(2)裏切りの思い出

 イルディが帰った後、ディーナは二階の私室で、昼間の依頼を思い出しながら机の上に両手を組んでいた。


 思わず溜息が出る。


 座っているのはソファだが、この部屋には一階の応接間とは違い、華美な物は何もない。


 白大理石に見える机も、本当はよく似た紛い物だ。


(もう、金になるものは全て売ってしまった)


 一階に飾ってある絵画や壷にだって、本当は精巧な紛い物が幾つもまざっている。残った本物を全て手放せば、もう借金を返すあてはなくなるだろう。


(だから、今回の話を断る理由はどこにもないのだけど……)


 やはり躊躇ってしまう。


「まさか、王の籠絡とはね……」


 ふうとため息がこぼれる。


 今までも、貴族や金持ちならいくらでも騙してきた。


 男を騙して、多少の金を取る事に罪悪感など感じなかったし、向こうもディーナが金目当てに相手をしていることぐらいは気がついていただろう。


(だけど、今回はさすがに相手が違う)


 それだけに、組んだ白い手を見つめて、ディーナはまた溜息をもらした。


 けれど、さっきからのディーナの様子に、さすがに心配になったらしい。


「姉さん!」


 側で見ていた弟が真っ青になって口を開いた。


「僕は反対だ! 寵姫なんて言っても所詮愛人じゃないか!? それなのに遠い国の、しかも見ず知らずの相手に――」


「キュード」


 きっと扉の向こうで、イルディとの話を聞いていたのだろう。真っ青になっている姿に、ディーナは困ったように笑いかけた。


「でも、悪い話じゃないわ。相手は国王だというし。そこらの富豪の妾に比べたら何倍もましな話のはずよ」


「だからだよ! 相手は国王陛下だ。ほかの男を騙したりするのとはわけが違う! 不興を買えば、どんな目にあうか――」


 叫ぶキュードの顔は青くなっている。


 確かに弟の言う通りだろう。いくらロリコンとはいっても、相手は絶対権力者だ。王が自分の言動を気に入らなければ、それだけで死刑にすることもできる。


「第一、こんなことはもうやめようよ!」


「何を言うの?」


 キュードの言葉に思わず瞳を瞬く。


「だったらどうやって借金を返していくの? それに、お前が行っている学校の学費だっているし」


「僕も学校をやめて働くよ! 二人で真面目に働いたらいいじゃないか!」


「馬鹿を言わないで! お前ぐらいの年で、ちゃんとした学校も出ていない子供に、借金を返すどんな働き口があるというの!」


「だったら、この家を売り払ったら!」


 けれど、叫んだキュードにディーナは薄く笑った。


「屋敷さえ持たない身分になったら、それこそ学校はお前を通わせてはくれないわ。このオーリオでは富裕層かどうかの身分はうるさいもの」


 もしも屋敷を失い、学もない姉弟となれば、後は安い市場か日雇いぐらいの働き口しかないだろう。しかも一生だ。莫大な借金を背負った身で、日銭を稼ぐのが精一杯の暮らしになってしまえば、残された道は間違いなく破滅しかない。


「でも姉さんには、ほかにいくらでも自分の妻になってほしいという話が来ているんだし! わざわざこんな話にのらなくても、申し込んでくれた中の一人を選んで結婚したらいいじゃないか」


 その方が絶対に幸せになれるよとキュードは叫ぶ。けれど、ディーナは振り返ってはっきりと笑った。


「冗談! お断りよ!」


 そして、成長期を迎えたばかりの細い弟の姿を見つめる。同じ青灰色の瞳だが、短い茶色の髪に包まれたキュードの表情はどこかまだあどけない。


「あんな男達なんて、私が借金まみれと知ったら全員逃げ出すわよ! 社交界の悪の華と名高い私を、誰が落とせるかって勝手に遊んでいるだけなんだから」


「そんなこと……。きっと本気の人だって……」


「男なんてお断り! 私は誰も信じないの!」


(そう、あの夏の日から!)


 立ち上がったディーナの瞳の奥には、まだこの屋敷に物が溢れていた十四の昔が甦った。


 あの頃、まだディーナは今の郊外の別荘ではなく、このオーリオ国の都に住んでいた。


 広い豪華な屋敷は都の高級住宅街の一角に広がり、父の招いた貴族の子供達がよく緑の芝生の庭に遊びに来ては、ディーナを取り巻いていたものだ。


 その中の一人に、彼がいた。


「ルディオス!」


 父が商売の為に親しくなったのだろう。オーリオで下役人をしているという貴族の子供だが、毎日彼が遊びに来るたびに、ディーナは料理人に焼いてもらった菓子を籠いっぱいに入れて、急いで芝生を走っていった。


 周りには、幾人もの子供がいるがほかには目もくれない。


 視線の先で、薄い金の髪を翻しながら振り向いたルディオスの栗色の瞳が、笑った拍子に太陽の光に澄んでいるのを見ただけで、どきどきとして足が速くなってしまう。視線の先でルディオスが手をあげた。


「おう! 遅いから、朝着替えるついでに髪まで外して探しているのかと思ったぜ!」


「どうやったら髪まで取り外せるのよ!」


 咄嗟に言い返すが、ルディオスは涼しい顔だ。


「なんだ、違ったのかー。そんな変なくくり方をしているから、てっきり髪が見つからなくて、慌てて鬘で誤魔化したのかと思ったのに」


「これは――!」


(ルディオスに早く会いたくて!)


 だから急いで屋敷を飛び出して来たのだが、言い返すのにちょっとだけ足を止めたディーナの肩を、後ろから追いかけてきた乳母が慌てて掴んだ。


「ほら、お嬢様! だからおぐしを直しませんと」


「だってどうせ遊んだら崩れるし!」


「いけません! 淑女らしくなさいませ。またドレス姿で走って! 人前での嗜みをお考えなさいませ!」


 確かに言われたディーナの今の髪は、結い上げるのも邪魔だったので、簡単に紐で括っただけだ。


「いいじゃない! ルディオスは気にしないわよ!」


「ルディオス様がよくても、人は笑います。そろそろ化粧だってしてもよいお年なのですよ!?」


「いいじゃないか。ディーナはいつか俺の妻になるんだから」


 けれど、ルディオスは乳母から素早くディーナを奪うと、腕の中に包みこんで笑いかける。


 いつも繰り返して言われた言葉だが、こうしてルディオスの腕に包まれながら言われると、どきどきとしてしまう。


 ルディオスの薄い金の髪が、太陽の光に当たって眩しい。茶色の瞳が陽光に輝きながら自分を見つめてくるのに、ディーナは目を奪われた。


「第一、ディーナの良さはそんなところじゃないし?」


「本当に?」


「ああ。だから、大きくなったら、俺の妻になれよ? 俺なら、お前が化粧をしなくても、木登りが大好きでも何も文句は言わないぜ?」


「う、うん――」


 こんな風に言われると、赤くなってしまう。


 だけど、王子様のように端整な顔で微笑みかけられては、どうしたらいいのかわからない。ありのままでいいといわれたのが嬉しくて、思わずまっ赤になった顔を逸らした。


(しっかりしなさい! 私!)


 でも、本音ではルディオスならいいかなと、見上げてしまう。だって、何度も言われ続けてきた言葉だ。


(こんなに私を好きだと言ってくれるんだもん)


 だったら、ルディオスとなら結婚してもよいかもと、王子様のような容貌を腕の中からちらりと隠し見る。


 だけどこっそりと視線を上げたのに気づかれた。


「うん?」


 微笑んで尋ねて来る顔に、更に顔が赤くなって慌てて両手で隠す。


 けれど、その時握っていたリボンが指から流れた。


「あ……」


 見上げれば、手から離れたピンクのリボンは、吹いてきた夏の風に近くの枝へと飛ばされていく。


「俺が取ってこようか?」


「大丈夫。私が登ってくるわ」


 目で追えば、風で一番下の梢に引っかかっている。だから、ディーナはレースがふんだんについたドレスの袖をまくり、慣れた手つきで木の瘤を掴んだ。


「お嬢様! そんな危ない!」


「平気よ!」


 木登りなんて何度もしている。


 だから大丈夫と、節くれた幹に足をかけて登る。それなのに、今日に限って足が昨夜の雨で濡れていたところを踏んでしまったのだ。


「あ――!」


 落ちる! と思った瞬間、幹を滑った体は、すぐ下にいたルディオスに受け止められた。


「おっと!」


「ルディオス!」


 どさっという音と共に、彼の手の中に落ちていく。だけど受け止めたディーナの重みに、ルディオスの体も一緒に地面に転がってしまった。


「いってー!」


「ご、ごめんなさい。大丈夫?」


 けれども、ルディオスはディーナの下敷きになりながら笑っている。


「お前、本当にはねっかえりだなあー! 嫁の貰い手がないぞ!?」


「なによ! ルディオスがもらってくれるんでしょう!?」


 思わず言ってしまった。


 すると、ルディオスがディーナの言葉に目をぱちぱちとさせている。


 そして、にっと笑った。


「ああ――いいぜ」


 短い金髪の奥で、整った顔が笑っている。ルディオスの表情に、ディーナはやっと自分の言った言葉に気がついて口を抑えた。


 どれだけ頬が赤くなったか。でも、嬉しくて。だから、思い切り頷いたのだ。


「うん! なる! 私、ルディオスのお嫁さんに!」


 こんなにも私を好きだって言ってくれるルディオスのお嫁さんに。やっと自分の気持ちに気がついて、全身で抱きつくことで喜びを表した。


 それに回りにいたほかの男の子達が、ブーイングを鳴らしたことまで覚えている。


(それなのに、あの男!)


 ぎりっとディーナは、思い出した唇を強く噛み締めた。


 あれは十四の夏だった。父の経営していた商家の船団が、襲ってきた季節外れの嵐に、公海で相次いで沈んだとの報がもたらされたのは。


 知らせが届いた日から、家には連日たくさんの取り立て屋が押し寄せてくるようになった。父が不渡りを出す前に、少しでも金を回収しようしたのだろう。


 沈んだ船に乗せていた商品の代金の取り立てに、恐ろしい形相で押し寄せる人々。荒々しい声でかわされる怒号が怖くて、ディーナは必死に耳をおさえると、救いを求めるように裏口からいつもの庭へと飛び出していた。


「ルディオス!」


(怖くて)


 自分達がこれからどうなるのか。必死に走って、助けを求めるように、その日も庭に来ていたルディオスを探した。


 眩しい夏の日差しが池の水面をきらきらと輝かせている。汗ばむような陽気の中、ルディオスはいつもと同じように、池の側の木に凭れると、髪を振り乱して走ってくるディーナに笑いかけながら手を振った。


「よっ! どうしたんだ、今日はやけにたくさんの人が来ているな!」


 ルディオスの笑顔にほっとする。だからいつもと同じようにルディオスの腕に飛び込むと、こらえていたものが堰を切ったように泣きじゃくった。


「お父様の船が沈んだらしいの……! たがら、今家にすごい数の取り立ての人達が来ていて……!」


「えっ?」


「怖いのよ……! どうしたらいいの、ルディオス」


 それなのに、次の瞬間ディーナの手はルディオスに弾かれた。


「ルディオス?」


「なんだ。金がなくなったのか。ちっ、それなら今まで優しくしてやって損した――」


「ルディオス?」


 何を言われているのかわからない。


 それなのに、たった今まで優しそうだったルディオスは、見上げた視界の先で忌ま忌ましそうにディーナに舌打ちをしている。


「ルディオス……、私を好きだって言ってくれたわよね……? 私に妻になってくれって……」


 声が震えてしまう。けれど、ルディオスはひどくつまらないもののように、ディーナを見下ろしている。


「そんなの嘘に決まっているだろうが。お前の家が金持ちで、生涯困らなさそうだから優しくしてやっていたんだよ」


「なっ……!」


(今、言われたことが信じられない)


 だけど、ルディオスは白金の髪をかきあげて、ディーナを嘲るように見つめた。


「そうでなかったら、誰がお前みたいな女、本気で口説くと思っていたんだ? 髪はいつも暴れてぼさぼさ。十四にもなるのに化粧っけのかけらもない。自惚れんなよ? 金の力がなければお前みたいな女誰だって御免だ」


「ルディオス――!」


(よくも! よくもよくも!!)


 けれど、ディーナが掴みかかろうとした手は避けられて、そのまま地面に転がってしまった。泣きながら草を掴んでいるのに、見上げた先では、今まで優しかったルディオスは、転んだディーナの姿を鼻で笑っているではないか。


「あばよ、ディーナ。まあ、もう会うこともないだろうがな」


「ルディオス――!!」


 引きちぎれるほど草を握り締めた。どれだけの涙が玉となって、頬から手の中の草に零れ落ちたか。


 あの時の悔しさを忘れることができない。


(だから私は、男がいくら金を積んでも欲しくなるような女になると決めたのよ!)


 きっと、前を見つめるように青灰色の瞳をあげる。


 だから借金取りから逃げる間、自分達を匿ってくれた父のなじみの高級娼婦に、必死に女性として美しく見える方法を乞うた。


 借金の辛さはよく知っているからと――同情しながらも、化粧や女性として美しく見える立ち居振る舞いを教えてくれたのは、彼女自身それが女性の武器になると身をもって知っていたからだろう。


(そうよ! 男なんて信用できない!)


 苦境に陥ったあの日を境に、それまでディーナにちやほやしていた男の子達も、みんな掌を返すようにいなくなった。


「財産目当てに私に群がった男の子達だって、金で私をどうこうできると思っている男達だってみんな同じよ! 全員信じることなんてできないわ!」


「姉さん……」


 きっぱりと顔を上げて言い切ると、横でキュードが心配そうな眼差しを向けている。


 けれどディーナの瞳は、さっきまで座っていたテーブルの上にもう一度落とされた。白い石で作られた簡素なテーブルの端には、たくさんの請求書が封書のまま置かれている。


「だけど、このままじゃあ本当に、借金の為に娼館に身を売るしか方法がなくなるわね……」


 たった一つ残ったこの別荘にある物だって、ほとんど売り払ってしまった。


(残った物を全て売り払えば、後は、もう本当にこの身を売るしかなくなる)


 そうなれば、後はただ買われるだけの日々だ。


 金で。


 だからと、敢えてディーナは明るく笑ってみせた。


「そうなるぐらいなら、王の愛人の方がましよ。この体と美貌、できるだけ高く売りつけてやるわ!」


「姉さん……」


 心を決めて明るく笑うディーナを、キュードは心配そうに見つめた。


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