死神
月庭一花
1
世の中には流行り廃りというものがございまして……。
部屋の灯りは、黒雪に言われた通り、噺が始まる前に既に消されている。黒雪の両隣に置かれた燭台の上の和蝋燭——どこから持ち込んだものかはよくわからない——だけがちらりちらりと空気を舐めるように、頼りなげに燃え続けている。
……女子高生のスカートが短いのも流行りだというんですから、こりゃわたしたちの風紀は乱れる一方という道理です。ただ、なにも流行りというのは人間に限ったことではないようでして、これは神様にも言えることのようですね。江戸の時分には出開帳と申しまして……。
いまだまくらの部分を話し続ける黒雪の声は、どこまでも伸びやかだ。施設の入所者たちはもとより、わたしたちも真剣に、彼女の声に耳を傾けていた。
わたしたちの中では黒雪が、やはり群を抜いて噺が上手い。そんなことを思っていると、黄蝶が小さな声で、
「……やっぱりこれ、さ。『死神』だよね」
と囁いた。
「たぶんそうよね。……でもあの子、いったいなにを考えているのかしら」
わたしたち四人が落研に入部して最初にやらされたのは、知っている、もしくは聞き齧ったことのある噺を、とにかく先輩の前で一度喋ってみる、というものだった。そのときはその意図がさっぱりわからなかったのだが、中等部の落研から上がってきた子に対してはまずは小手調べといったところで、まっさらな新入部員に対しては、落語を実際に語ることの難しさを最初に知ってもらいたかったのではないか……などとわたしたちは勝手に解釈している。なのでたぶん来年も、わたしたちは同じことを後輩に対して行うのだろう。まあ、それはそれでいいとして。
黄蝶が『寿限無』を得意げに、
雲母が『猫の皿』を身振り手振りを交えて、
そして中等部では文芸部に所属していた枢李が、唯一知っている『まんじゅう怖い』をつっかえつっかえなんとか話し終えたあと、高校から編入してきた外様組である黒雪が、静かに設えてあった座布団の上に坐り、手をついて頭を下げた。そして語り出したのがくだんの『死神』だったのである。
そのときの黒雪は滔々と、まるで立板に水といった調子で淀みなく、三十分以上に渡って噺を続けた。何より自然に上下を切る様はとても素人芸には見えなかった。そのせいで後々、今はもう引退した三年生の先輩からあいつは可愛げがない、と言われたりすることにもなるのだが……。
彼女が死神の台詞を語るときのぞっとするような冷ややか声と、そのあまりにも白すぎる死人のような肌、そして濡れたカラスのような黒髪が、わたしたちの目に彼女が本当にこの世のものではないのではないかと、錯覚させたのだった。
嗚呼。今思えば、彼女はあのときから〝黒雪〟になったのだ。先輩から名前をいただくその前から、彼女は黒雪以外の何者でもなかったのだ。結わえた黄色いリボンがトレードマークの〝黄蝶〟よりも、目鼻立ちが整っていて常に華やかな〝雲母〟よりも、Jポップのくるりが好きだからと名をつけてもらった〝枢李〟よりも。彼女につけられた黒雪の名前は、彼女に似合っていたのである。
けれどもまあ、あまり好まれない神様もいらっしゃるようで、貧乏神、風邪の神、そして死神などというのがその最たるものでござりましょうか。偽りの、ある世なりけり神無月、貧乏神は身をも離れず……という狂歌が残っているくらいで……。
それは先々月のことだった。そろそろ一年生の恒例行事である慰問会の演目を決めようと考えながら、わたしたちが廊下を——目の悪い黒雪に合わせてのろのろ——歩いていると、後ろから不意に黒雪が袖を引かれた。黒雪に一瞬遅れて振り返るとそこに立っていたのは、雪のような銀色の髪をした一人の少女だった。
「ゆい?」
黒雪が小首を傾げながら、少女に言葉をかけた。少女はわたしたちの顔を順番に見つめて、けれども何も言わず、ただ、黒雪の袖を握りしめていた。わたしたちは不意のことでもあり、しばし茫然としていた。高等部の校舎に中等部の子がいるのはもとより、彼女のそのあまりの白さに、わたしたちは誰も声をかけられずにいた。
緊張した面持ちで立ち尽くす彼女の、黒雪よりもなお白いその肌は、まるで一幅の絵の、天使のそれのように思えた。
「……ええよ。あとでお部屋で、ね。……ゆい?」
黒雪が頬を撫でると、少女は顔を赤らめて小さく頷き、廊下を足早に去っていった。
「わたしあの子知ってる。中等部のええと……結望さん、だっけ」
黄蝶が黒雪を見上げて訊ねる。
「わたしも直接話したことはないけれど、知っているわ。あの外見は相当目立つもの。でも……黒雪ってあの子の知り合いなの?」
雲母も黄蝶と同じように、黒雪を見つめている。あとでお部屋で、という黒雪の言葉と、頬を撫でたその指の動きがなにやらある種の官能めいていて、わたしたちは得体の知れない甘い気持ちに浸されていた。枢李も思わず頬を染めて、黒雪の様子を窺っていた。
けれども黒雪はわたしたちには何も答えず、しばらく彼女が消えた廊下の曲がり角を、ぼんやりと見ているだけだった。
よせよ、おいっ。いっくらなんだって豆腐の角へ頭ぶつけて死ねるかってんだ。
死ねるよ、お前みたいな唐変木は。さぁっ、いくらでもいいからお金の算段をしといでっ。さもなきゃ家ぃ入れないよ。ほら行けってんだよ。……出てけっ。
出ていかい、こんちくしょうっ。ちぇ、しゃらくせぇや。あんな強い嬶てのはないね。なにが豆腐の角に頭ぶつけて死んでおしまいだってんだ。あーあ、なんだか生きてるのもめんどくさくなっちまったな。ほんとに死んじゃおうかな……。
あの日以来高等部の校舎であの子を見かけることはなかった。黒雪も彼女についてはなにも言わない。そのことが余計にわたしたちの好奇心を刺激して、わたしたちは黒雪には内緒で、あれこれと妄想の翼をたくましくさせるのだった。
かの少女を、最初に〝白雪〟と呼んだのは黄蝶だった。そのこころは、と雲母が問うと、
「黒雪の妹……みたいなものだから?」
「うーん」
「あ、あと見た目」
「そんな答えじゃ座布団はあげられない。枢李、黄蝶の座布団を一枚取って」
枢李は小さく声をあげて笑っている。
「でも、白雪姫って黒髪なのよね。雪のように白い肌、血のように赤い唇、そして黒檀のように黒い髪……まるで黒雪そのものみたいじゃない?」
枢李がそう言うと、さすがは元文芸部、と苦笑を返す黄蝶だった。雲母はけれど、どちらかというと黒雪は魔女っぽいけどな、と心の中で思っていた。
「だから、あの子はきっと、王子様なのよ」
「それもちょっと無理がある気がしない?」
「そうかしら。年上の姫君に甘く籠絡されてしまう無垢な王子様……素敵だわ」
「どこがよ。変な小説の読みすぎなんじゃないの?」
げんなりした顔の黄蝶が、小さな声で呟く。
「あら、そんなことを言うならもうあなたにはわたしのコレクション、貸してあげないから」
黄蝶が中等部の頃から密かに少女向けの官能的な小説——中にはBLと呼ばれるものも含まれている——を愛読していることを知っている雲母は、慌てふためく黄蝶を横目にくすくすと笑みをこぼしている。黄蝶と枢李、ルームメイト同士で本当に仲のいいことだ。……そして彼女たちを見ながらふと思う。黒雪と白い王子様は、それではいったいどんな仲なのだろう、と。
枢李の想像ではないけれど、黒雪があの白い王子様と睦みあう姿を思い浮かべてみるとそれはなかなかにエロティシズムを感じさせる情景に思えた。日頃からぼんやりとしているあの黒雪が、ベッドの中ではどんな言葉をかけるのだろう。どんな仕草で根際に誘うのだろうか。そして白い王子様は、それにどのように応えるのだろうか。絡み合う二色の髪が織りなす幾何学模様を夢想しながら、雲母は甘い溜め息をこぼすのだった。
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