第96話 約束の地は何処にあるのだ
闇夜、と言うにはまだ時刻が足らず、空の濃度も足りない。
『午後七時になりました。こんばんは、第八世界境界線、一ノ砥若桜です。皆様、いかがお過ごしでしょうか』
放送自体はいつ何時であろうと、若桜の思うままにできるものだが、この時間帯での放送は初めてであった。
夜桜の中に立つ青年は元の色素の薄さのせいも相まって、薄暗さの中に溶け込んでいる。
ぎらぎらと輝く瞳だけが浮いていた。
『さあ。刺激的ショータイムの準備も整いました。明日の午後十七時、本格的に世界征服に着手して行こうと思います』
ひらひらと揺れる桃色の花弁に囲まれた若桜は、優しく笑みを浮かべる。まるでこの世のものとは思えない、亡霊のような儚さ。
『ここ二日に何があったかなんて、呑気に毎日を過ごしている人たちには分からないと思うけど、色々あったんだよー。でも、ま、他人面して身の危険も覚えられないなら、死んでたって一緒でしょ?』
今にも消えてしまいそうな夢幻の姿で、連ねる言葉に美しさはない。
『むしろ、死んだ方がいいよ。そしてその馬鹿を治して来た方がいい』
穏やかではないことを、静かに声にする。
背後にアスタロトの姿はなく、勿論、世界境界の器になっている雅の姿もない。
『若桜に異議があるなら、その時間までに言いに来てね。って言っても、十七時って、今からだとすっごく時間あるからなあ』
口許に手を当て、境界線は困ったなあと顔を顰める。
しかし、すぐに思いつめた表情は消えた。何かを思いついたのだろう。分かりやすく顔を明るくして、ばっと腕を広げる。
『明日の朝七時、十二時間後に前哨戦といこうか!』
詳細を説明をするわけではない。
恐らくは彼自身も明確の内容を決め切っていないのだろう。再度、時間だけをアナウンスし、若桜は満足そうに何度も頷いた。
『じゃあ、最後に皆様で黙とうを捧げましょう』
開いていた腕を下し、ポケットの中へと突っ込むと、若桜は一枚のカードを取り出す。ぴっ、と人差し指と中指に挟まれたカードは、所々に斑点の汚れがついている。
顔写真、配属、役職、名前――軍のIDカード。
『ちょっと早いですが、明日死する数多くの命と、――本日、命を落としたSSD日本支部、相島元帥の死を悼みまして』
若桜は瞼を落としてペリドットを隠す。
丁度、一分後、再びに目を開いた青年は柔らかく目を細めた。
『一ノ砥若桜はSSDが嫌いです。何も知らず、呑気に毎日を消費する人類も嫌いです。――魔神に押し付けた強欲と暴虐の罪を、今こそ償うのだ』
強制配信をされている映像を見ている人々は、若桜の嫌い、と言い放った対象が大多数を占めるだろう。しかし、若桜は憎々しさを見せてはおらず、むしろ愛おしそうにカメラ見つめていた。
『じゃあ、おやすみなさい。また明日ね』と別れの挨拶を告げ、ノイズと共に姿を消す。
この放送を見て、人々は何を思うだろう。
何も起こるわけない、とたかをくくる者もいれば、困惑し、取り乱すものもいるだろう。
境界線と直接対峙をすることのない一般人には、若桜の言葉に信憑性があるようでない。魔神を喚び従えている彼は異形だが、強行される殺戮を目撃出来ている者は無に等しいからだ。
若桜の悪戯な襲撃に遭遇した百合子は、自分がどうしたらいいのか分からなくなっていた。
「……」
「……」
半壊などと生易しいものではない。
屋根の九割を吹き飛ばされている屋敷の二階は、ほとんど使い物にならなくなっていた。辛うじて二階の床を天井としている一階も、雨が降るようなことがあれば目も当てられないことになるだろう。
所々と壁を失っている屋敷は、人が過ごすには心もとない。
しかし、そこにいるしかない美濃と百合子は、どうにか部屋の形を残しているリビングに揃っていた。テーブルに着く美濃と、ソファーに沈む百合子。
若桜の放送を見終え、今は電源の入っていないテレビへと、二人の視線は捕らわれたままだ。
「……」
「……相島」
呆然と、消えた画面から目を離せない百合子へ、美濃は痛ましげな視線を向ける。
そこには弔慰が滲んでいたが、珍しく分かりやすい美濃の同情を認識する他者はいない。
「……嫌いだった人を、死んだからって――いい人だったかも、なんてすぐには思えない。血の繋がった人なのに、家族なのに」
押し付けられた前触れのない悪報に、百合子は戸惑っていた。
亡くなったと聞かされた祖父のことを想っても、湧いてくるのは漠然とした虚無感。実感がないこともあるが、打ちひしがれる予兆もなく、涙は浮かびもしない。
「貴方のこと、人でなし、なんて言えないわね」
悲しめない己に自嘲がこぼれる。
自分の感情の置き場が分からなくなっている百合子へ「悼むのは、悲しくなってからで遅くねえよ」と美濃は気配りを見せた。
「死んだなら、帰ってこねえんだ。いつ悼んでも一緒だ」
宙を睨みながら、美濃は苦々しく声帯を震わせる。
百合子に対する配慮ではなかったのかもしれない。苦しげな美濃は、自分に言葉を言い聞かせているようだった。
百合子はちらりと、眼帯の青年を窺う。張り付けられた仮面はなく、感情を隠していない美濃はどこか幼く見えた。
「……ありがとう」
素直に礼が声に出たのを驚いたのは、聞かされた美濃よりも発言した百合子の方であった。美濃は「別に」と素っ気なく返すと、辛そうにしていた瞳の色を、いつもの冷めきった色に変える。
「オーディンを押さえたなら、鍵は脅威じゃねえ。一ノ砥的には満を持して、ってとこだろうな」
第一世界境界を連れ去ったと聞かされ、一番の鍵をも奪い去って行った若桜の次に取る行動は、宣言通りだろう。
ご丁寧に時刻の指定までしてきた境界線は、嘘をつかない。
前哨戦と称した何かが起こるのは明日の午前七時、本格的に征服行動に身を投じるのは同日の午後五時。
「タイムリミットは明日の十七時ってことね。……貴方は、どうするの?」
フロプトに身を寄せ、戦いの渦に触れる機会に恵まれた百合子にも、事態は呑み込めていた。
現実と思えない祖父の死を思考から切り離した彼女は、いたって冷静である。血も涙もない、と難癖をつける者はおらず、無理に悲しむことをしないで済むのは百合子にはありがたいことだった。
「薫もオーディンも取り返す。雅を問い質す。一ノ砥は殺す」
美濃は箇条に目的を上げながら、立ち上がる。百合子と向かい合うソファーに移動すると、長い足を組み上げた。鋭い片目は百合子を射抜く。
「――話の途中だったな。一ノ砥からのメッセージは見えたのか?」
仲の悪い二人がリビングに揃っていたのは、無事だった数少ない部屋がここだったからでも、若桜の臨時放送が始まったからでもない。
「ええ、見えたわ」
百合子は使いこなせない力を当てにされ、難題を課せられたが、何の問題もなく結果を出した。
時間ぎりぎりにでも間に合えば、と思っていた百合子はすぐに見出せた過去に自分を疑った。そして、確かめるようにもう一度、砕けた飴玉を手に乗せた時、一つの疑惑が百合子の中で実感に変わる。
「火事場の馬鹿力か? 随分早く終わったじゃねーか」
「……そう、なのかもしれない」
「あ?」
「――自分で、制御できるの。やっぱり物品の過去しか見れないけど、見たいと思った物にある一番強い過去が見えるの」
今や、百合子の持つ”過去を見る”能力は、手のつけられない暴発をするものではなくなっていた。
もう一度、と掴んだ飴から再び、同じ過去を見る。見たくない、と思えばその過去は途中であろうと終わった。
今までは触れるだけで、唐突に流れ込んできた映像を自分の意志一つで遮断もできることに、百合子は目を白黒させて一人動揺していた。それから、自分の持ちうるも物すべてで試してみたが、結果は変わらず。
「へえ」
驚きもせず、美濃はただただ、感心しているようだった。
百合子の覚醒には言及せず、美濃は無言の要求を訴える。彼の求めるものは一つ。レモン味の飴玉から見えた過去――若桜からのメッセージ。
強襲に訪れた境界線は、思いつきで飴を投げつけたようであったが、”道案内”と渡されたそれに何もないとは思えない。
「約束して。研究所に行くよりも、隼人との合流が先」
百合子は膝の上で拳を握り締め、有無を言わせぬ雰囲気で美濃に強気をぶつけた。
ぱちん、と眼帯に隠されていない瞳が瞬く。一瞬、呆気にとられたように目を見開かせたが、美濃はすぐに挑発的な色へと目を変えた。
「……本当、随分と絆されたな」
「借りがあるだけよ!」
食い気味で反抗する彼女の脳裏を占めるのは、能天気で優しさを溢れされる少年。
百合子が想えば想うほど、頭を占める存在は大きくなるばかりだった。今も亡くなった祖父を思いって喪に服すよりも、生きて戦いに身を投じようとしている隼人に対する心配が勝っている。
美濃は少し声を荒げた百合子に対し、さらりとした態度で「一つ、忠告して置いてやる」と言い放つ。
「ヒナがお前に親切で甲斐甲斐しいのは、惚れてるからでも、優しいからでもない」
「惚れっ――、誰が!」
「年上で、女だから」
美濃は足を組み変えると、声を詰まらせた百合子を目で辿る。
黒い髪、意志の強い瞳、清廉さを漂わせる佇まい。
弟の目から見ても、彼女の雰囲気は、隼人が心を捧げる姉に似ていなくはない。だからこそ、余計に隼人は百合子に気を回すのだろう、と美濃には推察できた。
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