第一章 施設にて、とある一日

001 逃げ場もなく、僕たちは

 君は魂の存在を信じるかい?


 ——×××。××××××××××。


 ふむ。ただの概念、人間の妄想に過ぎないと。

 だがそれは“魂”という言葉をインターネットで検索した時に得られる答えと何ら変わらない。正しい答えは必要ないよ。

 君自身の答えが聞きたいんだ。


 ——××××。××××××。


 私が何者か?

 申し訳ないが、今はまだ言えないな。

 君が警戒する気持ちはわかる。だがこれだけは信じてほしい。

 我々は君の敵ではない。今はまだ、味方でもないがね。

 こちらの用件を伝える前に、まずは君のことを理解したいというだけさ。君が君の持つ力と、いま君自身が置かれている状況をどう捉えているか。それが知りたいだけだ。


 ——×××××。×××××××、××××××××!


 ああ、ずいぶんと混乱させてしまったようだね。すまない。

 今日はこの辺にしておこうか。

 また来るよ。

 君がこうして寝ている間であれば、私はいつでも君に会える。逆に君が私と話したいと思うなら、私のことを呼んでくれればいい。

 もっとも、目が覚めれば君はこの夢のことはすっかり忘れているがね。なに、元々夢ってのはそういうものだ。

 そうだね、じゃあ最後に、彼から君への言葉をそのまま伝えよう。


『君の能力は実に面白い。

 しかし それ故に——

 君と彼女の存在は、我々にとって危険だ』


***


 目を瞑っていると、またその声が聞こえてきた。

 実際に誰かが発声したわけじゃない。これは今朝見た夢の記憶だ。内容はよく覚えていないけれど、その言葉だけが頭の片隅にこびりついて離れない。

 僕が危険だって?

 危険というならば、それは今、僕を取り巻いているこの状況の方だ。目隠しをされ、視覚を奪われている。周囲には木刀を構えている大人が四人。痛い思いをしたくないならば“力”を使うしかない。

 だが——


 右後ろから攻撃の気配。

 身体ごと前に跳ぶ。そのまま前転し、勢いを殺さず前方へ駆け抜ける。すぐ後ろの床から複数の打突音。

 初撃はかわせたらしい。だがもう部屋の壁が近いはずだ。囲まれて追い詰められたら逃げ場がなくなる。

 覚悟を決め、両腕を交差して頭部を守った状態で突っ走る! 大きく右側から回り込みながら、敵のいるであろう位置へと距離を詰める。

 そして、ここだ。

「《影落としグリムリーパー》!!」

 その場でしゃがみ込み、思いきり身体を回転させて足払いを繰り出す。

 荒ぶる旋風のごとく敵の足を刈り上げれば、身体ごと砂塵と共に宙に舞い上がり、受け身も取れぬまま脳天から地面に叩きつけられ——すべからく落命する。

 それが我が秘奥義、《影落としグリムリーパー》。

 という展開には残念ながらならず、荒ぶる旋風は誰の足を払うこともなく壁に激突し、かかとを打撲しただけだった。

「いってええ!」

 痛みにのたうち回る僕に追い打ちをかけるように、背中に打突の衝撃が走る。

「ちょ、タンマ! 立てないって!」

 しかし彼らの手は止まらない。

 僕がいくら悲鳴を上げようと、四人の職員は打擲ちょうちゃくに加減を加えることはない。タイムリミットが来るまでは、血が出ようと骨が折れようと、たとえ気を失おうとも。

 端から見たらこんなのは、集団私刑リンチ以外の何物でもないだろう。しかしそれが彼らの仕事であり、僕に課されたプログラムであり、僕の日課なのだった。


***


「あんた馬鹿?」


 プログラム終了後、フィジカルチェック担当のお姉さんが、僕の体中にできた痣に簡単な応急処置を施しながら、ステレオタイプな罵声を浴びせてきた。

「まともに教育を受けてないから学力は平均以下でしょうね」

「またそうやってすっとぼける。あんまり大人を舐めてるんじゃないわよ」

 お姉さんは(毎日顔を合わせている彼女の名前を僕は知らない。いや、顔を合わせているとも言えない。何故なら彼女はその目元を分厚いゴーグルで覆っているから)呆れたように溜息をつく。

「これが学校のテストだとしたら、今日のは赤点どころかゼロ点ね。薬は投与しているのだから力は使えるはずなのに、わざと使ってないとしか思えないわ。こんなにボコボコに殴られちゃって、私の立場にもなってほしいものだわよ」

「僕、実はこうしてお姉さんに手当てしてもらいたくて殴られてるんです」

「あのね、そういう斜に構えたようなこと言うのがカッコいいとでも思ってるの? だいたい何よさっきのアレ。転げ回った挙句、壁に足を思い切りぶつけて、しかも《影落としグリムリーパー》だっけ? 技名を叫んだの? あの追い詰められたネズミみたいな動きは何かの技だったの? 十七にもなってそういうのって恥ずかしくないの? だいたい技の名称とルビが全く合ってないしセンスもないし、薄っぺらさが怪我以上に痛々しいのよ。しかもわざわざ二重山括弧をつけちゃうあたりがまた一段と」

「すみません勘弁してください!」

 心が折られる前に平身低頭する。

 ダメ出しが強すぎる。いや、そりゃ調子に乗りすぎた僕が悪いのだけど。

「はい、背中終わり。正面向いて」

 指示に従って椅子を半回転させる。スラリと伸びた足を組んで、お姉さんは悩ましげにため息をついた。

「もっと大怪我したっておかしくなかったのよ。制限時間が来るまで逃げ回ろうなんて絶対に無理だし、できたところで意味がない。能力を使わない限り、このプログラムは終わらないのよ」

 本格的なお説教になってきて、僕は反論できずに口をつぐむ。

「自分の能力が嫌い? それとも副作用が怖い? 気持ちはわかるけど、それも含めての訓練なの。あなたがここを出るためには、その力を完全にコントロールできるようにするしかない。そのためにあなたは痛い思いをしているのだし、私たちもこんな心が痛むことを続けなくちゃならない。わかっているでしょう?」

「面目ないです」

「……まあいいわ。そもそもこんな訓練が有効だとは思えないしね。まったく誰が考案したのかしら、こんな子供騙しみたいな方法」

「あの、そう思うなら今すぐ中止するよう掛け合ってくれません……?」

 それが本当なら、子供騙しどころかただの虐待だ。

「ムリよ。アタシにはなんの決定権もないんだから。それくらいわかってるでしょ」

 わかってるでしょ、が彼女の口癖らしい。

 もちろん、そんなことはわかっている。

「それに、こういうやり方が有効な子がいることは事実だしね。“症状”の内容や発動条件、発動限界、コントロールできる範囲や方法はケースバイケースで、元々のパーソナリティとか、精神状態やストレスとか、色んな心理的要素に左右される。今はまだ個々のケースごとに最適なプログラムを組めるところまで研究が進んでないってだけ。だからアタシが無駄と言ったのは、“君自身”に攻撃を加えるような方法は、君に対しては意味がないんじゃないかってこと。ただの勘よ。アタシはそっちの専門家じゃないしね。はい、それじゃ処置おしまい、お疲れさま」

 僕の頬をぺちと叩くと、ガーゼやら消毒液やらを仕舞い始めた。

 ゴーグルの奥の表情は読めないが、その声色から、面倒そうなハの字型の眉が透けて見えるようだ。

 この施設——背理性脳変異症候群専門研究センター、通称「更生センター」の職員は、僕たち患者と接する時には必ず、彼女のように目元を完全に覆うゴーグルを装着することになっている。シュノーケルやダイビングの時につけるような形状のやつだ。レンズはマジックミラーになっていて、こちらから彼らの目を見ることはできず、ただ自分の姿が映るのみ。

 “事故”を起こさないために必要な措置だというけれど、その視線の一方通行こそが、僕たちと彼らの関係性の象徴だ。

「勘違いしないでね」

 服を着ていると、お姉さんがぽつりと零すように言った。

「私たち大人は別にあなたたちを憎んだり疎んだりはしてない……恐いだけなのよ。少なくとも、こうして直に接してる私から言わせてもらえば、あなたたちは普通の子供と何も変わらない。こんなことを言われても信用できないかもしれないけど」

「信じてますよ。少なくともお姉さんのことは」

 袖に腕を通しながら僕は応える。

「顔が見えなくても名前を知らなくても、仕事だからだとしても、こうして僕たちと接してくれてるんだから、それで充分です」

 お姉さんの唇が、何か言いたげに開いた後、ぐっと固く閉ざされた。

「わかってるじゃない」


 処置室を出ようとして、ふと気になったことをお姉さんに尋ねてみる。

「伴動さんって、僕と同じプログラムなんですよね?」

「ああ、あなたの後の順番の子? あの子は……って、またそうやって私から聞き出そうとする! こないだはうっかり喋っちゃったけど、あんまり私を口の軽い女だと思わないことね!」

「そんな、とんでもないです」

 口が軽いなんて思ってない。知っているだけだ。

「他の子について喋るのは禁じられてるから詳しくは言えないの。だけど」

 そう前置きしつつ、口の軽いお姉さんは断言した。

「テストで言うなら百点満点ね」


***


 廊下を抜けて控え室に戻ると、プログラム用スーツに身を包んだ一人の女子が、ソファの上で目を閉じて正座をしていた。

 ……ソファなのに、正座。

 僕に気付くと目を開けたが、すぐにまた目を閉じてしまった。

 同じプログラムの人間が顔中を痣だらけにして帰ってきたら、そりゃあ目を背けもするだろう。しかも自分がこれから同じプログラムを受けるのだとすれば。

 とはいえ、彼女の顔には痣のひとつもない。キレイなものである。

 百点満点。つまりそれは、僕と彼女の性能差というやつなんだろう。

 伴動ばんどう奏子かなでこ

 ロングストレートの黒髪を横一直線に切りそろえ、武家の娘のような凛とした佇まいの正統派美少女。

 歳は同じくらいだろう。だが毎日顔を合わせているにもかかわらず、僕は彼女とほとんど会話をしたことがない。

 彼女は喋らない。

 僕がここに来てからの半年間、彼女の声を聞いたことは数えるほどしかない。声を発する時は必要最低限のことだけ。すれ違っても挨拶もしない。話しかけられたことは一度もないし、だから僕から話しかけたこともない。

 僕が目の前でプログラム用スーツから患者用の白制服に着替えている間も、彼女は身じろぎひとつせず、正座姿勢のまま、自分の名前が呼ばれるのをじっと待っていた。


『伴動奏子。入りなさい』


 機械的な声がスピーカーから流れると彼女は立ち上がり、僕の前を泰然と通り過ぎて扉へ向かう。

 その横顔からは何の感情も読み取れない。

「伴動さん」

 声をかけると、彼女は足を止めた。

「プログラム、大変じゃない?」

 伴動さんはこちらを向くこともなく、口を微かに動かすだけで、

「無意味な質問は嫌い」と。

「……でも、ずいぶんマシよ。あなたに比べれば」

 そう答えた。

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