第99話 要求3
「何事か!」
「まさか、もう兵を動かしたのでは?」
「貴様ッ! この場は、我らを足止めするための策略であったか!?」
外の騒ぎを敵の強襲と判断した家臣たちが、
対して青峰は、訝しげな顔で広間の出入り口を見つめていた。
「誤解なされますな。某に、安宅家を貶めるつもりはありませぬ。あれはおそらく、血気にはやった者たちが、勝手に騒ぎ立てているだけのこと」
「この期に及んで、まだ戯言を抜かすか!?」
「嘘ではありませぬ。お疑いならば、某が外の者たちを沈めてまいります」
眦を吊り上げる
と、障子に差し掛かった青峰が足を止めた。
「何者ですか、あなた方は?」
頓狂な声に、初は隣の小夜と顔を見合わせる。
先ほどまでの落ち着きぶりからは、考えられない声だ。
広間の入口に立った青峰の背中からは、強い困惑の感情が伝わってきた。
広間の者たちがざわめく中、初の耳に「姫様ぁー!」と叫ぶ声が聞こえた。
「姫様!
面食らった初は、思わずその場で立ち上がっていた。
一歩を踏み出しかけ、慌てて直定を振り返る。
直定が無言でうなずくのを見た初は、急いで広間の入口に走り寄った。
「喜多七!? お前、どうしてここに……?」
青峰を押しのけた初は、庭に立つ喜多七を見て驚いた。
「初姫様、お味方でございます! お館の囲みを解こうと、村の者たちと共に馳せ参じましたぞ!」
外の喚声は、矢作村の男たちが群衆を追い散らす声だと喜多七は言った。
その顔は赤く紅潮し、とても老人とは思えぬ溌溂とした気力に満ちていた。
「儂はそれをお伝えしようと、一足先に参った次第でして」
「貴様……どうやって館の中に入ったのじゃ? 門は閉ざしておったはずだろう?」
信俊の疑問に、喜多七は「これ、このお方ですじゃ」と背後を振り返る。
「うぬかる殿が、儂を背負うたまま塀を跳び越えて下さったのじゃ」
庭木の陰から、白い姿が現れる。
久しぶりに再会したウヌカルは、相変わらず美麗な顔をはにかませる。老人とはいえ、人ひとりを背負ったまま堀と塀を跳び越えるような力が、あの小柄な身体のどこに眠っているのか。
初たちに注視されたウヌカルは、ますます身を縮込めて、木の陰に戻ってしまう。
その姿に、ひょっひょっと喜多七は笑い声をあげた。
「儂らだけではございませぬ。鍜治場の衆や木地師共。唐人町の
呆気にとられる初の横で、青峰はみるみる顔色を失っていく。
塀の縁をぼんやりと照らしていたはずの松明が、次々と数を減らしていく。
やがて、勝鬨を上げる声が響くに至って、青峰の激高は頂点に達した。
「お、お前たちはっ……! いったい、どういうつもりじゃ!? これは海生寺のっ……!」
「それはこちらの台詞ですな、青峰殿」
怒りに震える青峰を、喜多七はひたと見据えた。
この小柄な老人のどこにそんな力が眠っていたのか。喜多七の眼差しには、初でさえ思わず後退るほどの気迫が込められていた。
「安宅の殿様に刃を向けるとは、どのような了見か。儂らは皆、安宅の殿様には、
飢饉で困っておった儂らに、米を送ってくださったのは、いったい誰か? 嵐で崩れた山を直すのに、人手を貸し与えてくださったのは?
まさか青峰殿、お忘れになったとは申しますまいな?」
「むろん、
青峰は、鋭い目で初を睨んだ。
「見よ、この姫の格好を! この者がまとう衣一枚に、どれほどの財が費やされているか!
その財は、お前たち領民から搾り取った税によって賄われているのだぞ!? お主はこの者の姿を見て、何とも思わぬのか!?」
「……ふむ。それは明国で貴人が身に着けなさるという、唐織の着物ですな」
目を細めた喜多七に、青峰はしめたとばかりに口角を吊り上げた。
「そうじゃ。この衣一枚で、帯一筋でどれだけの者が救えると……」
「姫様。その衣は、少々地味ですぞ」
は? と青峰は、口を開ける。
初の格好をしげしげと眺めまわした喜多七は、口元を歪めると、
「その萌黄色の地が、いかにも地味ですな。帯の柄も、ちと控えめすぎるかと」
「そ、そうか?」
初は、自分の格好を見下ろして首を傾げる。
つい最近、紀州屋から仕入れたばかりの代物だ。値段のほうも相応のはずだが、喜多七は、むしろみすぼらしいと渋い顔になる。
「そのお召物では、姫様のお美しさが引き立ちませぬ。他に、もっとよい反物はなかったのですかな? なんでしたら、都の職人どもを呼びつけて、もっと良い品を作らせては?」
「いや、それはさすがに……」
初は困惑した。
これほど高価な品物ばかり身に着けるのは、初でさえ気が引けるというのに、喜多七はまったく気にする素振りがない。
それどころか、ここが良くない、もっと良いものを買うべきだと、さらに高いものをすすめてくる。
「いや、あの、喜多七? こういうのって、やっぱり高いからさ。そうぽんぽん買うわけには」
「なに、安宅家の稼ぎならば造作もないこと。それで初姫様の美貌が引き立つのであれば、安いものですわい」
これちょっと逆じゃないだろうか? と、初は思う。
もっといけ、がっといけ、と訴える喜多七に、いやいやまあまあと宥める初。その奇妙な構図に自失していた青峰は、ふいに顔を上げると、
「な、なんだこれは!? いいいったい、何を考えておる!?」
青峰は叫んだ。
「我らは安宅家の不義を咎めるために、ここへ来たのだ! それを貴様らは、何をふざけたことを……!」
「別にふざけてなどおりませぬよ、青峰殿。儂は思ったことを、素直に言うたまでのことじゃ」
青峰の糾弾もどこ吹く風。喜多七は、飄々とした態度で言い放った。
「儂らは、安宅家の
それに安宅家の方々は、儂らが作ったものを、遠く海の向こうへと運び、高値で売りさばいてくださる。それで儂らの懐も潤うんじゃから、文句など言うたら罰が当たりますわい」
「だが、この姫の行いはどうじゃ!? この初が造った物によって、お主たちは戦をする羽目に……」
「それこそ、お門違いですな」
喜多七は、ぴしゃりと切り捨てる。
「姫様がお作りになられた風車は、儂らの村の田畑に慈雨の如く水を注いでくれておる。日々、次の雨はいつか? ため池が枯れはしないかと心を悩ませていた儂らを、姫様はお救いくだされたのじゃ。この御恩、儂らの一生を掛けても返しきれませぬ。
だというのに、姫様は儂らに何の見返りも求めませなんだ。それどころか、他に不便なことはないか? 欲しいものはないかと、足繁く村に通うてくださるのです。これほどありがたいお方に出おうたのは、青涯和尚様以来ですじゃ」
喜多七は初に微笑みかけると、厳しい顔で青峰を睨みつけた。
「この御恩に比べたら、唐織の一着や二着がなんだというのです。寺で説法を垂れ、
「なんと愚かな……」
「愚かで結構。青涯和尚様の名をかたり、恩知らずな真似をするより、はるかにマシですからな」
それより良いのですかな? と、喜多七は白くなった顎髭を撫でつけながら、
「青峰殿が、言葉巧みに呼び集めた者たちは、とっくに追い払われましたぞ。もはや外に、お味方はおられませぬが」
息を詰めた青峰は、周囲を見回した。自身を取り囲む安宅家の郎党たちを目にした顔が、小さく歪む。
「どうやら、何か誤解があるご様子」
直定は、青峰を正面から見下ろした。
普段は内政家として手腕を振るう直定だが、武人としても相当な腕前である。鍛えられた肉体は、痩せた青峰の手足など、簡単にへし折れるだけの力を秘めていた。
「今宵はもう遅い。ここは一度お帰りになり、お身内の方々と、再び話し合われては?」
柔らかいが、どこか底籠るものを秘めた直定の声に、青峰は後退る。
(これで終わり……か?)
初は、詰めていた息を吐き出した。
一時はどうなることかと思ったが、喜多七たちが来てくれたおかげで、人死にが出ることだけは避けられそうだ。海生寺との関係が気掛かりだが、それだってこれから話し合えば──
そう安堵しかけていた初たちのもとに、一つの影が駆け込んできた。
「一大事でございます!」
何事かと直定たちが身構える。信俊が刀を向けた先、塀を乗り越えて現れた人影は、崩れるようにして館の軒先に跪いた。
「あれ? ……蜘蛛丸さん?」
目の前で、ぜえぜえと息を荒げた蜘蛛丸は、怪訝な顔をする初を一瞥した後、直定に向かって報告した。
「日置浦の沖に、堀内家の軍船が現れました!」
ざわりと空気が揺れる。
直定たちの動揺を尻目に、青峰は「来たか!」と喜色をあらわにした。
「どうやら、刻限が参ったようです。某はこれにて、退散させていただきく」
青峰は深々と頭を下げると、慇懃無礼な態度で言い放った。
「これより、身内と話し合わねばなりませんからな?」
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