【本命】

「グラアアァァァ──ッ!!」


 ドラゴンは、葦の穂が揺れるほどの勢いで息を吸ったかと思うと、その口から灼熱の炎を放射する。


 紅蓮の火焔は、葦原を焼き払いながら、放射状に広がりつつ漆黒の獣へと迫る。


「前後左右に逃げ場はないのだわ! さあ──どうする!?」


 目を見開いた『淫魔』は、戦局を凝視する。極大の火炎放射をまえに、無貌の怪物が回避行動をとる気配はない。そのまま、炎に呑みこまれた──かのように見えた。


「嘘、でしょ……?」


 双眸を手でかざしながら、『淫魔』は唖然としてつぶやく。


 すさまじい放射熱とまばゆい燃焼光で、はっきりと視認することはできないが、漆黒の獣は、炎のなかを全速力で直進している。


「普通なら、二秒で消し炭になるところだわッ!」


 ドラゴンは、いっさいの容赦なく、灼熱の吐息を放射し続けている。


 にもかかわらず、全身を焼かれる無貌の怪物が消滅する気配はない。それどころか、歩速をゆるめず前進し続けている。


「──ヌゥラアッ!」


 ドラゴンの脚元まで走り抜けた漆黒の獣は、直上に跳躍し、紅蓮の炎のなかから身を現す。怪物の全身から、炭化した体毛が粉のように飛び散っていく。


「え、まさか……? 冗談は、よすのだわ……それだけの導子力、いったいどこから供給しているのよ……」


 空中で、『淫魔』は思わず戦慄する。


「身を焼かれるよりも、熱が体に届くよりも速く──高速で体毛を伸ばし続けて、身代わりに焼いて、熱エネルギーから──身を守っていたというの!?」


 垂直に跳んだ漆黒の獣が、ドラゴンの頭部に肉薄する。


「ヌラア──ッ!!」


 無貌の怪物の拳が、レッサードラゴンの顔面に叩きこまれる。龍の巨体が、衝撃で揺れる。小さな岩山なら、一撃で砕きかねない膂力だ。


「……くッ!」


 思わず『淫魔』は、自分の頬をおさえる。共倒れにならないよう『安全処置』は施してあるが、五感を共有している以上、ある程度の痛みも伝わってくる。


「グラアァァ!!」


 ドラゴンは、人間が蠅を払うときのような動作で、漆黒の獣をかぎ爪で叩き落とそうとする。


 空中の無貌の怪物は、なんの反動もつけずに、高速で後ろに飛び退き、龍の一撃を悠々と回避する。


 獣の左手から伸びる体毛が、沼地に倒れるワイバーンの身体にひっかけられていることを、ドラゴンの目を通して『淫魔』は察知する。


「ワイヤーアクションとは、やってくれるのだわ……ん?」


 自分の首に、『淫魔』は手を当てる。違和感が、ある。己の身体ではない。感覚共有している、ドラゴンのほうだ。


「ウヌゥ……ラアァァァ──ッ!!」


 漆黒の獣が咆哮をあげ、一見するとなにもない中空に向かって手を伸ばし、力をこめる。すると、同時にドラゴンが苦しげに身悶え始める。


「ガアアァァァ……ッ!?」


 同時に、『淫魔』の細首にも感覚共有を通した幻覚痛が走る。


「こいつ……さっき、殴ったとき、に……体毛を、首に、巻き付けて……」


 ドラゴンが逃れようと身をよじればよじるほど、獣の体毛が深く首筋へと深く喰いこんでいく。


 龍のかぎ爪が、自らののどをかきむしる。暗緑色の鱗を引き裂きつつも、ワイヤーのごとき剛毛は引きちぎれない。


 吸いこんだ空気を火炎として吐き出した直後だったこともあって、ドラゴンの窒息する苦悶が、感覚共有を通して『淫魔』へと伝達される。


「そこまで、計算の、うち……? とんだ、殺戮マシーン……だわ」


 竜の首を、自力でもいっそう絞めあげようと、無貌の怪物は体毛鞭を握る両手の力を強める。『淫魔』が、感じる痛みも同時に増していく。


 上空で身悶える『淫魔』は、ドラゴンに対して、人形を操る傀儡師のように両手を伸ばす。ぼやけ始めた意識を叱咤し、精神を集中する。


『淫魔』は、龍の躯体に対する支配を強める。同時に、共有する苦悶が深くなる。どのようにもがこうと、体毛がより喰いこむように巻きついていることがよくわかる。


「少しだけ……うえ、へ……」


 ドラゴンの巨翼を二、三度だけ、羽ばたかせ、同時に後ろ脚で地面を蹴らせる。


 飛び退いて、逃げられるような甘い相手ではない。ますます、体毛がのどに喰いこみ、獣の思うつぼだ。『淫魔』の狙いは、違う。


 逃避や後退といった防御のためではなく、攻撃のための行動を、龍にとらせる。


「ヨーヨーの……本体のような、イメージ……ッ!」


 のどから血がにじみ、首の骨をきしませながら、ドラゴンの巨躯が少しだけ宙に浮く。『淫魔』は、力の角度の微調整する。


「……ストリングは、アイツの……体毛ッ!!」


 ぐるん、と巨大なドラゴンが空中で一回転する。


 漆黒の獣が、蒼黒の瞳を見開く。


 龍自体の動くエネルギーと、体毛を引く力が重なりあい、小山のような巨体が無貌の怪物に向かって落下する。


──ドオオォォンッ。


 轟音が、湿地帯一面に響く。周囲の原生林も巻きこみ、地震のように地表を揺らす。


 ドラゴンの巨躯は、圧倒的な質量で漆黒の獣を押しつぶし、葦原にクレーターを作って、一回だけバウンドする。


 ドラゴンも、ターゲットも倒れ伏し、そのまま動かなくなる。


「やっ……た……」


 空中でよろめきながら、『淫魔』はドラゴンとの感覚共有を解除する。どうにか双翼を操りつつ、クレーターの中心、泥水が流れこむくぼみへと着地する。


 ハイヒールの足元が軟弱な地面へと沈むが、気にする余力は残されていない。


「本当に……信じられないのだわ」


 青年だった怪物を見下ろしながら、『淫魔』はつぶやく。漆黒の獣は、ドラゴンの下敷きになりつつも、潰れてはいなかった。


 それどころか、胸が上下し、かすれたような呼吸音が聞こえてくる。意識を失い、動き出す様子こそないが、まぎれもなく生きている。


「……こいつ、ドラゴンと相打ちをとりやがった……のだわ」


 唖然とする『淫魔』の眼下で、無貌の怪物の全身をおおう漆黒の体毛がほどけていく。やがて、漆黒の獣は、人間の青年の姿へと戻っていった。

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