第35話 一日の調子は朝にすべてが決まる

 四条坂第二高等学校図書室。

 隼人は図書委員会に所属していた。

 SSDの軍広報紙を仕入れてもらい、読み漁り、あわよくば廃棄前に回収する、という不純動機のためである。


 図書委員の仕事は貸出カウンターの当番と蔵書整理だ。

 しかし、テスト一週間前からテスト期間終了までは、貸出カウンター当番は司書が受け持つ。学生の本分は勉強、という至極当然の理由からだ。

 だが、私情から司書に媚を売る隼人は、テスト期間中であるにも関わらず、貸出カウンターに座っていた。


 本を借りに来る生徒は少ないが、勉強をしに足を運ぶ生徒は多い。

 私語厳禁である図書室も、テスト期間中はその縛りを見て無ぬ振りするのが、この高校の暗黙の了解であった。


「今日は騒がしいなァ」

「明日までテストだしねー」


 カウンターに勉強道具を広げる隼人の両脇を、図書委員ではない浩介と紗耶香が埋める。三人もその他大勢の生徒と変わらず、明日のテスト対策に問題集をさらい直していた。


「うわ、隼人、目ぇ開けたまま寝てるし」

「はっ? 静かにやってると思ったら……」


 器用に目をかっ開いたまま、ノートに視線を落として動きを止めた隼人。

 彼に耳を寄せると寝息の音がする。形としては勉強に打ち込む学生に違いないが、いかんせん手は微動だにしない。


「お袋さんに怒られたりしねぇのかな」

「あの雛日博士の息子って聞いたら、もっとガリ勉タイプかと思うわよねえ」

「偏見だけどな!」

「まあね」


 浩介は不意に目に入った隼人のノートを指で引っ張った。


「あんなに成績悪いのに、数学だけは異様にできんだよなあ」


 隼人のノートには、昨日のテスト範囲であった数学の問題が解かれている。どれもこれも、途中式が端折られているが、答えは合っているのだろう。赤丸しかなかった。

 しかし、今開かれているページが昨日の範囲ということは、今日の分はまるで手付かずということだ。


「公式さえ分かれば、解けない問題はない、とか言ってなかったっけ?」


 紗耶香は電子辞書を叩きながら、隼人の口調を真似る。


「科学はどうしようもねーのに」


「計算に必要なのが、数字とか文字だけじゃないから仕方ない」と今度はノートの持ち主が返事をする。


 すっかり乾いてしまった網膜を癒す為に、隼人はぎゅうと目を閉じた。それから、ふわああと大口を開けてあくびをする。


 隼人の毎日は、学生とレジスタンスの二重生活。それだけでも時間は足りないのに、昨日は異形の生体兵器相手に一戦を交えた。

 疲れを解消するには、一日分の睡眠ではどう頑張っても足りない。

 おまけに朝には、百合子のことで一騒動だ。


 思い出す、という言葉を使うほど過去ではない。今朝、隼人の部屋。

 持ち主ではない人間が、ベッドを占領していた。


「見た感じ、具合は悪そうじゃないけど」

「熱はないし、身体に異常もなし。疲れがでたのかしら」


 ベッドに横たわる百合子は静かに寝息を立てているだけで、傍目からは健康異常があるようには見えない。


 燦々と輝く太陽光が差し込む、清々しい朝。反比例して重苦しい空気の室内で、隼人と雅は座りながら、顔を突き合わせた。


 ここでは急遽病人が出たからと言って、救急車も医者も呼べないのだ。


「……精神汚染ではないんだよね?」

「だったら美濃が気づいてるわ」


 更に、倒れている少女は全国ネットのテレビ番組で捜索作業をされてしまう有名人。

 担ぎ出して駆けこむにも、それは彼女の決死の家出をすべて無駄にする行為である。


 しかし、もしも重病であるなら、悠長にしていることも許されない。

 仮定と予想を繰り返し、最良選択を悩む二人は、決断を迫られていた。

 真っ青な顔の隼人と難しい顔で口元を手で隠す雅。


「――酷い顔ね」


 二人は、同時に声の方へと首をひねった。寝た体勢のまま、顔だけを横にした百合子が呆れた瞳で「この世でも終わるの?」と棘を刺す。


「百合子さん!」

「うるさい」


 百合子は距離を詰めようとする隼人の顔を押さえるために腕を伸ばした。ぺちん、と隼人の額から間抜けな音がする。

 顔面に掌を受けた隼人は、そのままで「目が覚めてよかった」と胸をなでおろした。


「大丈夫? どこか痛いところはなぁい?」


 少年の代打とばかりに雅が百合子の額へ手を伸ばす。真っすぐの黒い前髪をはけ、するりと手のひらを乗せた。

 雅の手の温度よりも百合子の額の方が低温である。


「……、貧血よ。よくあるの」


 百合子は額の体温計代わりを払いのけると、のろのろとベッドから起き上がった。それから、時計の示す時間と未だパジャマの隼人を見比べる。


「遅刻するわよ」

「俺の遅刻より、百合子さんが心配だよ」


 隼人は距離を保ったままで百合子を伺った。確かに彼女の顔色は悪くはないが、それだけですべては判断できない。

 雅も隼人と同じく、情けない顔で百合子の様子を見ていた。


「問題ないわ。何かあれば言うのは分かってるでしょ? 気遣いありがとう、二人とも」


 百合子は薄い笑みを浮かべて、お礼を述べる。

 隼人と雅は、息をのんだ。

 彼女の口から、聞いたことのない種類の言葉。


 二人は聞き間違いか、とお互いの顔を見合わせ、アイコンタクトを交わすと秒速で結論を出した。

 声を合わせて「どういたしまして!」とにこにこ笑う呑気が二人。


 あまりの単純さに、彼らが反政府組織の中核であることを、百合子は度々に忘れそうになる。


「って、隼人! 本当に遅刻しちゃう!」

「え、あ、いってきます!!」


 さすがに馬鹿でも、その場で着替えるという行為はしなかった。

 隼人は両手に鞄と制服とを抱え、パジャマのままで部屋から飛び出る。


 右の掌は握ったままで、チャームの外れたチェーンだけがしゃらりと、指の隙間からこぼれていた。きらきらと朝日を受けて光っている。


 隼人はスリッパでぱたぱたと足音を立てながら廊下を走った。

 二つ隣の薫の部屋の前で足を止め、それまでの慌ただしさを押し隠し、静かに入室する。きっちりと朝の挨拶をして、寝たきりの薫に擦りよった。


 時間に追われていようと、習慣は変えられない。


 学生マンションに繋がる扉に身を投げた後は、すべての行為に最速を求め、努力するのみ。手早く着替えると、さっと身だしなみを整え、軽々しい鞄を引っ提げ、学校までの道のりを走り抜けた。


 遅刻こそしなかったものの、ゆっくりと休息する暇はなく、気づけば今日のテストは終わり。その足で図書館に入ったところまでは記憶にあったが、続きは覚えていない。


「うお、いつ起きたんだよ?」


 浩介が驚くのにも反応できず、隼人は「眠い」とだけ呟いた。


「でしょうね。目が死んでるわよ」

「一夜漬けか?」


 隼人はうんともすんとも言わず、ノートの上に腕を組み、逆らえない力のまま顔を伏せる。完全に寝る体勢を確立した隼人を、二人は止めなかった。


 少年が寝入るのに、時間はいらない。周囲の勉強に打ち込むざわつきも気にせず、隼人は驚異の寝つきの良さを見せた。

 隼人の両脇からため息が漏れる。


 紗耶香は英語、浩介は日本史の問題集を広げ、それぞれのペースでこなしていく。

 たまにカウンターに訪れる来客はすべて浩介が応接していた。誰が図書委員なのか分かったものではない。


「つうか、明日、午後から普通に授業とかねーよなー」


 沈んだ隼人は会話を遮る障害物にもならない。

 浩介は手元のノートから目を離さず、隣の隣に座る紗耶香に言葉を投げた。「まあねー」と適当な相づちが返される。


 飽きてしまった勉強に、浩介はちょっとした休憩のつもりで紗耶香に中身のない話を振った。彼女は浩介を無視はしないが、完全に勉強の片手間に相手をしているのだろう。

 紗耶香から話題を振ることはない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る