてしまうぞよ」


 姫から許しを得た千代は肩の力が徐々に抜けていくのを感じつつ、足を堪能――いや温め続けた。

 二人は散々じゃれあったあと、帰路に就いた。

 まだ多少ぎこちなさを引きずってはいるがいつも通りの自分を取り戻した千代。

 毎度のお別れポイントでハイタッチポーズをする。

 普段より元気よくハイタッチをした早貴は手をそのまま千代の背中へ回して軽く抱えた。


「お千代、これからもよろしくお願いね。ちゃんと好きだからね」


 ようやく元に戻れたかと思われた矢先に千代はドキっとさせられる。

 いつもの自分で返事をしようとするが思う様に言葉が出てこない。

 間が開いてしまった瞬間頬に柔らかいものが一瞬接触した。


「これでお相子。これならお千代も気まずくないですか? 今日は早貴姫様の大サービスデーだ。それじゃあまた明日!」


 ニコニコの笑みを見せながら手を振って早貴は歩き去っていく。

 その姿を見たまま立ち尽くす千代がつぶやいた。


「これだけのことをされたらあたしブレーキ効かなくなっちゃうじゃん。早貴、あたしは――」


 そのまま涙がこぼれ落ちる。

 早貴の反応がうれしかった半面、本心とはズレのある気持ちがもどかしいのであろう。


「駄目だ。今日は自分がわからないや」


 千代は気持ちの混乱を整理できないまま自宅へと足を向けた。

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