天竺葵
結城 佐和
プロローグ
俺の父はプロレスラーだった。空手チョップを武器に敵をなぎ倒す戦闘スタイルから、「平成の力道山」と言われていたらしい。なんでらしいかって? それは俺が生まれる前にプロレスラーを辞めたからだ。プロレスを辞めた理由は母だ。母は暴力が嫌いだった。もちろん、プロレスは格闘技と言うスポーツだし、多少の暴力は致し方ないんだけど、それでも母は嫌だった。
父は母の事が好きだったし、ちょうど念願のタイトルも取ったこともあって、プロレスを引退した。そんなこんなで始まった父の第二の人生はロッククライミングだった。体力と運動能力に自信のあった父は、世界各地の数々の岸壁をクリアしていった。その中にはギアナ高地のテーブルマウンテンもあった。その時、頂上からの景色を見せてやろうと、生まれたばかりの俺をおぶって行こうとして母に怒られたらしい。父はがっかりしたようだったが、父が撮ってきた頂上からの写真を見て、俺は父の気持ちがなんとなく理解できた。頂上の下は、わた菓子が辺り一帯に敷き詰められたかのように雲が広がっており、そこはまるでおとぎ話に出てきそうな、下界から切り離された別世界に感じた。俺にもし子供ができたらその景色をじかで見せてあげたい。その時は普通に登山で行くと思うけど。
そんな父も病には勝てなかった。病名は詳しくは分からない。たぶん癌だろう。当時、俺は小学三年生だった。父の病室には赤い花が生けてあって、俺が名前を聞くとゼラニウムと教えてくれた。変な名前、そう言った俺に、父は、花にはそれぞれ花言葉がある、そう言って俺に宿題を出した。俺は花に興味はなく、父が出した宿題はすっかり忘れてしまった。
それからしばらく経った後、自分の行く末を悟ったのか、父は俺にお願いをした。そのお願いは、自分にとって大切な人――それは家族であったり友達であったり、それから愛する人(好きな人)であったり――は大事にし、困っていたら助け、守り、自分からは決して裏切ったり悲しませてはいけないと。もし、立ち塞がる敵がいたとしたらこれをお見舞いしてやれと言って、父はやせ細った手を手刀の様にして振り下ろす素振りを見せてくれた。それは父がプロレスラーとして現役だった頃、相手をなぎ倒した必殺技だった。父の伝家の宝刀をもらった俺は父と指切りをした。
指切りげんまん
嘘ついたら
空手チョップくらわす
指切った
そう言って微笑む父の頬はやせて窪んで見えた。それからほどなくして父は死んだ。
父と最後の別れをするとき、父の眠る桶には好きだった銘柄のタバコ、プロレス衣装、それから家族で撮った写真などいろいろなものが備えられている。その中に、最後、母が備えたものがあった。それは病室にもあった赤いゼラニウムの花だった。その花を見つめる俺を見ながら母は言った。お父さんこの花が好きだったんだ、その声は涙で掠れて、目も真っ赤だったけど、その表情は何か懐かしい思い出を偲ぶかのように温かさがあった。俺の名前も妹の名前もこの花の名前からとったと教えてくれた。俺はすっかり忘れてしまっていた宿題の答えを母に聞いた。それを聞いた母は屈み、俺と妹を抱き寄せ、開くことのない父の目を見ながら震えた声を絞り出すように言った。『君ありて幸せ』父は母や俺、妹が元気にいてくれるだけで幸せなんだと。母に出会った時も、母と一緒にいるだけで幸福を感じ、だから母と結婚しようと思ったんだと。それを聞いた俺は、今までは名前で弄られることがあって自分の名前が好きじゃなかったけど、その日からこの名前に対する弄りを気にすることが無くなった。
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