(9)兄弟の作戦
さらりと長い長衣の裾を持ち上げると、イルディは凭れていた牢の壁から離れて立ち上がった。
立ち上がった長衣の裾には、牢の床に残っていた古い藁屑が幾つもついている。
それが何の用途に使われたのか。血を吸ったようなどす黒さにも表情を変えずに、イルディは手で払うと、宮殿の通路を歩くのと同じように鉄格子に向かって進んだ。
そして、ほかの牢と通路とを見回す。
黒い石の通路には、太い蝋燭の明かりが一つ揺らめいているだけで、ほかに人がいる気配はない。
「ほかには誰もいないみたいよ」
だから、ディーナは先程感じた通りのことを、横に立ちながら伝えた。けれど、イルディの視線はまっすぐに石の通路の奥を見ている。
「いえ、そんな筈はありません。脱獄されたり、自殺されたら責任問題ですからね」
そして、すうっと息を吸った。
「誰か!」
けれど、出した大きな声は、狭い石の通路に反響している。
「誰かいないのか!? いなければ、職務怠慢で裁判の時に、法務官にお前のことを訴えるぞ!?」
その途端、ばたばたと曲がった通路の奥から足音が聞こえてきた。
(ええっ!? 身内から教えてもらった方法って、まさか恐喝!?)
そういえば前に会ったそっくりな弟が、何かあればすぐに脅す構えを見せていたような気がする。
(だからって、牢の中にいる身でそれを使うなんて!)
けれど、慌てて駆けつけた看守が鉄格子の前に来ると、イルディは自分の倍は生きていそうな顔を見下ろして、いつもの鉄面皮で告げている。
「家族に伝えたいことがある。王室省で臨時下働きをしているガルディをここに呼んで欲しい」
「なに!?」
国王暗殺の大罪人らしくない言葉に、中年の看守は皺を刻んだ顔を歪めた。
「お前、囚人の分際で何を言っているんだ? 政治犯にそんなことが認められると思っているのか?」
「急に行方不明になったことを心配させないためだ。必要なら、会わせて大丈夫か王室省に問い合わせればいい。最も、あいつが私を心配して、本気であちこち嗅ぎまわられては困る御仁が多いと思うが?」
(それは、今までに集めた弱みを総動員されかねないということ!?)
後ろでディーナはびっくりしているが、イルディの言葉に看守は胡散臭そうな顔をしている。
「あん? どういうことだ?」
「疑うのなら、私の言葉をそのまま王室省に伝えてみろ。それで決めればいい」
看守はまだ信じられないような顔をしていたが、それでも相手が王室省の役人を持ち出している以上無視するわけにもいかない。不満げな顔で、ぶつぶつ言いながら去っていくと、しばらくして、二度ほど見た小柄な体を伴って通路を戻ってきた。
そして、面会の時間を言い含めると、今来た通路を曲がった先にある詰め所へと戻っていく。
「ガルディ」
牢の前に立つ、そっくりな姿を、イルディは鉄格子の中からゆっくりと見つめた。
格子の向こうにいる自分と瓜二つな兄を、ガルディはじっと見つめていたが、やがていつもと変わらない表情でくいっと黒い眼鏡を持ち上げる。
「なに、兄さん? 死刑になるのなら、その前に家族との縁は切っておいてくれる?」
「お前ね! 牢の中にいる兄を見ての開口一番がそれか!?」
「冗談だよ。本気にしたいのなら、今すぐ法務省に行って勘当証明書をもらってくるけれど?」
「頼むから、冗談は冗談と思える範囲にしておいてくれ」
(どうしよう。今ので、急に深刻な気分が吹っ飛んだのだけど……)
きっとこの弟は、やる。兄が国王反逆罪になりそうなら、死刑台の上に首を載せられて、役人が斧を振り上げている最中でさえ、書類に血文字でサインをさせそうな気がしてならない。
けれど、ひきつっているディーナの前で、ガルディは呆れたような表情をすると、軽く腕を組んだ。
「で、何をしてこんなところに掴まっているわけ? ここは法務官尋問書にあった貴族の政治犯を秘密裏に収容するところだろう? さっき陛下が倒れたと上の方がこっそり騒いでいたけれど、まさか国王暗殺犯にでも疑われた?」
「まあ、遠からずというところだ」
「ふ、うん――」
(あ、この子、本当に見捨てるかもしれない)
少なくとも、兄が死刑になるかもしれない容疑をかけられていると聞いて、動揺しているようには見えない。それどころか、ひどく冷静な面を続けていることに、ディーナの背中を冷や汗が伝った。
けれど、イルディはこちらをじっと見つめている弟の変わらない表情に、にやりと笑う。
弟と同じ黒い瞳は、組んだ腕をこつこつと叩いているガルディの指をじっと見つめている。
「だから、お前に少し伝えたいことがあってな」
「何を――?」
表情は変わらないが、声はさっきより不機嫌なようだ。じろりと牢の中の兄を見つめると、指がとんとんと腕を叩き続けた。
「実は陛下に薬物がもられたのはこれが初めてではない。九日前にも、私がディーナに頼んで陛下に媚薬入りの食べ物を届けさせた」
(はあ!? なんで、ここでそれを暴露するのよ!?)
どう考えても、自分にとって不利な自白だ。それなのに、ガルディは指の動きを止めると、すっと眼鏡を持ち上げた。黒い瞳は、真っ直ぐに牢の中の兄を見つめている。
「へえ。そして、今それを僕に告げる理由はなんなの?」
「媚薬を混ぜるのに使ったのは、リオス殿下からアグリッナ様にいただいた菓子だ。そして、媚薬は私の部屋の寝台の床板の中に隠してある。小さな隠し扉だが――、ここまで言えば、お前なら十分にわかるだろう?」
かちゃりと、眼鏡から指を外す音が聞こえた。
「了解。じゃあ、精々うまく立ち回って、一族に累が及ばないようにしてよ?」
「お前ね。たまには素直に、心配しているから無罪を勝ち取れって言えないのか?」
けれど、小柄な背は振り返ることもなく、手を上げる。
「あまり時間がないからいくよ。成功しないと、本当に法務省に行くからね?」
「ああ――」
遠ざかっていく背中に、イルディは小さく苦笑する。
けれど、ディーナからすれば、何のことかさっぱりわからない。
「ええと……?」
首を捻るディーナにイルディは安心させるように笑いかけた。
「これで大丈夫です。ディーナ、貴女は陛下のお気に入り。いくらなんでも、陛下が亡くなられたりしない限り、秘密裏に処刑されることはありえません。だから、癪ですが、あの男の言葉を信じて、後は陛下の回復をお待ちしましょう」
「でも、今の証言って、かえって私達に不利になるものじゃないのかしら?」
媚薬はイルディの部屋。そして、以前にも陛下に薬物をもっている。
この事実だけで、十分国王反逆罪に問われかねない内容だ。
「ですから時間との勝負です。もし私の部屋を改められたら、全てが最悪の方向に転がります。幸い、陛下に毒がもられたことはまだごく一部の機密事項なので、ガルディが動けるうちに手を打たねばなりません」
「だから、どうやって……!」
けれど、イルディはまた優しくディーナの髪を撫でた。その手の動きがひどく優しくて、思わず言葉が出なくなってしまう。
「大丈夫。私を信じてください」
(どうして、この言葉がひどく心強く聞こえるのかしら?)
「何を考えているのかは、お教えしますから」
ふわりとしたイルディの笑顔に胸が詰まりそうになりながら、ディーナは、ただその黒い瞳を見つめた。
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