第122話 時は満ちて、花は降る
半眼になってアスタロトの不真面目を責める若桜も、美濃と百合子から見ればよっぽど能天気である。とはいえ、百合子には物理的に境界線の姿は見ておらず、声だけの判断であるが概ね間違いはない。
「もー若桜もうるさい! 行くわよーだ」
傍目から見ればふざけている応酬を一方的に終わらせ、アスタロトは若桜の首に腕を回す。呆れに溜め息を漏らしつつも、若桜は彼女の要求に応じるように腰元を抱きとめた。
「じゃあ、始めましょうか、罰ゲーム!」
来訪者たちには高らかな宣言を、若桜には舌を出して可愛らしい挑発を残し、アスタロトは瞼を閉ざした。ペリドットの目が消えると同時、強い風が巻き起こり、一瞬、美濃たちの視界を塞ぐ。
自然のままに舞っていた花弁と氷結晶が吹き飛ばされ、その中心地に現れたのは鮮血の色を持った魔神。
鱗を煌かせる魔神は長い首をうねらせ、細身の身体から生えた翼を伸ばすと、しなやかな尾で地を打った。
「……第八世界境界か」
美濃の呟きをかき消すように、十数メートルの巨体はすぐさまに空へと飛び立つ。
アスタロトのいた位置が意志のある氷に襲われたのは寸秒の後。地から突き刺すように氷柱が立ち上った。敵を貫くことができなかった氷の剣は冷涼そのものだ。
急激に寒々しさを迎えた春の森は、この場所だけが依然に温度を下げ続けている。
「やあっぱすごいなあ、アイスワールド」
他人事の用に感想を述べた若桜は、手の中で気を失っている雅を近場に下すと、空いた手をぱちぱちと打ち鳴らした。感嘆の溜め息が漏れる。
滞空するアスタロトはそんな若桜の行動を咎めるように咆哮を上げた。彼女が依り代としている雅の身体を、清潔とは言えない地べたに寝かされたことが許せなかったのだろう。
「ったくもう、アスタロトはうるさいんだからぁ」
間延びした語尾はアスタロトの癇癪も、アイスワールドの攻撃も脅威を覚えていないようであった。
空からのしつこい唸り声に「はーいはい」と若桜は面倒臭そうに手を上げた。まるで太陽を掴み取るかのように、真っすぐに天へと伸ばされた手。
指を弾かせ、ぱちんと明快な音を鳴らす。
「おいで」
乾いた音はアスタロトを黙らせるための物ではなく、彼女を仕事に行くことを急かすものだった。
一帯の光が遮られ、影が差す。百合子はそうすることが自然とばかりに、暗くなった空を仰いだ。
「……嘘」
彼女は一瞬、目に映る光景を理解できなかった。
空には三匹の竜。
「……第八世界境界が、増え、た?」
アスタロトとまったく同じ姿の二体の魔神。
空を覆う赤の竜たちとアスタロトの明らかな違いは瞳の色だけである。金色をした瞳を輝かせる二体は、耳をつんざくような声で高らかに吼えた。この世に現れたことへの産声のようで、ぎゃあぎゃあと必死に喚く様はまるで存在証明のようである。
「アスタロト、いってらっしゃい」
上空から強い風圧が地に向かって押し寄せた。力強く翼を動かす三体の魔神が起こす激しい風、髪を靡かせ、服を煽る強風が続いたのはほんの数秒のことだった。
空を奪っていた壁は、一瞬にして姿を消す。
風も消え、騒音も消え、残ったのは不敵に笑う世界境界線と、対峙する険しい顔の侵入者たち。
「あの子たちはアスタロトの眷属だよ」
尋ねられてもいない質問に回答する若桜は、隠しもせずに喚び出した魔神を紹介する。ぼさぼさに乱れた髪を直し、身に着いた花弁はそのままで柔らかに微笑んだ。
百合子は美濃の影から覗き見るように世界境界線を窺った。テレビ越しに何度も見てきた青年は純粋で思ったままを言動に移す。彼に向ける恐怖心や敵対心はあるが、世界征服をたくらむ悪の根源というイメージからかけ離れていた。
「あれが”罰ゲーム”か?」
「そ、ゴールできなかったヒナくんたちへの残念賞」
姿を消した魔神の行く先は、この境界点の影響圏のどこかにいる他の侵入者の元らしい。
美濃の視点、アイスワールドの作った氷の針越しに見る若桜は、檻に閉じ込められた罪人のようである。咎を重んじている表情ではないが、その身が侵した罪は数え切れない。そんな若桜側から見れば、美濃たちこそ檻に入っているように見えた。
「さて、若桜ちゃんもお仕事しよーっと」
若桜は緩やかな足取りで美濃たちに近づくと、遮る巨大な氷柱の壁の前で立ち止まる。物理的な障壁。顔の反射する氷柱の一つに顔を寄せ、壊れ物に触れるようにそっと指先で表面を叩いた。
「瞬間でここまでできるのはすごいけど――」
水に伝わる波紋のように、青年が触れた場所から異変が広がっていく。
「ざんねーん! 若桜の前には意味がない」
氷は白い桜の花弁となって散った。姿を変え、山積みになった花は風に吹かれて、緩やかに積を減らしていく。 楽しそうな若桜は大きく両手を広げて、急造された花の中に埋もれていった。
「お前の? 境界点の間違いだろ」
「境界点の力を使ってるのは一ノ砥さんなんだから、一緒じゃない?」
白の中にいる若桜は花弁の海をかき分けながら、しっかりとした足取りで美濃たちとの距離を詰める。接近してくる敵に対し、アイスワールドはけん制にと氷の飛礫を打ち出した。
敵意を持って飛ぶ氷塊は標的にぶつかる前に花と変わる。次々と宙に舞い乱れる花吹雪の中、若桜はへらへらと身体を揺らしていた。
世界境界線の特殊さに真っ先に反応するのは、美濃を守る騎士である。守護する対象よりも前に出で、壁になろうとするアイスワールドは一歩、踏み出した。瞬間、自然と浮かんでいるようだった若桜の笑みが意図的なものに変わる。
「っ、動くな! アイスワールド!!」
「げっちゅう!」
同時に発せられた音、二人の男の声が重なる。
若桜はぱちん、と指を慣らし、人差し指をメルトレイドへ差し向けた。美濃は勢いよく振り返り、百合子の後ろ、控える機体を目に映す。
――はずだった。
そこにアイスワールドの機体はなく、淡い桃色だけが広がっていた。氷点下の根源を失った空気は急速に熱を巻き戻していく。
美濃はアイスワールドのいない空虚から、強制転移を起こした青年へと向き直る。
「ちょっと遅かったなあ。でも、良く気づいたね、一ノ砥くんがしようとしてたこと」
「……境界点の中で起こりうることの中で、土地の配置変更が一番厄介だからな」
「あは、魔神出現って言わないところがむかつく。だから人間って嫌なんだ。魔神よりも人間が優位だと信じて疑わない」
歩みを止めない若桜は美濃と百合子の目前にまで迫っていた。お互い僅かな表情の変化も判別できそうな距離、美濃は晒された片目を凶悪に釣り上げた。
「ここは境界点の影響が利いてる。中身出しとけばよかったのに」
中身、とはメルトレイドについている魔神のことで、若桜の言い分は確かに的を得てはいた。ここではアイスワールドが単身で動いても問題はない。
「いざとなった時の逃げ道にー、なんて強者感覚で惜しむからこういうことになるんだよ。まあ、原動力のないメルトレイドを動かす術がキミにあるかは不明だけど」
美濃と百合子は直接に攻撃する能力を持たない。アイスワールドと若桜の攻防を見ていれば、美濃の腰につり下がる拳銃も意味がないのは知れている。
今、境界線が戯れに世界と世界を繋ぎ合わせれば、抗う方法はなかった。
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