第86話 誤算1
もう他に方法はなかった。
いや、この言い方は正しくない──
最初から、この方法しかなかったのだ。
わかっていたくせに、なにかと理由を付けて先延ばしにしていた。見栄と安っぽいプライドが邪魔をして、本当にやるべきことを後回しにしてしまった。そのせいで、いったいどれだけの犠牲が出ることになったのか……
矢代村で、爆発騒ぎがあった翌日。初は、早朝から日置川をさかのぼり、海生寺へと足を運んでいた。
事ここに至った以上、もはや手段を選んでいる余裕はない。水は、人間の命の源だ。このまま矢代村の水利争いを放置すれば、遠からず死人が出る。
問題を早期に解決するためには、青涯和尚の力を借りるしかない。それが初の下した決断だった。
「姫様、もう少し真ん中へ。あまり端へ寄ると、盾で庇いきれませぬ」
「う、うん」
川舟に乗った初の後ろでは、菊が静かに目を光らせていた。
昨日の一件では、危険な場所に一人で飛び出して行ったと、後でこっぴどく叱られた。しばらくは外出禁止を言い渡されそうになったが、事がことだけに放置もできない。なんとか菊を説得し、海生寺まで護衛を付けることで納得してもらった。
舟には初と菊の他に、護衛として夜叉丸と岩太が乗っている。
軍船に取りつける楯板を担いだ二人は、初の左右を守るように
「矢代村の一件があった以上、手は抜けませぬ。不心得者が、いつ何時、姫様を襲うとも限りまぬゆえ」
「でも、これはちょっとやり過ぎじゃ……」
「初姫様は、安宅家の姫でございます。これでも少ないくらいかと」
あまりごねると、今度は安宅家の家臣団まで引っ張り出しかねない。初は諦めて、菊の好きにさせることにした。
一向宗とのいさかいが原因か、まだ早朝だというのに、海生寺の門前は物々しい。槍を担ぎ、鎧を付けた男たちが、あちこちを歩いている。
櫓の上に立った弓兵を見上げつつ、初は海生寺の門を叩いた。
「……なんです、こんな朝早くから?」
のっけから不機嫌なレイハンに、菊の眉がぴくりと反応する。
冷ややかな眼差しを注ぐ菊に対し、レイハンも眼光を強めて対抗する。
このままでは怪獣大決戦が勃発すると感じた初は、慌てて用件を告げた。
「和尚様に会いたいんだ! 悪いが、通してもらえないか?」
しばし菊と睨み合ったレイハンは、初の必死の懇願に息をつくと、
「中でお待ちください。和尚様は、畑に出ておりますので」
菊たちを
「いや、遅れて申し訳ない」
粗末な野良着姿で現れた青涯は、ぺこりと頭を下げた。
手足の先を土で汚した姿は、そこらへんの百姓と変わらない。麦わら帽子をかぶり、領内を歩き回る青涯は、今やすっかり安宅荘の名物となっていた。
「畑を見回っていたら、思ったより時間が掛かってしまった。本当に申し訳ない」
「いえ、押しかけたのはこっちですから」
茶室の中を歩き回っていた初は、真っ黒な青涯の前に腰を下ろす。
あれだけ決意してきたのに、本人を前にした途端、急に緊張が込み上げてきた。
黙り込む初に、青涯が怪訝な顔をする。毎日、あちこちの畑に出向いているせいか、その顔は、以前にも増して日に焼けていた。
真っ黒な顔に浮かぶ瞳は、少し青みがかって見える。それがやけに不気味に感じて、初は小さく喉を鳴らした。
「そ、そうそう! 実は、先生に渡したいものがあって!」
眉根を寄せる青涯に、初は場の雰囲気を変えようと、声を上げた。持ってきた荷物の中から、いくつかの巾着袋を取り出す。
「これ、
「おおっ、それはそれは」
青涯は巾着袋を手に取ると、いそいそと中身を確認し始める。巾着袋に入っていたのは、大量の稲や麦、雑穀などの種子だった。
農業技術の指導に加えて、海生寺では稲や麦などの品種改良も行っている。
寒さや渇水に強く、収量の多い品種を生み出せれば、食糧事情も安定する。少しでも優良な品種を手に入れようと、青涯は海外の稲や麦まで集めていた。
目標に向けて日夜努力している青涯だが、品種改良は時間の必要な作業だ。一つの品種を生み出すのに、最低でも十年は掛かる。
それまでの繋ぎとして、青涯は雑穀や野菜の種子も収集していた。
「ジャガイモか、サツマイモが手に入ればいいんだが。こればっかりは、南蛮人に頼るしかないからねぇ」
初と二人きりになると、青涯はよくそう言って愚痴っていた。
時は、戦国。ヨーロッパで大航海時代が始まり、ここ日本にも多くの外国人が訪れるようになった時代だ。海外からは、鉄砲や時計などの珍しい産物と共に、様々な植物も持ち込まれるようになった。
現代では、当たり前に栽培されているジャガイモが世界に広まったのも、この時代だ。青涯は、九州や五島列島の知り合いへ頻繁に手紙を送り、この奇跡の作物を手に入れようとしているが、なかなか成果は上がらない。少しでも飢えに苦しむ人を減らすため、青涯は有用な植物の種子を、常に探し求めていた。
一つ一つ、丁寧に植物の種子を検分する青涯。その真剣な面持ちに、さらに話しかけ辛くなる初。
もじもじと時間の流れに身を任せていた初は、このままではいけないと気を引き締め直し、
「あ、そういえば! 堺で、先生のお弟子さんと何人か会いましたよ」
日和ったわけではない。断じて話を逸らそうとか、時間を稼ごうとか、そういう
初は、必死で笑顔を取り繕いながら、
「皆さん、いろんな土地から引く手あまたみたいで。そりゃあもう、忙しそうにしてましたよ」
今や青涯和尚と海生寺の名は、西日本一帯に広がっていると言ってよい。近頃は東海や関東、北陸、東北地方にも広まりつつあるという。必然、青涯の技術指導を求める声も高まっていた。
海生寺は、そうした求めに応えるべく、各地に青涯の弟子を送り出していた。
「みんな、元気そうにしていたかな? 働き過ぎて、体調を崩していないといいんだが」
手のひらから顔を上げた青涯は、気遣わしげに眉尻を下げる。
むしろ体調が心配なのは、青涯のほうである。毎日、畑に出て農作業をし、相談を持ちかけられれば、どこへでも足を伸ばす。
初の耳へ届いた話だけでも、その激務のほどがうかがい知れるほどだ。実際には、それ以上に働いているのだろう。
領民たちの中には、青涯が身体を悪くしはしないかと、気にかけている者たちも多い。レイハンの機嫌が悪いのも、青涯の働き過ぎが原因だろう。
そこへ、さらに負担を掛けるのかと思うと、初は胃が痛くなってきた。
「み、皆さん頑張ってるみたいでしたよ?
「わにおう?」
おっと、と初は口元を押さえた。これは、口止めされていたんだった。
堺での騒動が終わった後。初は和邇王について、光定たちに問い質していた。
あの胡散臭い格好に、話し方。とても青涯の弟子だとは思えない。もしも詐欺師の類なら、きちんと対処する必要がある。
とりあえず、一発シメてやろうと思っていた初に光定は、「あれは青涯殿の弟子で間違いない」と言った。正確には、青涯が医療技術を教えた医者の下で働いていたらしい。
寺社には、多くの怪我人や病人も、助けを求めてやってくる。この時代、書物は貴重品だったが、寺社には書物が大量に収蔵されていた。そこには医学書も含まれており、僧侶の中には医療知識を身に着けている者も少なくない。そうした人々が、患者の治療に当たるのだ。
海生寺が創建された頃から、青涯は領民の治療を行ってきた。衛生の概念を伝えたり、応急手当をするだけだが、それでもこの時代では重宝される。また海生寺の僧侶には、明からやってきた人間も多い。その中には、漢方の知識を持っている者も存在した。それらの知識を集めれば、他の寺社よりもマシな治療ができるというわけだ。
和邇王は、そんな海生寺の噂を聞き付けた患者の一人だったらしい。海生寺の医術に感銘を受けた和邇王は、医者の下働きとして寺に出入りするようになった。そうして医術を身に着けた和邇王は、渡辺津へと移り住み、医者を始めたのだと光定は言った。
「貧しい者たちの病を癒すうちに、祭り上げられたらしい。河原者たちから
青涯は、自分が教えた知識を利用して、私腹を肥やす者を嫌っている。
本来ならば、和邇王も断罪されるべき存在だ。しかし、堺近郊の河原者たちに影響を及ぼす和邇王の存在は、それなりに有用でもある。
光定と青海は、海生寺の名を利用しないことを条件に、和邇王の所業を見逃していた。
この話は青涯には秘密であり、他言無用と口止めされている。それを思い出した初は、慌てて話題を転換した。
「そ、そうそう! お弟子さんの一人が、今、三好家に仕えるてるらしいですよ!」
「ほう、それは初耳だね。いったい、誰のことだい?」
「たしか、
「……今、なんて言った?」
青涯の顔色が変わった。
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